僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

京都国立博物館 屋外展示~「西の庭」~

2020-09-15 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都国立博物館は1897年(明治30年)に「帝国京都博物館」として開館され、モダーンな煉瓦造の明治古都館(旧 帝国京都博物館 本館)は、表門・札売場・袖塀とともに重要文化財に指定されています。
特別展などの展示は、2013年に竣工された「平成知新館」が会場となり、噴水とロダンの「考える人」を横目に向かうことになる。

博物館の敷地には、来館者だけが入れる屋外展示があり、石仏や石造の遺品などが展示されています。
庭園は「東の庭」と「西の庭」の2つあり、今回は「西の庭」を一巡りしてきました。



「山城・丹波国境標示石柱」は、京都市と亀岡市の境となる旧老之坂峠にあったものを移設したもので、江戸期のものだといいます。
老之坂峠は、源義経(一ノ谷の戦いへ進軍)、足利尊氏(六波羅探題攻撃)で通った道だとされ、明智光秀が本能寺の変の際に、丹波亀山城から老之坂峠を通って本能寺へ向かった道と伝わります。

平安時代の作と伝わる「阿弥陀三尊像」は、伏見区竹田の真言宗智山派の寺院・安楽寿院からの寄託品。
安楽寿院は、鳥羽離宮内にあった仏堂の後身だといい、石造三尊像は江戸時代に出土されたものだといいます。



「阿弥陀如来」を中心に、右に「観音菩薩」・左に「勢至菩薩」が配置されており、観音・勢至の両脇侍が阿弥陀如来に体を寄り添うように傾けているように見えます。
愛らしくも感じてしまう阿弥陀三尊の姿からは、西方極楽浄土から来迎し、迎えにきてくれた慈愛に満ちた心を感じてしまいます。



平安時代後期作の「大日如来坐像」は、「行願寺(革堂)」伝来と伝わる石仏です。
定印を結んだ胎蔵界の大日如来は、風化はしているものの、頭上の宝冠はくっきりと残り、腕には腕釧が見える。



モダーンな煉瓦造の塀と平安期の石仏の取り合わせに多少の違和感を感じますが、これは京都国立博物館ならではの光景なのでしょう。
明治の建築物の庭におかれた平安期の石仏はふくよかで穏やかな表情で千年以上の時を過ごしています。



大日如来の化身とされるのが「不動明王」で、西の庭の中央あたりに鎌倉期の「不動明王立像」がある。
鎌倉期の石仏とはいえ、左手に持つ羂索や右手に持つ剣ははっきりとしており、腰の部分の火炎光背に修復跡はみられるものの、状態の良い石像だと思います。



閻魔大王の化身とされる「地蔵菩薩」座像は、鎌倉期の作とされ、個人の寄贈によるものだとあります。
蓮華座に座し、輪光を放つ地蔵菩薩ではあるが、その正面に木が育ってきていて、地蔵石仏の前を塞ぎつつある。



西の庭の入口付近にあるのは、京都府与謝野町岩屋の雲岩寺(雲厳寺)にあった「八角型石燈籠」で、鎌倉期の石灯籠だといいます。
雲岩寺は750年頃に開創された修験道道だと伝えられましたが、1525年の兵火で衰退し、現在は雲岩公園として数躰の仏像と宝篋印塔を残すのみのようです。



奈良・東大寺の大仏殿の前にある「金銅八角燈籠」は、スケールも細工の見事さも兼ね備えた国宝ですが、東大寺では目の前に見える大仏殿とその中に見える盧舎那仏に目を引かれてしまいがちです。
京都国立博物館の西の庭にはその複製が展示され、当時の鋳造品と同様にヒ素など不純物を含む素銅を用いて鋳造製作されているといいます。



石灯籠はもう2基あって横並びになって展示され、手前の灯籠は舞鶴城址伝来の石灯籠で鎌倉時代後期の作とされます。
舞鶴城は、元は丹後国守護所の八田の館だったとされ、本能寺の変で明智光秀からの参戦の要請を断った細川幽斎が隠居城としたのが、舞鶴城(田辺城)だったといいます。
江戸時代に破却された舞鶴城(田辺城)は現在、舞鶴公園として資料館などがあるそうです。



珍しいなと思って眺めていたのは、キリシタン信徒の墓碑で、左の墓碑の半円柱の蓋石型には十字架が読み取れます。
この墓碑は、桃山時代の慶長年間(1596~1615年)の墓碑だといい、ほとんどのキリシタン墓碑は江戸時代に破壊されて残っているのは少しだけだとか。
2基の墓碑は2つとも京都市内の寺院の境内から発見されたというのも興味深い話です。



同じ墓でも全く様相が異なるのが6世紀・古墳時代の「家形石棺」となります。
岡山県瀬戸内市の横穴式石室に納められていたものといい、小型石棺なのは子供が埋葬されていたと考えられているそうです。



安土桃山時代の京都を伝えるものとして「三条大橋の橋脚石柱1本」と「五条大橋の橋脚石柱2本」がオブジェでも構成するかのように展示されていました。
橋は1589年に豊臣秀吉が鴨川に架けた大橋の橋脚だといい、「天正十七年津国御影七月吉日」の刻銘があるそうです。(銘が刻まれているのは分かる)



分かりやすい形で橋脚・桁が残っているのは、上記と同じく秀吉が架けた五条大橋の橋脚と桁でした。
「津国御影天正十七年五月吉日」の銘刻があるといい、津国御影とは摂津の御影産(現・神戸市)のことを指すという意味のようです。
桁の切込みに木の梁を渡し、その梁の上に踏み台を敷き詰めたとされ、橋桁の長さが約7m半あることから、橋の幅はそれくらいあったと推定されていますので、大きな橋だったことが伺われます。



「西の庭」には所狭しと遺跡が展示されており、この日のような猛暑でなければ、博物展を見た後に木々に囲まれてゆったりとくつろげるような空間でした。
庭園内には大きく育ったエノキや幹の太いイチョウなどの木々があり、もっとも雰囲気があったのがスダジイの樹でした。



「東の庭」へは今回訪れることが出来ませんでしたが、京都国立博物館は今後も訪れることのあろう博物館ですから、次回来館した時に足を運んでみようと思います。
東の庭には朝鮮時代(1392~1910年)に造られた「墳墓表飾石造遺物」や方広寺から出土した「石塔・石仏群」が展示されているといいます。




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