「九体の阿弥陀如来」や美女秘仏「吉祥天女像」で有名な浄瑠璃寺は、京都府の最南端に位置し京都市内よりも地理的には奈良の東大寺などの方に近く、奈良仏教の影響が強い寺院(地域)になります。
京都・奈良・滋賀の仏像を特集した記事に九体阿弥陀や吉祥天はほぼ登場しますが、京都というより奈良のカテゴリーに取り込まれている感があるのは立地や文化圏の影響なのでしょう。
浄瑠璃寺には前述の仏像の他にも国宝の仏像や建築物、重要文化財の仏像数点などがあることから、かなり辺鄙な場所にありながらも参拝者の多い寺院でした。
朝一に入山しましたが、寺院を出る頃には続々と参拝者が来られておられましたので、その人気ぶりが伺われます。
木津川の辺りは全く土地勘のない場所でもありますから、カーナビの指示に従って進んでいくと、京田辺を越えた辺りから細い林道に誘導されてしまう。
おそらく一般車は通らないような道で、対向車とすれ違うことも出来ない道幅しかなく、一部の場所では車一台が通るのもやっとの道が数㌔続く。
山の斜面では3頭の若い鹿が朝日を浴びて駆け登って行く姿が美しかったが、車の運転に必死でゆっくりと眺めている余裕もありませんでした。
寺院の創建については奈良時代の739年に行基によって創建されたという説もありますが、寺院の歴史抄では“1047年に薬師如来を本尊に創建”“1107年に九体阿弥陀堂造”“1150年に浄瑠璃寺庭園造”“1178年に三重塔を京都より移建”とあります。
浄瑠璃寺はかつて興福寺一乗院の末寺であったとされますが、現在の宗派は真言律宗で、奈良西大寺が本山とする寺院のようです。
参道の右側には馬酔木が花を咲かせていましたが、浄瑠璃寺ではほぼ年間通して季節の花が見られるといい、「関西花の寺二十五ヶ所」の寺院の一つになっています。
参道の先には山門がありますが、有名寺院にしては簡素で小ぶりな門となっていたのは意外な感じがします。
境内に入ると「浄瑠璃寺庭園」と呼ばれる庭の中央部に池があり、太陽の昇る東側には薬師如来を祀る「三重塔」。
太陽が沈む西の西方浄土には阿弥陀仏を祀る「本堂」が建てられている配置となっており、池の周囲を一回り歩くことが出来ます。
三重塔は1178年に京都から移建されたといい、国宝に指定されています。
やや小ぶりな印象を受ける塔の内部には「薬師如来坐像(重文・藤原期」が安置されていますが、決められた期日の好天日にしか公開はされていないようです。
三重塔側から池を望むと、1107年に建てられたという「九体阿弥陀堂(国宝)」が正面に見えます。
御堂は横に長い形になっていますが、これは「九体の阿弥陀仏」や諸仏を横一列に配置するため、この形で造られたのだろうと思われます。
九体阿弥陀堂に入ると、まず目に入ってくるのは「九体の阿弥陀如来(国宝)」です。
映像や画像で見た九体の阿弥陀如来そのものと言ってしまえばそれまでですが、その姿は圧巻です。
ただし九体阿弥陀仏は2023年頃まで2躰づつ修理中ということで、現在安置されているのは7躰のみだったのが残念でした。
須弥壇は鎌倉時代に造られたものとされ、「供物壇」とも呼ばれる魔除けと火除けの模様が入っています。
連珠・剣頭・巴の紋は春日大社や秋篠寺にも同様の紋があるといい、この供物檀には結界と供物を乗せる檀の両方の意味があるといいます。
(ポストカード)
阿弥陀仏は中尊が丈六仏で、中尊を挟むように左右に半丈六の阿弥陀仏が4躰づつ安置。
中尊の光背には千体の化仏と4体の飛天が彫られた装飾豊かなものになっており、泰然とした表情をされていたのが印象的です。
(ポストカード)
須弥壇の並びは堂内に入ってすぐの場所に「持国天像(国宝・藤原期)「増長天(国宝・藤原期)」が力強い姿で東と南を守護しています。尚、四天王の残りの2躰(広目天・多聞天)は国立博物館に寄託されているとのこと。
九体阿弥陀の左の4躰(1躰は修理中)の横で、中心に安置された中尊の左には「吉祥天立像(重文・鎌倉期)」を安置。
仏像は実物を見てこそ分かることがあると思ったのは、やはりそのサイズ感がその一つにあげられます。
約90cmの吉祥天立像は想像していたよりは小さかったものの、最も美しく見える大きさではないかとも言えます。
(ポストカード)
吉祥天の作製年などはよく分かっていないそうですが、1212年に浄瑠璃寺に安置されたことは判明しているとか。
“みうらじゅん”が「心の恋人」と評しているのも確かな話だと納得するほど美しい天女像で、厨子も彩色豊な装飾になっています。
(ポストカード)
仏像は吉祥天・中尊と並んだ右に「地蔵菩薩立像(重文・藤原期)」が安置され、脇陣には「不動明王立像(重文:鎌倉期)と眷属の「矜羯羅童子」「制多迦童子」が安置。
驚くのは、この2童子の顔でしょうか。独特の迫力のある表情で迫ってくるものがあります。
(ポストカード)
境内には幾つかの石仏が置かれてあり、苔むした石仏が素朴ながらもいい雰囲気を醸し出していました。
この石仏は鎌倉時代以降のものとされていますが、近在に祀られていた石仏が集められて祀られているのかもしれません。
調べてみると木津市東南部は石仏が非常に多い地域で、平安時代から室町時代の石仏や石塔が数多く点在するといいます。
一般的には「当尾の石仏」と呼ばれており、京都府によって「当尾磨崖仏文化財環境保全地区」に指定されているようでもあります。
昔ながらのよろず屋さんにマップが売っていたので購入しましたが、実に広い範囲に渡って石仏が点在しており、一部だけでも散策してみることにしました。...続く。
京都・奈良・滋賀の仏像を特集した記事に九体阿弥陀や吉祥天はほぼ登場しますが、京都というより奈良のカテゴリーに取り込まれている感があるのは立地や文化圏の影響なのでしょう。
浄瑠璃寺には前述の仏像の他にも国宝の仏像や建築物、重要文化財の仏像数点などがあることから、かなり辺鄙な場所にありながらも参拝者の多い寺院でした。
朝一に入山しましたが、寺院を出る頃には続々と参拝者が来られておられましたので、その人気ぶりが伺われます。
木津川の辺りは全く土地勘のない場所でもありますから、カーナビの指示に従って進んでいくと、京田辺を越えた辺りから細い林道に誘導されてしまう。
おそらく一般車は通らないような道で、対向車とすれ違うことも出来ない道幅しかなく、一部の場所では車一台が通るのもやっとの道が数㌔続く。
山の斜面では3頭の若い鹿が朝日を浴びて駆け登って行く姿が美しかったが、車の運転に必死でゆっくりと眺めている余裕もありませんでした。
寺院の創建については奈良時代の739年に行基によって創建されたという説もありますが、寺院の歴史抄では“1047年に薬師如来を本尊に創建”“1107年に九体阿弥陀堂造”“1150年に浄瑠璃寺庭園造”“1178年に三重塔を京都より移建”とあります。
浄瑠璃寺はかつて興福寺一乗院の末寺であったとされますが、現在の宗派は真言律宗で、奈良西大寺が本山とする寺院のようです。
参道の右側には馬酔木が花を咲かせていましたが、浄瑠璃寺ではほぼ年間通して季節の花が見られるといい、「関西花の寺二十五ヶ所」の寺院の一つになっています。
参道の先には山門がありますが、有名寺院にしては簡素で小ぶりな門となっていたのは意外な感じがします。
境内に入ると「浄瑠璃寺庭園」と呼ばれる庭の中央部に池があり、太陽の昇る東側には薬師如来を祀る「三重塔」。
太陽が沈む西の西方浄土には阿弥陀仏を祀る「本堂」が建てられている配置となっており、池の周囲を一回り歩くことが出来ます。
三重塔は1178年に京都から移建されたといい、国宝に指定されています。
やや小ぶりな印象を受ける塔の内部には「薬師如来坐像(重文・藤原期」が安置されていますが、決められた期日の好天日にしか公開はされていないようです。
三重塔側から池を望むと、1107年に建てられたという「九体阿弥陀堂(国宝)」が正面に見えます。
御堂は横に長い形になっていますが、これは「九体の阿弥陀仏」や諸仏を横一列に配置するため、この形で造られたのだろうと思われます。
九体阿弥陀堂に入ると、まず目に入ってくるのは「九体の阿弥陀如来(国宝)」です。
映像や画像で見た九体の阿弥陀如来そのものと言ってしまえばそれまでですが、その姿は圧巻です。
ただし九体阿弥陀仏は2023年頃まで2躰づつ修理中ということで、現在安置されているのは7躰のみだったのが残念でした。
須弥壇は鎌倉時代に造られたものとされ、「供物壇」とも呼ばれる魔除けと火除けの模様が入っています。
連珠・剣頭・巴の紋は春日大社や秋篠寺にも同様の紋があるといい、この供物檀には結界と供物を乗せる檀の両方の意味があるといいます。
(ポストカード)
阿弥陀仏は中尊が丈六仏で、中尊を挟むように左右に半丈六の阿弥陀仏が4躰づつ安置。
中尊の光背には千体の化仏と4体の飛天が彫られた装飾豊かなものになっており、泰然とした表情をされていたのが印象的です。
(ポストカード)
須弥壇の並びは堂内に入ってすぐの場所に「持国天像(国宝・藤原期)「増長天(国宝・藤原期)」が力強い姿で東と南を守護しています。尚、四天王の残りの2躰(広目天・多聞天)は国立博物館に寄託されているとのこと。
九体阿弥陀の左の4躰(1躰は修理中)の横で、中心に安置された中尊の左には「吉祥天立像(重文・鎌倉期)」を安置。
仏像は実物を見てこそ分かることがあると思ったのは、やはりそのサイズ感がその一つにあげられます。
約90cmの吉祥天立像は想像していたよりは小さかったものの、最も美しく見える大きさではないかとも言えます。
(ポストカード)
吉祥天の作製年などはよく分かっていないそうですが、1212年に浄瑠璃寺に安置されたことは判明しているとか。
“みうらじゅん”が「心の恋人」と評しているのも確かな話だと納得するほど美しい天女像で、厨子も彩色豊な装飾になっています。
(ポストカード)
仏像は吉祥天・中尊と並んだ右に「地蔵菩薩立像(重文・藤原期)」が安置され、脇陣には「不動明王立像(重文:鎌倉期)と眷属の「矜羯羅童子」「制多迦童子」が安置。
驚くのは、この2童子の顔でしょうか。独特の迫力のある表情で迫ってくるものがあります。
(ポストカード)
境内には幾つかの石仏が置かれてあり、苔むした石仏が素朴ながらもいい雰囲気を醸し出していました。
この石仏は鎌倉時代以降のものとされていますが、近在に祀られていた石仏が集められて祀られているのかもしれません。
調べてみると木津市東南部は石仏が非常に多い地域で、平安時代から室町時代の石仏や石塔が数多く点在するといいます。
一般的には「当尾の石仏」と呼ばれており、京都府によって「当尾磨崖仏文化財環境保全地区」に指定されているようでもあります。
昔ながらのよろず屋さんにマップが売っていたので購入しましたが、実に広い範囲に渡って石仏が点在しており、一部だけでも散策してみることにしました。...続く。