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“男のためのガーデニング”改め

日野町の勧請縄1~「馬見岡綿向神社」「熊野神社」~

2023-01-17 06:33:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は村の境や神社の鳥居や参道に吊るして、村に悪霊や疫病が入って来ないように呪物などを付した縄を張る習慣とされ、道切りとよばれることがあります。
滋賀県では湖東地方や湖南地方にみられますが、湖北地方や湖西地方では稀なものとなり、滋賀県以外では三重県の伊賀地方・京都府南山城・奈良県東部など限られた地域でしか行われないようです。

勧請縄はそれぞれの集落ごとに特徴があり、近い集落では似たようなものがある場合がありますが、基本は集落独自の形となっています。
勧請縄の中心にはトリクグラズという呪物が付けられ、祈祷札や弓、木の葉や枝で造られた円形や四角のもの、セーマンであったり、蛇や角など魔除けの意味の強いものなどがある。



過去2~3年の間、滋賀県の勧請縄を見て回っていましたが、既に止められている村やコロナ渦で見送られている村も多々あり、失われつつある民俗行事になりつつあり、可能な範囲で主に湖東地方を巡っています。
勧請縄は神仏との関わりが感じられますが、野神信仰や山の神信仰に近い部分もあり、ひとつの信仰というよりも民俗的な信仰・行事の意味合いが感じられます。
最初に参拝した「馬見岡綿向神社」では神社の境内の入口に勧請縄が吊るされていました。



勧請縄には「下がり」と呼ばれる12本の小縄が吊るされており、中心部から端にむかって長さが短くなっているのは1年の各月の日の長さを表しているといいます。
主縄の上にも12本の小幣が挿し込まれていて、中央にはトリクグラズが吊るされる。



トリクグラズは2つの円で“日”と“月”を表しているとされます。
「馬見岡綿向神社」は後方の綿向山を神体山として崇める神社であり、月と日・月の長さを表すことは五穀豊穣の祈りが込められているのかもしれません。



勧請縄が吊るされた2本の木の下にはそれぞれ6本づつの小幣が挿し込まれています。
小幣が挿し込まれるのは日野町の勧請縄の特徴だとされますが、これもところによっては祈祷札であったり、十三仏であったりで集落によって様々な特徴があります。



「馬見岡綿向神社」は神武天皇の時代に「綿向山」に出雲国開拓の祖神を祀り、545年欽明天皇の時代に綿向山の山頂に祠を建てたのが始まりとされます。
平安時代の796年になると里宮として現在の地に祀られたといい、御祀神に天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命の3柱を祀る。

綿向山山頂(標高1110m)に祀る奥之宮(大嵩神社)は、古来より21年目ごとに社殿を建て替える式年遷宮が現在も絶えることなく続けられているといいます。
馬見岡綿向神社には境内入口に鳥居はなく、社殿が並ぶところに銅鳥居があるのですが、境内は広く社殿も重厚なまでの立派な造りとなっています。



当地は鎌倉期から安土桃山時代に蒲生氏の領地で、蒲生氏が氏神として庇護したことや、江戸時代に日野商人(近江商人)の財力などで支えられたことが繁栄につながっているようです。
手水には柚子と鬼柚子(獅子柚子)が浮かべられており、少し珍しくも季節感を感じることができる手水となっています。



拝殿は1803年の再建とされ、本殿とともに重厚さを感じる建物となっており、今年の干支の卯の大絵馬が吊るされています。
正月や松の内に神社に参拝すると各神社独特の大絵馬を見ることができるのも参拝の楽しみになります。



本殿は創建が796年、再建が1707年とされていて、銅板葺きの屋根は昭和58年までは檜皮葺きだったそうです。
千鳥破風と唐破風が3層になっているように見えるので重厚感を感じるのだと思います。(滋賀県有形文化財)



欽明天皇の時代に綿向山に2人の豪族が猟に来ていた時、大雪の中で大きな猪の足跡を見つけて頂上まで行くと、白髪の老人(綿向山の神)から御託宣を受け祠を建てたという。
以降、馬見岡綿向神社では神使として「猪」をお祀りされており、平成31年には亥年にのみに奉製授与される「猪の焼き印入り絵馬」授与されました。



境内を歩いているとジョウビタキの♂がひょっこりと現れてくれました。
付近の森にはシロハラやシジュウカラ・コゲラ・ヤマガラなどの姿があり、しばらく参拝から野鳥観察に切り替えて周辺を歩いてみました。



日野町で次に訪れた勧請縄のある神社は「熊野神社」ですが、熊野は滋賀県の端っこに位置する集落になり、綿向山の山麓になり、鳥居や本殿の後方には綿向山の峰が聳え立ちます。
「熊野神社」は平安末期の鳥羽天皇の時代に紀伊国熊野三所の大神を勧請して創建されたと社殿に伝わり、神体山である綿向山が修験道の拠点であったことから紀伊の熊野と関わりがあるようです。



怖ろしいほど静まり返った山村に祀られる神社の鳥居には勧請縄が吊るされ、トリクグラズを除けば馬見岡綿向神社の勧請縄と同じような形式となっている。
勧請縄には集落ごとの独特の形式を持つものが多いが、近隣地域特有の似たような形式のものもあり、その地域のつながりを感じ取れるのも面白いと思います。



トリクグラズはサカキの枝を束ねずに丸を作って主縄の上に立てる形状のもので、日輪(太陽)を表しているという。
方角的には太陽は綿向山の方から登ると考えられますので、まさに日が昇る神体山をお祀りする神社ということがいえるのかと思います。



小幣は鳥居の左右の木の切り株に12本づつ挿し込まれており、6本づつ挿し込まれた馬見岡綿向神社とは違いが見られます。
鳥居の横もそうですが、境内を本殿まで行く間に巨樹や伐られた巨樹の切り株などが見られて、神社の歴史の深さとありのままに近い姿が残された神社だと感じ入ります。





神社の手前の道は「弓取りの神事」の場でもあり、「おろち塚」と呼ばれる塚の場所に的を吊るして矢を入る神事があるのだといいます。
その真横には「熊野神社のタコ杉」と呼ばれるタコを逆さにしたような巨樹があり、幹周7.2m樹高20m推定樹齢400年とされますが、形状はこの地の積雪の厳しさを物語っているのかもしれません。



「熊野神社」には過去にも参拝したことがありますが、鳥居には勧請縄・鳥居前には珍妙な形の巨樹・後方に見えるは綿向山の峰・境内には山の神や野神の碑もあります。
山岳信仰や修験道・神道に民俗信仰の色合いが色濃く残り、古い時代からの信仰の名残りが感じられる集落です。


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