京都や奈良には有名寺院がたくさんあり、寺名はよく聞くにも関わらず一度も参拝したことのない神社仏閣が数多くあります。
京都市右京区の「妙心寺」もいまだに参拝したことのない寺院なのですが、今回は妙心寺の境内は歩いただけで、その境内にある「退蔵院」へと参拝しました。
立ち寄った動機の一つは、庭園を眺めながらゆっくりとしたいという気持ちと、もう一つは「瓢鮎図(国宝)」をあしらった御朱印帳の購入でした。
瓢鮎図は室町幕府4代将軍・足利義持の公案(禅問答)「丸くすべすべした瓢箪で、ぬるぬるした鮎を抑え捕ることができるか」を描いたおそらく誰でも一度は見たことのある水墨画です。
(実物は京都国立博物館へ寄託)
これまでも妙心寺の近くは何度も通り過ぎながらも初めて足を踏み入れたのですが、建築物の大きさと塔頭寺院の多さ、どこまで続くのか分らないほどの境内の広さには驚かされました。
表現はおかしいですが、「南総門」から中に入ると寺院の敷地が一つの町か村ほどの大きさで寺町が形成されているような印象すら受けます。
南総門の横には「勅使門」があり、その道筋には放生池にかかる石橋がありました。
この石橋は平時は閉じられていて妙心寺住持の入山・晋山時に新住職がこの門からはいられるようで、勅使門は1610年の建立だといいます。
境内を歩き一直線に配置されている「三門」「仏殿」「法堂」「大方丈」へと向かいますが、とにかく広い敷地を歩いていると感じが強い。
妙心寺の境内は、大徳寺を思い起こされるような寺院でもあり、それぞれの伽藍の巨大さに圧倒される。
臨済宗の総本山寺院には建築物の壮大さが共通していえると思いますが、妙心寺にも重要文化財に指定された13の伽藍が並びます。
法堂では狩野探幽の「雲龍図」が拝観出来るのですが、今回は見送って塔頭寺院の「退蔵院」へと向かいます。
退蔵院は庭の寺院となっていて、壮大な妙心寺とは打って変わって落ち着いた佇まいの静かな空間となります。
雰囲気のある石畳の参道を進むと「陰陽の庭」が見えてきます。
枯山水の2つの庭は敷砂の色が異なり、物事や人の心の二面性を伝えているといいます。
枯山水の「陰陽の庭」と趣きが全く異なるのが「余香苑」で、緑豊かな庭園には茶屋や藤棚があり、最奥には滝石組から水が流れ落ちています。
古寺にあって現代的な感じがする庭園なのですが、それもそのはずで1963年から3年かけて造園された庭だということでした。
桜・藤・蓮・サツキの花期にはさぞや華やかな庭へと変貌すると思われますが、今の季節は金木犀の香りがよく香る中で緑を楽しむ“昭和の庭園”となります。
歩き回って少し腰を降ろしたくなってきましたので「放生」の縁側に座って正面の庭を鑑賞します。
放生の奥へ回り込むと「元信の庭」と呼ばれる画聖・狩野元信が作庭した枯山水の庭が望めますので鑑賞します。
整って美しい庭園だとは思いますが、実際のところ庭の表現の意図は説明出来ない世界ではあります。
放生にはレプリカの「瓢鮎図」があり、将軍義持は京都五山の禅僧31人に賛詩を書かせたといいます。
禅僧は答えを漢詩にして、しかも漢詩を連句のように詠み継ぎ漢詩独特の韻(いん)を踏んでいるといわれます。(画の上半分)
当時の日本有数の知識人・文化人と足利将軍家が創り出した禅文化が花開いた作品といえるかもしれません。
「瓢鮎図」では滑りやすい鮎を瓢箪で押さえようという無理難題な公案となっており、そもそも瓢箪を持つ手からして瓢箪を落としてしまいそうな手付きになっている。
画は瓢鮎図と鮎の文字がありますが、実際はナマズの意であるといい、描かれた魚も鮎ではなくナマズと見えます。
御朱印(御朱印帳)を頂くと31人の禅僧が瓢鮎図に書いた賛詩の解説が1人分頂けます。
頂いたのは「其の十五」古篆周印の賛詩でしたが解説そのものが理解出来ません。
瓢のあつかい顔許ほど慣れてはいまいに、鮎を狙ってのぞき込むのは唯だ深い淵。
くっついたと思えばと還たくっつかず、一生懸命こちらやあちら。
全く理解出来ませんので解説の解説で花園大学国際禅学研究所の「瓢鮎図・再考」から引用すると...。
まず「蒙求」という唐の教科書に瓢にちなむ話として登場する“顔回と許由”という人物が前提。
顔回と許由のように瓢箪を持っているが、その目的が違う。ねらいは淵にひそむ鮎。
さておさえられるかどうか。力を尽くして、あちこちおさえまわる。(瓢鮎図・再考から転記)
御朱印帳
禅問答は分かったような分らないような話が多いのですが、面白いのは「瓢鮎図」の風刺画があること。
大津絵に「瓢箪鯰」という猿が瓢箪を担いでナマズを押さえている図案があり、これは「瓢鮎図」を皮肉ったものに見えます。
禅問答にしても風刺画にしても日本人には広い意味でのユーモアや自由度があったようですね。
大津絵「瓢箪鯰」
京都市右京区の「妙心寺」もいまだに参拝したことのない寺院なのですが、今回は妙心寺の境内は歩いただけで、その境内にある「退蔵院」へと参拝しました。
立ち寄った動機の一つは、庭園を眺めながらゆっくりとしたいという気持ちと、もう一つは「瓢鮎図(国宝)」をあしらった御朱印帳の購入でした。
瓢鮎図は室町幕府4代将軍・足利義持の公案(禅問答)「丸くすべすべした瓢箪で、ぬるぬるした鮎を抑え捕ることができるか」を描いたおそらく誰でも一度は見たことのある水墨画です。
(実物は京都国立博物館へ寄託)
これまでも妙心寺の近くは何度も通り過ぎながらも初めて足を踏み入れたのですが、建築物の大きさと塔頭寺院の多さ、どこまで続くのか分らないほどの境内の広さには驚かされました。
表現はおかしいですが、「南総門」から中に入ると寺院の敷地が一つの町か村ほどの大きさで寺町が形成されているような印象すら受けます。
南総門の横には「勅使門」があり、その道筋には放生池にかかる石橋がありました。
この石橋は平時は閉じられていて妙心寺住持の入山・晋山時に新住職がこの門からはいられるようで、勅使門は1610年の建立だといいます。
境内を歩き一直線に配置されている「三門」「仏殿」「法堂」「大方丈」へと向かいますが、とにかく広い敷地を歩いていると感じが強い。
妙心寺の境内は、大徳寺を思い起こされるような寺院でもあり、それぞれの伽藍の巨大さに圧倒される。
臨済宗の総本山寺院には建築物の壮大さが共通していえると思いますが、妙心寺にも重要文化財に指定された13の伽藍が並びます。
法堂では狩野探幽の「雲龍図」が拝観出来るのですが、今回は見送って塔頭寺院の「退蔵院」へと向かいます。
退蔵院は庭の寺院となっていて、壮大な妙心寺とは打って変わって落ち着いた佇まいの静かな空間となります。
雰囲気のある石畳の参道を進むと「陰陽の庭」が見えてきます。
枯山水の2つの庭は敷砂の色が異なり、物事や人の心の二面性を伝えているといいます。
枯山水の「陰陽の庭」と趣きが全く異なるのが「余香苑」で、緑豊かな庭園には茶屋や藤棚があり、最奥には滝石組から水が流れ落ちています。
古寺にあって現代的な感じがする庭園なのですが、それもそのはずで1963年から3年かけて造園された庭だということでした。
桜・藤・蓮・サツキの花期にはさぞや華やかな庭へと変貌すると思われますが、今の季節は金木犀の香りがよく香る中で緑を楽しむ“昭和の庭園”となります。
歩き回って少し腰を降ろしたくなってきましたので「放生」の縁側に座って正面の庭を鑑賞します。
放生の奥へ回り込むと「元信の庭」と呼ばれる画聖・狩野元信が作庭した枯山水の庭が望めますので鑑賞します。
整って美しい庭園だとは思いますが、実際のところ庭の表現の意図は説明出来ない世界ではあります。
放生にはレプリカの「瓢鮎図」があり、将軍義持は京都五山の禅僧31人に賛詩を書かせたといいます。
禅僧は答えを漢詩にして、しかも漢詩を連句のように詠み継ぎ漢詩独特の韻(いん)を踏んでいるといわれます。(画の上半分)
当時の日本有数の知識人・文化人と足利将軍家が創り出した禅文化が花開いた作品といえるかもしれません。
「瓢鮎図」では滑りやすい鮎を瓢箪で押さえようという無理難題な公案となっており、そもそも瓢箪を持つ手からして瓢箪を落としてしまいそうな手付きになっている。
画は瓢鮎図と鮎の文字がありますが、実際はナマズの意であるといい、描かれた魚も鮎ではなくナマズと見えます。
御朱印(御朱印帳)を頂くと31人の禅僧が瓢鮎図に書いた賛詩の解説が1人分頂けます。
頂いたのは「其の十五」古篆周印の賛詩でしたが解説そのものが理解出来ません。
瓢のあつかい顔許ほど慣れてはいまいに、鮎を狙ってのぞき込むのは唯だ深い淵。
くっついたと思えばと還たくっつかず、一生懸命こちらやあちら。
全く理解出来ませんので解説の解説で花園大学国際禅学研究所の「瓢鮎図・再考」から引用すると...。
まず「蒙求」という唐の教科書に瓢にちなむ話として登場する“顔回と許由”という人物が前提。
顔回と許由のように瓢箪を持っているが、その目的が違う。ねらいは淵にひそむ鮎。
さておさえられるかどうか。力を尽くして、あちこちおさえまわる。(瓢鮎図・再考から転記)
御朱印帳
禅問答は分かったような分らないような話が多いのですが、面白いのは「瓢鮎図」の風刺画があること。
大津絵に「瓢箪鯰」という猿が瓢箪を担いでナマズを押さえている図案があり、これは「瓢鮎図」を皮肉ったものに見えます。
禅問答にしても風刺画にしても日本人には広い意味でのユーモアや自由度があったようですね。
大津絵「瓢箪鯰」