滋賀県では栗東歴史民俗博物館開館30周年記念展「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」と、大津市歴史博物館の開館30周年記念企画展「聖衆来迎寺と盛安寺」が開催中です。
開館30周年を迎える両博物館が開館されたのは、2館ともに平成2年(1990年)で、世はバブル景気に沸きつつもバブル崩壊が間近に迫ってきていた頃となります。
いわゆる箱物行政の産物ではありますが、博物館が開館されて今もその恩恵にあやかれるのですから、ありがたいことであり、好景気に沸いた時代ゆえの成果ともいえます。
今回は近江の正倉院こと「聖衆来迎寺」の寺宝と、珍しい四臂の十一面観音像に代表される「盛安寺」の仏像などが100点近く公開されています。
企画展は「1.坂本城と下阪本の社寺」「2.盛安寺」「3.聖衆来迎寺の名宝」の3部構成となっています。
「3.聖衆来迎寺の名宝」では(1)聖衆来迎寺の歴史、(2)元応国清寺、(3)聖衆来迎寺の経典・聖教、(4)聖衆来迎寺の仏像、(5)聖衆来迎寺の工芸、(6)聖衆来迎寺の絵画と続きます。
今回の企画展の目玉は、「3.聖衆来迎寺の名宝」での『国宝 六道絵(鎌倉期)』となり、15幅全てが県内で展示されるのは36年ぶりとのこと。
朝イチに到着しましたが、来場者は予想よりも多く、待ち望まれていた企画展との印象を強く受けました。
「盛安寺」からは四臂の「十一面観音立像(平安期・重文)」「聖観音立像(平安期)」、片袖の阿弥陀と呼ばれる「阿弥陀如来立像(鎌倉期)」、「地蔵菩薩立像(鎌倉期)」...。
会場内で撮影可だったのは「十一面観音立像」のみでしたが、盛安寺で拝観した時よりも距離は近く、目の前で拝観することができて細部まで見ることが出来たのはありがたい。
同様の事が「片袖の阿弥陀」や「聖観音立像」にも言え、「地蔵菩薩立像」に至っては像内納入品まで見ることが出来たのは博物館での展示ならではといったところです。
少し違和感を感じたのは「聖観音菩薩立像」で、盛安寺の収蔵庫で見た時とは随分と印象が異なります。
美しい仏だと感銘を受けた記憶(写真も)があるのですが、なんか綺麗になっていたように見える。
盛安寺 収蔵庫の「聖観音菩薩立像」
盛安寺は穴太衆を輩出した土地とされる坂本にある天台真盛宗の寺院で、室町時代の文明年間(1459~87年)に越前・朝倉氏の家臣・杉若盛安が再興したといいます。
白洲正子さんは「十一面観音巡礼」の中で、盛安寺の十一面観音は奈良時代末に十大寺と称された「崇福寺」に祀られていた仏像だと言い伝えられていると書かれています。
また十一面観音と地蔵菩薩の2つを合体したものがこの四臂の十一面観音像といえないだろうかとも書かれています。
十一面観音の多くは左手に蓮華を生けた花瓶を持ち、右手を垂下している姿が主ですが、この十一面観音は花瓶は持つものの、本来は地蔵菩薩が持つ大錫杖を右手に持ちます。
長谷寺の十一面観音像も同じように二臂で右手に大錫杖を持っていますが、盛安寺の十一面観音とは似ても似つかない。
錫杖は厄災や魔を祓う法具とされ、地蔵菩薩は衆生を救う菩薩。
十一面観音は苦しんでいる人を救済する菩薩。
十一面観音の頭上にある11の化仏は、苦しんでいる人を見つけやすいように全方位を見つつ、時に人をなだめたり、怒ったり励ましたり笑ったりもする。
大津市で明智光秀ゆかりの寺院としては、光秀の供養塔や光秀一族の墓のある「西教寺」、江戸時代に「明智寺」と呼ばれていた「盛安寺」、光秀の坂本城の城門を表門として移築された「聖衆来迎寺」となる。
「聖衆来迎寺」は1001年、源信がここで弥陀聖衆の来迎を感じたことが寺名の由来となっているといい、宝物の多さから「比叡山の正倉院」の呼び名を持つ寺院です。
源信は恵心僧都の尊称を有し、『往生要集』を書いた人として名を知られ、浄土信仰を広めた僧として知られています。
六道絵は、源信が示した死後の世界のイメージを絵にして表現したものとされ、聖衆来迎寺の「六道絵」15幅はその思想を怖ろしくも儚い人の死を表しています。
配布されていた読み解き開設付きのパンフレット
六道絵はまず死後に閻魔大王によって裁きを受ける「閻魔庁図」から始まり、「等活地獄」「黒縄地獄」「習合地獄」「阿鼻地獄」の怖ろしくい永遠の苦痛に苦しむ姿が描かれます。
地獄道の次には「餓鬼道」「畜生道」「阿修羅道」の三道が描かれるが、飢えと渇きに苦しむ餓鬼やただひたすら使役されるだけの畜生。終始戦い続ける修羅などどの世界にも苦しみが溢れている。
「人道」は儚くも無常な「不浄相図」、生・老・病・死の四苦を描いた「苦相図」、人生の無常を描いた「無常相図」と我々が生きる人道にも儚くも生きる人の姿が描かれます。
六道最後の「天道」は、さぞかし楽しい竜宮城のような場所かと思いきや、煩悩から解き放たれることがないため、死が近づくと異臭を放ち醜くく老いて嫌がられるようになる。
解脱せず六道を回っている間は、どの世界に行っても救われないということを教えているのでしょう。
聖衆来迎寺の「六道絵(鎌倉期・国宝)」は複数の美術館や博物館に寄託されているといい、「閻魔庁図」が京都国立博物館での『西国三十三所 草創1300年記念 聖地をたずねて」で公開されたのは記憶に新しいところ。
また、聖衆来迎寺では年に一度、「六道絵」の虫干しをされていますが、その際に公開されるのは江戸時代の模本となります。
色彩は模本の方がはっきりと読み取ることが出来ますので、比較してみるのも面白い。
大津市歴史博物館の仏像を含む企画展では、撮影可のコーナーに1躰だけ撮影してもよい仏像が展示され、今回は「盛安寺」の「十一面観音立像(平安期・重文)」でした。
エントランスには半丈六の「地蔵菩薩坐像(平安~鎌倉期)が展示されていて、こちらも撮影が可能となっています。
今回の企画展の図録は、大津市歴史博物館のHPには載っていなかったのでないのかと思っていたら、ミュージアムショップに平積みで置かれていたので、さっそく購入。
美術館や博物館に行くとつい図録を買ってしまいますが、見てきたものをもう一度写真や解説で見直せますし、時間がたっても記憶を蘇らせることが出来ますので便利なものです。
図録
おまけは来場者が希望すればもらえる大津絵のシオリです。
絵柄は「鬼の寒念佛」で、僧衣をまとった慈悲深い姿をしているのとは裏腹に、中身は鬼(偽善者)という風刺画。
聖衆来迎寺の工芸・絵画で興味深かったのは、寺院の玄関から本坊に向かう入口の上に掛けられていた」という「鬼型像(室町期)」という像で、「角大師」のお札の木造立体版ともいえます。
また、「両面曼荼羅図(鎌倉期)は、厨子の中の両面に胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の18センチ角ほどの曼荼羅が納められた珍しいものでした。
さすが近江の正倉院と呼ばれるだけのことはありますね。
開館30周年を迎える両博物館が開館されたのは、2館ともに平成2年(1990年)で、世はバブル景気に沸きつつもバブル崩壊が間近に迫ってきていた頃となります。
いわゆる箱物行政の産物ではありますが、博物館が開館されて今もその恩恵にあやかれるのですから、ありがたいことであり、好景気に沸いた時代ゆえの成果ともいえます。
今回は近江の正倉院こと「聖衆来迎寺」の寺宝と、珍しい四臂の十一面観音像に代表される「盛安寺」の仏像などが100点近く公開されています。
企画展は「1.坂本城と下阪本の社寺」「2.盛安寺」「3.聖衆来迎寺の名宝」の3部構成となっています。
「3.聖衆来迎寺の名宝」では(1)聖衆来迎寺の歴史、(2)元応国清寺、(3)聖衆来迎寺の経典・聖教、(4)聖衆来迎寺の仏像、(5)聖衆来迎寺の工芸、(6)聖衆来迎寺の絵画と続きます。
今回の企画展の目玉は、「3.聖衆来迎寺の名宝」での『国宝 六道絵(鎌倉期)』となり、15幅全てが県内で展示されるのは36年ぶりとのこと。
朝イチに到着しましたが、来場者は予想よりも多く、待ち望まれていた企画展との印象を強く受けました。
「盛安寺」からは四臂の「十一面観音立像(平安期・重文)」「聖観音立像(平安期)」、片袖の阿弥陀と呼ばれる「阿弥陀如来立像(鎌倉期)」、「地蔵菩薩立像(鎌倉期)」...。
会場内で撮影可だったのは「十一面観音立像」のみでしたが、盛安寺で拝観した時よりも距離は近く、目の前で拝観することができて細部まで見ることが出来たのはありがたい。
同様の事が「片袖の阿弥陀」や「聖観音立像」にも言え、「地蔵菩薩立像」に至っては像内納入品まで見ることが出来たのは博物館での展示ならではといったところです。
少し違和感を感じたのは「聖観音菩薩立像」で、盛安寺の収蔵庫で見た時とは随分と印象が異なります。
美しい仏だと感銘を受けた記憶(写真も)があるのですが、なんか綺麗になっていたように見える。
盛安寺 収蔵庫の「聖観音菩薩立像」
盛安寺は穴太衆を輩出した土地とされる坂本にある天台真盛宗の寺院で、室町時代の文明年間(1459~87年)に越前・朝倉氏の家臣・杉若盛安が再興したといいます。
白洲正子さんは「十一面観音巡礼」の中で、盛安寺の十一面観音は奈良時代末に十大寺と称された「崇福寺」に祀られていた仏像だと言い伝えられていると書かれています。
また十一面観音と地蔵菩薩の2つを合体したものがこの四臂の十一面観音像といえないだろうかとも書かれています。
十一面観音の多くは左手に蓮華を生けた花瓶を持ち、右手を垂下している姿が主ですが、この十一面観音は花瓶は持つものの、本来は地蔵菩薩が持つ大錫杖を右手に持ちます。
長谷寺の十一面観音像も同じように二臂で右手に大錫杖を持っていますが、盛安寺の十一面観音とは似ても似つかない。
錫杖は厄災や魔を祓う法具とされ、地蔵菩薩は衆生を救う菩薩。
十一面観音は苦しんでいる人を救済する菩薩。
十一面観音の頭上にある11の化仏は、苦しんでいる人を見つけやすいように全方位を見つつ、時に人をなだめたり、怒ったり励ましたり笑ったりもする。
大津市で明智光秀ゆかりの寺院としては、光秀の供養塔や光秀一族の墓のある「西教寺」、江戸時代に「明智寺」と呼ばれていた「盛安寺」、光秀の坂本城の城門を表門として移築された「聖衆来迎寺」となる。
「聖衆来迎寺」は1001年、源信がここで弥陀聖衆の来迎を感じたことが寺名の由来となっているといい、宝物の多さから「比叡山の正倉院」の呼び名を持つ寺院です。
源信は恵心僧都の尊称を有し、『往生要集』を書いた人として名を知られ、浄土信仰を広めた僧として知られています。
六道絵は、源信が示した死後の世界のイメージを絵にして表現したものとされ、聖衆来迎寺の「六道絵」15幅はその思想を怖ろしくも儚い人の死を表しています。
配布されていた読み解き開設付きのパンフレット
六道絵はまず死後に閻魔大王によって裁きを受ける「閻魔庁図」から始まり、「等活地獄」「黒縄地獄」「習合地獄」「阿鼻地獄」の怖ろしくい永遠の苦痛に苦しむ姿が描かれます。
地獄道の次には「餓鬼道」「畜生道」「阿修羅道」の三道が描かれるが、飢えと渇きに苦しむ餓鬼やただひたすら使役されるだけの畜生。終始戦い続ける修羅などどの世界にも苦しみが溢れている。
「人道」は儚くも無常な「不浄相図」、生・老・病・死の四苦を描いた「苦相図」、人生の無常を描いた「無常相図」と我々が生きる人道にも儚くも生きる人の姿が描かれます。
六道最後の「天道」は、さぞかし楽しい竜宮城のような場所かと思いきや、煩悩から解き放たれることがないため、死が近づくと異臭を放ち醜くく老いて嫌がられるようになる。
解脱せず六道を回っている間は、どの世界に行っても救われないということを教えているのでしょう。
聖衆来迎寺の「六道絵(鎌倉期・国宝)」は複数の美術館や博物館に寄託されているといい、「閻魔庁図」が京都国立博物館での『西国三十三所 草創1300年記念 聖地をたずねて」で公開されたのは記憶に新しいところ。
また、聖衆来迎寺では年に一度、「六道絵」の虫干しをされていますが、その際に公開されるのは江戸時代の模本となります。
色彩は模本の方がはっきりと読み取ることが出来ますので、比較してみるのも面白い。
大津市歴史博物館の仏像を含む企画展では、撮影可のコーナーに1躰だけ撮影してもよい仏像が展示され、今回は「盛安寺」の「十一面観音立像(平安期・重文)」でした。
エントランスには半丈六の「地蔵菩薩坐像(平安~鎌倉期)が展示されていて、こちらも撮影が可能となっています。
今回の企画展の図録は、大津市歴史博物館のHPには載っていなかったのでないのかと思っていたら、ミュージアムショップに平積みで置かれていたので、さっそく購入。
美術館や博物館に行くとつい図録を買ってしまいますが、見てきたものをもう一度写真や解説で見直せますし、時間がたっても記憶を蘇らせることが出来ますので便利なものです。
図録
おまけは来場者が希望すればもらえる大津絵のシオリです。
絵柄は「鬼の寒念佛」で、僧衣をまとった慈悲深い姿をしているのとは裏腹に、中身は鬼(偽善者)という風刺画。
聖衆来迎寺の工芸・絵画で興味深かったのは、寺院の玄関から本坊に向かう入口の上に掛けられていた」という「鬼型像(室町期)」という像で、「角大師」のお札の木造立体版ともいえます。
また、「両面曼荼羅図(鎌倉期)は、厨子の中の両面に胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の18センチ角ほどの曼荼羅が納められた珍しいものでした。
さすが近江の正倉院と呼ばれるだけのことはありますね。