大津市にある石山寺では、新天皇の即位を祝して秘仏本尊「木造如意輪観音坐像(平安後期・重文)」の御開扉が行われています。
秘仏本尊の御開扉は、天皇即位の翌年と33年に1度、あるいは特別な記念行事の時のみに開かれるといい、次はいつ拝観できるか分からない仏像になる。
御開扉は3月18日から始まったものの、新型コロナウィルス感染症の緊急事態宣言により5月いっぱいまで閉門。
宣言が解除された6月から“時間短縮や境内の一部通行止め”など感染防止対策を徹底した上での開山となりました。
当方も御堂の中に入って仏像を拝観するのは3月20日の西明寺の『国宝本堂後陣 仏像群特別拝観』以来ですので、約3ヶ月ぶりの仏像拝観に心は落ち着かない。
もちろん初めて拝観する仏像への期待感や、寺院で境内を見て歩く楽しみはあるものの、終息していないコロナに対する気持ち悪さや、混乱している世の中へのある種の気まずさみたいなものも同時に感じる。
石山寺は747年、聖武天皇の勅願により良弁僧正が草庵を立てて寺院としたのが始まりとされます。
良弁は、東大寺の大仏建立に使う黄金の産出を祈願するため、聖徳太子の念持仏であった如意輪観音に祈願したところ、陸奥国で黄金が発見されたといいます。
祈願が達成されたため、岩の上に祀った念持仏を移動させようとするが動かなかったため、そこに寺院を建立したのが始まりと伝わります。
石山寺の「東大門(重要文化財)」は、1190年の建立とはされているが定かではなく、淀殿による「慶長の大修理」の際に、再建に近い大修理が行われたとされます。
鎌倉末~室町初期に製作された「石山寺縁起絵巻」には彩色豊かな東大門の様子が描かれており、門の両脇に祀られた「仁王像」は、伝わるところでは鎌倉期の運慶・湛慶の作だといいます。
石山寺の一直線に伸びた参道の両脇には青もみじ。
まだ山門が開いたばかりの時間ということもあって、人はまばらにしか居られず、ゆっくりと歩きながら季節を楽しむ。
石段を登りながら「蓮如堂(慶長期・重文)」「観音堂(1773年建立)」「毘沙門堂(1773年建立)」「御影堂(室町期・重文)」などのあるエリアを拝観し、本堂へと向かう。
「本堂」は、天平期(761年頃)に建てられたものの、1078年に焼失。
現在の本堂は1096年に再建されたもので、慶長期に淀君による改築を経て、1952年には国宝の指定を受けています。
本堂は懸造となっているのですが、全景を見渡せる場所がなく、“本堂正面が一望できる”とある「雅の台」へ登ってみたものの、その前にあるスギの樹勢の良さに遮られてしまう。
本堂は、滋賀県最古の木造建築物とされ、1096に建造された「内陣(正堂)」と、慶長期に淀君によって改築された「外陣(礼堂)」がつながった複合建築となっているといいます。
外陣(礼堂)には、西国巡礼札所らしい雰囲気が漂い、真言宗の寺院であることを示す五色幕が掛けられている。
格子の上には大きな懸仏が懸けられており、如意輪観音と脇侍2仏の懸仏は、1656年に開眼されたもののようです。
過去に参拝した時に懸仏を見落としていたのは、当時はまだ懸仏に対する関心がなかったからなのでしょう。
本殿の東端には「源氏の間」があり、紫式部がここに参篭して「源氏物語」の着想を得たとされています。
この部屋は、主に天皇・貴族・高僧の参拝や参篭に使われたといい、平安京と石山の距離を考えると、別荘地のような位置関係にあったのかと思われます。
人形は有職御人形司 十世 伊東久重の作だといい、現在まで一子相伝で継承されてきた「有職御人形司伊東久重」の名は、1767年に後桜町天皇より賜ったものだそうです。
本堂の内陣に入ると、右に「執金剛神像」、左に「蔵王権現像」が並び、中央に御本尊である「木造如意輪観音坐像」が安置されている。
如意輪観音坐像は、2臂で自然石(硅灰石)の上に座し、総高さは5mもあり、丈六を越える大きな仏像にまずは驚く。
ふくよかな姿、温和な表情をされている御本尊からは、穏やかな情緒を取り戻させてくださるように感じ、特に蓮華を持たれている右手側からの姿が美しい。
堂内には尼僧の方が読経をされていて、おごそかな空気が漂っており、参拝者が途切れた時に仏像の前に正座して下から拝んでもみる。
「勅封秘仏 御開扉大法会」の様子は映像で見ることができますが、皇室の勅使の方や御開扉の僧がおられた場所から拝観出来たのは実にありがたいことです。
護摩壇のある脇陣には「石除不動明王座像(平安期・重文)」と鎌倉期の「二十八部衆」が安置。
後陣には2002年の「開基1250年記念 御開扉」の際に確認されたという「本尊胎内仏4躰」が公開されていました。
「観世菩薩(天平時代)」「観世菩薩(飛鳥時代)」2躰、「如来立像(飛鳥時代)」のそれぞれ30センチ前後の銅造の仏像は、鎌倉時代に胎内に納入されてからずっと眠っていたことになります。
また、奈良時代に造立され、火災で崩壊した初代の御本尊の塑像の一部が公開されており、足の指の断片からは、初代の如意輪観音も大きな仏像であったことが伺われます。
「混合蔵王立像心木(奈良時代・重文)」は、元は塑像の心木だったもので、修理の際に塑土が除去されたところ、造立当時の心木が現れ、その姿のまま残されているというもの。
思い出せませんが、どこかの仏像展で出会ったことのある心木で、最初に見た時に受けた衝撃は今回も変わらずでした。
内陣の右側に並ぶ仏像は「持国天」「増長天」と、一際大きさが目立つ「毘沙門天」(すべて平安期・重文)や、「吉祥天立像」「良弁座像」と実に見応えがある。
右正面には「薬師如来坐像(平安期)」が安置されており、この薬師さんは“初公開”の仏像だったようです。
最後にもう一度御本尊の「如意輪観音坐像」を観ていると、ちょうど読経が終わりましたので、これで本堂を後にすることとします。
「多宝塔」は、源頼朝に寄進されたと伝えられる1194年建立の国宝建築物になります。
円形の上層部分が細く、下層はどっしりした造りで、広がった屋根と反った軒とのバランスが美しい塔だと思います。
塔の内部に祀られている「大日如来座像(鎌倉期・重文)は、智拳印を結び、射るような視線をされている仏像で、快慶の作とされています。
この大日如来像は、大津市歴史博物館の「神仏のかたち」展で観て以来、好きな仏像の一つです。
さて、石山寺では御開扉特別記念展示として、『石山寺と紫式部』展が開催されており、開催場所の「豊浄殿」へと向かいます。
会場には「祖師像」の絵画や書、紫式部を始めとする平安時代の様子を描いた絵などと一緒に、仏像群が展示されていました。
仏像は、観音三十三応現神像として「婆羅門婦女身」「毘沙門身」、如意輪半跏像(平安期・重文)」、片膝を上げた「如意輪半跏座像(平安期)」、蓮の代わりに剣を持った「如意輪半跏像(室町期)」。
他にも智拳印を結んだ「大日如来坐像(平安期)」ということで石山寺の御本尊・多宝塔の仏像にまつわるものが多い中、白鳳時代から奈良時代初期とされる小さな「釈迦座像」は異彩を放つ仏像でした。
展示会で特に魅了されてしまったのは、「ボンボニエール」の高貴な美しさでした。
ボンボニエールは、元はヨーロッパで慶事の際にお菓子を入れて贈る容器とされており、日本では皇室の晩餐会などの引き出物として金平糖を納めて配布されて、定着していったとされます。
石山寺は皇室とのつながりが深かったのでしょう。31個のボンボニエールが展示され、主に銀で作られたボンボニエールには十六葉八重表菊が刻まれ、デザインや造形が見事でした。
ところで、石山寺には「無憂園」という庭園があり、花菖蒲が見頃でアジサイも咲いているということで散策してきました。
花菖蒲は花は見頃とはいえ、数はそれほどでもなく、「甘露の滝」の水音を聞きながら東屋で一休みする。
石山寺のスイーツ巡礼は、石山寺の名物・叶匠寿庵の「石餅」を頂きました。
白と蓬を重ねた餅の上につぶ餡が乗せられた石餅は、甘党も唸るような甘さです。
蒸し蒸しと湿度が高く、温度も上昇している中、汗を流しながらの参拝でしたので、疲れた時の糖分補給になりましたよ。
石山寺へは御本尊の御開扉を楽しみにして行きましたが、仏像は充分堪能でき、知らなかったボンボニエールの魅力を知ることもできました。
とはいえ、広大な石山寺には他にも見応えのあるものがたくさんあり、続編で書き残したいと思います。
...続く。
秘仏本尊の御開扉は、天皇即位の翌年と33年に1度、あるいは特別な記念行事の時のみに開かれるといい、次はいつ拝観できるか分からない仏像になる。
御開扉は3月18日から始まったものの、新型コロナウィルス感染症の緊急事態宣言により5月いっぱいまで閉門。
宣言が解除された6月から“時間短縮や境内の一部通行止め”など感染防止対策を徹底した上での開山となりました。
当方も御堂の中に入って仏像を拝観するのは3月20日の西明寺の『国宝本堂後陣 仏像群特別拝観』以来ですので、約3ヶ月ぶりの仏像拝観に心は落ち着かない。
もちろん初めて拝観する仏像への期待感や、寺院で境内を見て歩く楽しみはあるものの、終息していないコロナに対する気持ち悪さや、混乱している世の中へのある種の気まずさみたいなものも同時に感じる。
石山寺は747年、聖武天皇の勅願により良弁僧正が草庵を立てて寺院としたのが始まりとされます。
良弁は、東大寺の大仏建立に使う黄金の産出を祈願するため、聖徳太子の念持仏であった如意輪観音に祈願したところ、陸奥国で黄金が発見されたといいます。
祈願が達成されたため、岩の上に祀った念持仏を移動させようとするが動かなかったため、そこに寺院を建立したのが始まりと伝わります。
石山寺の「東大門(重要文化財)」は、1190年の建立とはされているが定かではなく、淀殿による「慶長の大修理」の際に、再建に近い大修理が行われたとされます。
鎌倉末~室町初期に製作された「石山寺縁起絵巻」には彩色豊かな東大門の様子が描かれており、門の両脇に祀られた「仁王像」は、伝わるところでは鎌倉期の運慶・湛慶の作だといいます。
石山寺の一直線に伸びた参道の両脇には青もみじ。
まだ山門が開いたばかりの時間ということもあって、人はまばらにしか居られず、ゆっくりと歩きながら季節を楽しむ。
石段を登りながら「蓮如堂(慶長期・重文)」「観音堂(1773年建立)」「毘沙門堂(1773年建立)」「御影堂(室町期・重文)」などのあるエリアを拝観し、本堂へと向かう。
「本堂」は、天平期(761年頃)に建てられたものの、1078年に焼失。
現在の本堂は1096年に再建されたもので、慶長期に淀君による改築を経て、1952年には国宝の指定を受けています。
本堂は懸造となっているのですが、全景を見渡せる場所がなく、“本堂正面が一望できる”とある「雅の台」へ登ってみたものの、その前にあるスギの樹勢の良さに遮られてしまう。
本堂は、滋賀県最古の木造建築物とされ、1096に建造された「内陣(正堂)」と、慶長期に淀君によって改築された「外陣(礼堂)」がつながった複合建築となっているといいます。
外陣(礼堂)には、西国巡礼札所らしい雰囲気が漂い、真言宗の寺院であることを示す五色幕が掛けられている。
格子の上には大きな懸仏が懸けられており、如意輪観音と脇侍2仏の懸仏は、1656年に開眼されたもののようです。
過去に参拝した時に懸仏を見落としていたのは、当時はまだ懸仏に対する関心がなかったからなのでしょう。
本殿の東端には「源氏の間」があり、紫式部がここに参篭して「源氏物語」の着想を得たとされています。
この部屋は、主に天皇・貴族・高僧の参拝や参篭に使われたといい、平安京と石山の距離を考えると、別荘地のような位置関係にあったのかと思われます。
人形は有職御人形司 十世 伊東久重の作だといい、現在まで一子相伝で継承されてきた「有職御人形司伊東久重」の名は、1767年に後桜町天皇より賜ったものだそうです。
本堂の内陣に入ると、右に「執金剛神像」、左に「蔵王権現像」が並び、中央に御本尊である「木造如意輪観音坐像」が安置されている。
如意輪観音坐像は、2臂で自然石(硅灰石)の上に座し、総高さは5mもあり、丈六を越える大きな仏像にまずは驚く。
ふくよかな姿、温和な表情をされている御本尊からは、穏やかな情緒を取り戻させてくださるように感じ、特に蓮華を持たれている右手側からの姿が美しい。
堂内には尼僧の方が読経をされていて、おごそかな空気が漂っており、参拝者が途切れた時に仏像の前に正座して下から拝んでもみる。
「勅封秘仏 御開扉大法会」の様子は映像で見ることができますが、皇室の勅使の方や御開扉の僧がおられた場所から拝観出来たのは実にありがたいことです。
護摩壇のある脇陣には「石除不動明王座像(平安期・重文)」と鎌倉期の「二十八部衆」が安置。
後陣には2002年の「開基1250年記念 御開扉」の際に確認されたという「本尊胎内仏4躰」が公開されていました。
「観世菩薩(天平時代)」「観世菩薩(飛鳥時代)」2躰、「如来立像(飛鳥時代)」のそれぞれ30センチ前後の銅造の仏像は、鎌倉時代に胎内に納入されてからずっと眠っていたことになります。
また、奈良時代に造立され、火災で崩壊した初代の御本尊の塑像の一部が公開されており、足の指の断片からは、初代の如意輪観音も大きな仏像であったことが伺われます。
「混合蔵王立像心木(奈良時代・重文)」は、元は塑像の心木だったもので、修理の際に塑土が除去されたところ、造立当時の心木が現れ、その姿のまま残されているというもの。
思い出せませんが、どこかの仏像展で出会ったことのある心木で、最初に見た時に受けた衝撃は今回も変わらずでした。
内陣の右側に並ぶ仏像は「持国天」「増長天」と、一際大きさが目立つ「毘沙門天」(すべて平安期・重文)や、「吉祥天立像」「良弁座像」と実に見応えがある。
右正面には「薬師如来坐像(平安期)」が安置されており、この薬師さんは“初公開”の仏像だったようです。
最後にもう一度御本尊の「如意輪観音坐像」を観ていると、ちょうど読経が終わりましたので、これで本堂を後にすることとします。
「多宝塔」は、源頼朝に寄進されたと伝えられる1194年建立の国宝建築物になります。
円形の上層部分が細く、下層はどっしりした造りで、広がった屋根と反った軒とのバランスが美しい塔だと思います。
塔の内部に祀られている「大日如来座像(鎌倉期・重文)は、智拳印を結び、射るような視線をされている仏像で、快慶の作とされています。
この大日如来像は、大津市歴史博物館の「神仏のかたち」展で観て以来、好きな仏像の一つです。
さて、石山寺では御開扉特別記念展示として、『石山寺と紫式部』展が開催されており、開催場所の「豊浄殿」へと向かいます。
会場には「祖師像」の絵画や書、紫式部を始めとする平安時代の様子を描いた絵などと一緒に、仏像群が展示されていました。
仏像は、観音三十三応現神像として「婆羅門婦女身」「毘沙門身」、如意輪半跏像(平安期・重文)」、片膝を上げた「如意輪半跏座像(平安期)」、蓮の代わりに剣を持った「如意輪半跏像(室町期)」。
他にも智拳印を結んだ「大日如来坐像(平安期)」ということで石山寺の御本尊・多宝塔の仏像にまつわるものが多い中、白鳳時代から奈良時代初期とされる小さな「釈迦座像」は異彩を放つ仏像でした。
展示会で特に魅了されてしまったのは、「ボンボニエール」の高貴な美しさでした。
ボンボニエールは、元はヨーロッパで慶事の際にお菓子を入れて贈る容器とされており、日本では皇室の晩餐会などの引き出物として金平糖を納めて配布されて、定着していったとされます。
石山寺は皇室とのつながりが深かったのでしょう。31個のボンボニエールが展示され、主に銀で作られたボンボニエールには十六葉八重表菊が刻まれ、デザインや造形が見事でした。
ところで、石山寺には「無憂園」という庭園があり、花菖蒲が見頃でアジサイも咲いているということで散策してきました。
花菖蒲は花は見頃とはいえ、数はそれほどでもなく、「甘露の滝」の水音を聞きながら東屋で一休みする。
石山寺のスイーツ巡礼は、石山寺の名物・叶匠寿庵の「石餅」を頂きました。
白と蓬を重ねた餅の上につぶ餡が乗せられた石餅は、甘党も唸るような甘さです。
蒸し蒸しと湿度が高く、温度も上昇している中、汗を流しながらの参拝でしたので、疲れた時の糖分補給になりましたよ。
石山寺へは御本尊の御開扉を楽しみにして行きましたが、仏像は充分堪能でき、知らなかったボンボニエールの魅力を知ることもできました。
とはいえ、広大な石山寺には他にも見応えのあるものがたくさんあり、続編で書き残したいと思います。
...続く。