僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~兵庫県加西市 法華山 一乗寺~

2019-08-16 07:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「法華山 一乗寺」には“法道仙人がインドより紫雲に乗じて中国・朝鮮を経て、谷は蓮華の如く峰は八葉に分かれた当山に降り止まり、山を法華山と名付けた。”という縁起があります。
実際に参拝してみると、確かに幾つかの峰に囲まれた山間の地に一乗寺はあり、八葉の蓮華の縁起が語られてきたのにも頷けるものがあります。

一乗寺の周辺は山間ということもあって自然が多い地域です。あちこちから夏鳥の囀りが聞こえてきます。
到着した時にはまだ駐車場の管理人の方が来られていなかったこともあり、周辺を散策して非常に野鳥の密度の濃い場所でのしばしの探鳥会を楽しむ。



一乗寺は650年に法道仙人を開山として創建され、988年に花山法皇が御行幸された折に「金堂」を「大悲閣」と命名し、“西国三十三所巡礼の第26番札所”に定められたといいます。
法道仙人を開基とする寺院には、同じ兵庫県にある西国25番札所の「清水寺」や西国番外札所の「花山院」があり、他にも播磨地方には法道仙人ゆかりの寺院が幾つか残っているようです。

この一帯に飛鳥時代から仏教文化が栄えていたのは、ひとつには北九州に来た渡来人が瀬戸内を通り、四国や中国地方に痕跡を残しながら畿内へ入ったという推定があります。
北九州ルートや北陸ルートなどを通って畿内へ入ってきた渡来人の集団が幾つかあったのだと思われます。



現在の一乗寺の入山口に山門はありませんが、寺院の入山口から500mほど東と、入山口を通り過ぎて500mほど西の場所にはかつての山門が残されています。
一旦入山口を通り過ぎて「西の惣門」へ向かい門を探すと、西の惣門は加西市と加古川市の市境の場所にありました。
かつての惣門を確認したあと加古川市に数m入った所でUターンして戻る。



再び一乗寺の入山口を通り過ぎて、今度は東の惣門へと向かいます。
東門も西門も簡素な造りの門ですが、かつては巡礼道を歩いてきた人々がこの門を抜けて寺院に参拝したと思われ、この両門の位置からしてかつての一乗寺の境内が非常に広かったことが伺われます。
東門の先には巡礼道が残されていてやや荒れた道にはなっていますが、今もこの道を歩いて巡礼される方がおられるのだろうと思われます。
 




一乗寺の境内に入るとまず鎌倉期の「石造笠塔婆」が総高2.9mののっぽな塔身が目に入ってきます。
笠塔婆には1316年の銘があるといい、頂部には蓮弁の請花と宝珠があしらわれています。
この丁石は金堂まで1丁(約109m)を示しているといい、巡礼者の道しるべとなっていたのでしょう。



笠塔婆の少し奥で受付を済ませながらも気になるのは急な傾斜の石段です。
この石段は60段程度だったと記憶しますが、一乗寺の本堂(金堂)までにはこんな石段が三つありました。
石段の段数については“まだあるのか?”“これで終わり?”と受け取り方は人によって様々だと思います。



最初の石段を登りきったところに建てられているのは「常行堂」。
この御堂は、念仏を唱えながら本尊の周りを回る常行三昧の修行道場で、天台宗の寺院に建てられることが多いといいます。
建物は聖武天皇の勅願によって建立され、焼失を経て1553年に再建されたものの焼失してしまい、明治初年に再建されたものが残ります。



2つめの石段を登った先にそびえ立つのは国宝の「三重塔」。
建立は平安時代の1171年で、塔身が上へ行くほど小さくなり、その率は特徴的なほど大きい。
各層の照り起くりが美しく、繊細な組物の見事さもあり、優美な塔という言葉がしっくりとくる塔です。



三重塔は本堂(金堂)へと続く石段からも眺めることが出来るため、いろいろな角度から見られるのも山の斜面に建てられた一乗寺ゆえの光景です。
一乗寺の三重塔は高さが約22mあるとされ、奈良・京都にある塔を除けば現存する最古の三重塔だといいます。



金堂へと続く石段が最後3つ目の石段となり、緑に覆われた石段を登って金堂へと向かいます。
金堂の扁額には花山天皇が命名したと伝わる「大悲閣」の文字が読み取れます。
初代の金堂は650年に創建され、数度の焼失を経て1335年・1562年・1628年に再建され、現在の金堂は1628年に姫路藩主・本田忠政による建立で重要文化財に指定されています。





金堂の正面は懸造の舞台となっており、景観が良さそうな造りになっている。
この造り方ですので当然正面からは入れず、裏面の登り口から入ることになります。
裏面の登り口の前には手水があり、金堂が仏殿として独立した存在となっているとも言えます。





外陣は西国三十三所の札所特有の熱気のある場所となっており、多くの奉納額が掛けられています。
格子の障壁で仕切られた内陣には入ることは出来ず、中を覗き込む事は出来るようになってはいましたが、ビニールが貼られているためよく見えない状態です。



外陣で興味深いのは天井に花が咲いたように打ち付けられた納札の紋様です。
これは江戸時代の巡礼者が納札(木札)を参拝の証として天井に打ち付けたものだといいます。
外陣の柱にも無数の釘跡が残っていましたから、当時は命懸けだったであろう西国巡礼への想いが込められた札なのでしょう。



懸造の舞台から見る三重塔は、この山中にあって木々に埋もれるようにしながらも存在感を感じさせてくれます。
金堂の外周の廊下や舞台から見る風景はほぼ周囲の山の峰しか見えませんから、一乗寺はまさしく八葉の蓮華の峰に降り立った蓮華の谷と言えるのだろうと思います。



さて、蓮華の花咲く浄土とは対称となるのが「奥の院」の「賽の河原」です。
金堂の裏から奥の院にある「開山堂」への幽谷の道を向かうことになります。



開山堂は開山法道仙人を祀る堂宇で、1667年に建立されたといいます。
シンプルな御堂に見えますが、龍や獅子などの美しい建築彫刻を施した建造物です。



開山堂から更に昇ると「賽の河原」があるといいますが、入口は見当たらず、賽の河原へは開山堂を取り囲む柵を自分で開けて進むことになります。
賽の河原は、冥土の三途の河原で子供たちが石を積んで塔を作るが、鬼に壊されてまた石を積む場所。
登り道は急傾斜ではないが、中々足が進まず、張られたロールを頼りながら登って行く。



道の横には岩の上を水が這うように滴っているが、これは三途の川に見立てたものとも見て取れる。
しかし川というような水量などなく、六文銭を持っていても渡し舟には乗れませんね。



道は巨石がある場所で行き止まりになっており、ここが賽の河原となる。
洞窟のような穴の前には無数の石の塔が積まれていて、悲しみに満ちたこの空間には怖れを感じてしまいます。





民間信仰での賽の河原では、子供たちが石で塔を完成させても鬼が壊すが、地蔵菩薩によって救われるとされます。
この賽の河原にも穴の奥に数躰の石仏地蔵が祀られていて、苦しむ衆生の救済をされているのでしょう。



一乗寺の伽藍は国宝の三重塔、重文の金堂(本堂)の他にも重文の「御法堂(鎌倉期)」「妙見堂(室町期)」「弁天堂(室町期)」などの伽藍があり、年に2日しか公開されないという宝物館には飛鳥時代から奈良時代の仏像が安置されているといいます。
播磨の地に飛鳥時代から大きな仏教圏が築かれていたのは意外でもあったのですが、渡来人の国内での拡がりを考えると納得する面があると思います。
また、播磨の一帯に溜池が数多くあることにも独特の風土が感じられて興味深いですね。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『紫香楽宮と甲賀の神仏-紫... | トップ | 「おちょぼさん」参拝~岐阜... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山」カテゴリの最新記事