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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都市山科区 亀甲山 勧修寺・仏光院~

2019-03-14 05:32:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都山科の「勧修寺」は真言宗山階派の大本山の一つに数えられ、皇室との関係の深い門跡寺院になります。
真言宗は大きくは古義真言宗と新義真言宗に分けられるといい、古義真言宗の本山として有名なのは金剛峯寺・東寺・醍醐寺・仁和寺・泉湧寺・中山寺、新義真言宗の本山には智積院や長谷寺などがあるようです。

真言宗には十八本山と呼ばれるように各宗派があるようですが、これは宗派が幾つかに分かれている臨済宗や浄土真宗よりも多い。
教義の違いや経緯については分かりませんが、その時代ごとの歴史の影響もあるのかもしれません。

 

勧修寺は桜や蓮の名所だともいいますが、花の季節でなかったこともあり、訪れる人は疎らです。
京都の中心部にある寺院は異常なまでに人が多いのですが、山科まで来ると人は少なくゆっくりと散策できます。



勧修寺は900年、醍醐天皇が生母である藤原胤子の追善のために勧修寺を創建し、法相宗の僧・承俊によって開山されたとされます。
代々の法親王が入寺する門跡寺院として栄えたものの、1470年に応仁の乱の兵火により焼失。
その後、皇室と徳川家(家綱・綱吉など)の援助によって再興したとされます。



山門までの道には白壁の築地塀がありますが、道路が舗装されていなかったら時代劇の舞台だなぁなどと思いながら歩く。
門跡寺院なのに4本筋塀なのを不思議に思いますが、これは御所に対しての配慮のようですね。



山門で受付を済ませて中門を抜けると宸殿・書院・観音堂・本堂などの堂宇と「修寺氷池園」という庭園が見えてきます。
広々とした境内には2~3組の参拝者しかおられず、入山とともに鳴り始めた案内放送を聞きながらゆっくりと歩き出す。



芝生の向こうの建物は「宸殿」で、明正天皇(江戸時代初期)の旧殿(1676年造営)を下賜され、明治の初期には小学校の校舎として使用されていたこともあったとか。
「書院(重要文化財)」は1686年後西天皇の旧殿を下賜されたもの、「本堂」は1672年に霊元天皇の仮内侍所を下賜されたものということで皇室ゆかりの堂宇が並びます。
ただし、どの堂宇も中には入れず外から観るだけになり、本堂は台風の被害なのか屋根にブルーシートが被っていました。



「勧修寺氷池園」は氷室の池を中心とした池泉庭園となっています。
よく整備されて整った庭園というよりも、自然な状態にまかせたままの庭園といった感じでしょうか。



池の周囲を取り巻くように「西国三十三所巡礼」寺院の御本尊の石仏が祀られていて、一回りすれば西国観音巡礼が出来るようになっています。
また、境内の山側にある修行大師の像の周囲には「四国八十八ヶ所霊場」の霊石踏みもあって簡易的な巡礼が出来ます。



池の横の森にそびえ立つのは「千年杉」という老木。
案内板には“勧修寺は京都一水鳥の多い寺と言われている。夕方になると琵琶湖から帰ってくる水鳥のお宿になる。とありました。
水鳥といってもおそらく鷺のことを言っているのでしょうけど、以前はサギのコロニーになっていたのかもしれませんね。



「観音堂」は昭和6年の再建で「大斐閣」とも呼ばれる御堂です。
中には観音立像が安置されていますが、昭和初期の仏像なのでしょうか。少し違和感を感じる仏像です。





書院の前庭に庭園があり、ここには樹齢750年ともいわれるハイビャクシンが枝を拡げています。
根に近い部分は幹が幾十にも重なりあった独特の姿をしています。





このハイビャクシンの緑に埋もれるように「勧修寺型灯篭」と呼ばれる水戸黄門(光圀)が寄進した灯篭がユニークな姿で立っています。
しばらく前庭を歩いていたら、植え込みの中からジョウビタキの雄が可愛い姿を現したりして心が和みます。



ところで、勧修寺の御朱印はすぐ近くにある「仏光院」で頂くことになりますが、仏光院には壮絶な話があります。
仏光院は、昭和21年に勧修寺の境内に身体障害者の収容厚生施設を創立された大石順教尼が、昭和26年に勧修寺の塔頭があった場所に再建建立された寺院といいます。

順教尼は元は大阪堀江の芸妓でしたが、明治38年に養父・万次郎が起こした「堀江六人斬り事件」の巻き添えで若干17才で両腕を切り落とされてしまったそうです。
その後、紆余曲折ありつつも数々の苦難をのり超え、出家・得度して六人斬り犠牲者の追善と身体障害者の救済に人生を捧げられたといいます。
順教尼は身体障がい者から心の母と慕われていましたが、昭和43年に81歳で生涯を閉じられています。



また、順教尼は両手がないままに口に筆を咥えて書画を描きいて日展に入選、日本人として東洋で最初の世界身体障害者芸術家協会の会員に選ばれたといいます。
猟奇事件の被害者として両手のない自身を見世物として巡業生活(と書かれることがある)、出産と離婚といった壮絶な半生を過ごしながらも、慈母観音と慕われ身体障害者に尽くした順教尼の言葉があります。

「何事も成せばなるてふ言の葉を胸にきざみて 生きて来しわれ(順教尼)」


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