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超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

手作り弁当物語

2016-01-20 07:33:49 | 昭和
前の土日は大学入試センター試験だった。息子は縁がなかったが、同級生は「これから本番」という人も多く、月曜日のように雪で交通が混乱しなくて良かったと思う。年齢的に当然なのだが、中高の同級生や同年代の知人はご子息に「受けに行った」と人も多かった。そして某SNSに同級生の女子が息子さんのために作って持たせた「お弁当」を掲載していた。彼女曰く、昔の共通一次経験者という男性は「自分たちの時は、親なんて何にもしなかった。お弁当なんて重たいからやめた方がいい」だそうだ。(もしかしてパートナー様かもしれない)30数年前はどうだったかな。たまたま竜泉寺に行く途中に母親に聞いてみると、たぶん「カツ入りの弁当」を作ったはずだという。今でこそセンター試験の会場は我が家のすぐそばの大学も含めてたくさん設けられているが、我々の時は横浜にある某国公立大学が試験会場だった。周囲にコンビニのようなものや食堂は無かった(あっても初めて行く所だから知らなかった)から、間違いなく弁当持参で行ったのだろう。受験に「勝つ」といういかにも昔風の内容だったようだが、ものすごいボリュームをガッつり食べたからか、午後からの試験後半(さすがに科目は忘れた)はやたらに眠かった記憶だけが残っている。

息子さんに手作り弁当を持たせた女子の投稿に対し、「私も持たせた」とか「母の愛情が一番」とか、「おにぎりと具だくさんスープがよい」、「緊張しても一緒にいてくれる感じでほっとする」「コンビニのおにぎりは売り切れになるから手弁当が一番」などと受験生を持つ又は経験した母親の思いが賑やかに交差した。中には「私は上の子の時ついて行っちゃった」というママもいた。自分は方向音痴なので、すべての会場を試験時間に合わせて下見したそうだ。そういえば前日にニュースでまだ立ち入り禁止の試験会場の門前で受験生がインタビューされていて、翌日の試験開始時間から見て電車の所要時間やルートを確認しているということだった。親がついていくというのはちょっと心配性のような気もするが、「無事会場にたどり着けるか心配でついて行きたい」と名乗りを上げたママの気持ちもよく分かった。最初の女子の言う「共通一次経験者の男性は弁当をやめたほうがよいという」に反論して、「ボクは持っていきました」と母に確認した後コメントしたら、「今みたいに親は関与しなかったけど、お弁当くらいは作ってもらった」と賛同してくれるバスケ部の同級生も出てきた。「確か雪が降っていたか、雪がやんだか、すごく寒い日でしたね」と件の女子が返してきたので「(へーえ、彼女も受けたんだな)」と思っていたらプロフィールに何と、我が家と浅からぬ御縁の学校が載っていた。(不思議なものだが、よろしく願いたい)

翌月曜日は朝から大雪で首都圏の交通は大混乱、県内から通勤する人は軒並み普段の倍以上の通勤時間をかけて苦戦していた。前日のセンター試験投稿を見るとさらにたくさんのコメントが寄せられていた。女性が多かったがやはり受験生の母親らしくお弁当のメニューなどの話題が多かった。それらを見ていて私は電撃的に思い出した東京ガスのCMのことを「タイミング遅れですが・・・」とコメントしてみた。渡辺えり子さんが「息子にお弁当でメッセージを伝える母」の物語である。最初はたぶん少年が中学生になったときだろう、玄関で「好物ベスト3」を差し出す。その後「おふくろの味」「リラックス」・・・「野菜も食べなさい」と思い切り弁当箱に野菜炒めが詰め込んであるのは笑える。「元気だせ」「ごめん!寝坊した!」「晴れるといいなぁ」とテルテル坊主のノリ弁、8点の答案用紙を見つけた時は「カツ(喝)!」、彼女と歩く姿を見つけて「祝!」、誕生日には「ハッピーバースディ」、試験勉強(たぶん受験勉強?)で机に向かう姿を見て「がんばってるで賞」・・・そして少年の月日は流れ母がお弁当を渡す最後の日がやってくる。高校生活最後のお弁当だろう。メッセージは「このお弁当、覚えてる??」最初に渡した卵焼き、ハンバーグ、鳥唐揚げの「好物ベスト3」である。その後の展開は涙で画面が滲む。。。ところが後から「弁当篇は渡辺えり子じゃないよ」と妻に指摘され。大慌てとなった。。。

私のようにデスクで暇なのか麻雀仲間だったバスケ部同級生は「あれは良いCMだった。」と返してきたが、今時のある方面の方々からは「女性の役割の固定化だ」とクレームが付きそうだともいう。うーむ。。。言われてみればそうかもしれないが母親は母親だ。日本のお母さんと言えば昔は京塚昌子さん(もしくは畏れ多くも先の皇后陛下)、今は渡辺えり子さんというイメージなんだが・・・件の女史は同じ東京ガスの「母とは」篇を見て「世界で一番料理がウマイ」以外は自分のことのようだとコメントを返してきたが、しばらくして「東京ガス」「渡辺えり子」「お弁当」検索して出てきた動画を見て「号泣中」と方向修正し、関連で出てくる色んな動画を見て「今日は、流行りの涙活です。」と締めくくった。(雪で仕事がキャンセルになり、暇になったらしいがえり子さんじゃなくてお騒がせしました)
地方のスタイルとして私も息子甘辛も同じで、小学校は給食だから弁当はなし、中高は部活で遅いからがっつりお弁当となるから、この6年は母親の濃い時間である。しかし高校を卒業するとすべては外食となり弁当持参ということは一旦なくなる。つまり母の手弁当最後の日が普通やって来るのである。同級生の女史も妻も遠からずこの日を迎えることとなる。

父親が職場に弁当を持っていく人だったから、私の母は私が中高生である「母の手弁当篇」が始まる前も終わった後もずーっと弁当を作り続けていた。父向けの弁当は偏屈なのか内容に無頓着なのかいつも同じような「ごめん!寝坊した!」篇のようなものだった。毎日シャケと卵焼きと漬物だけでよく飽きないものだと感心していた。私の弁当は横になっても汁が漏れない巨大なタッパに入っており、「好物ベスト3」に似たコンテンツが多かったが、たまに焼き鳥が串ごと入っている時もあり、「こいつんちは酒飲みだ」と冷やかされた。東京ガスCMでは「喝」の意味だったが、普通カツが入っているのは何かの「勝負時」だった。しかしソースを入れ忘れられたり間違って醤油を入れられたりすることが多く、100万円の宝くじに2番違いで外れたような気分をよく味わわされ得た。母にとっては高校を卒業して私の弁当はなくなっても、父の弁当はさらにしばらく続いたからあまり感慨深いものはなかった(割とこの方面はドライだった)ようだが、孫の甘辛の運動会向けに「何かおかずを作ってきて」というとかなり嬉しそうに色んなものをこしらえてきたものだ。

結婚して一緒に遊びに出かける時に妻が作ってくれる弁当以外はしばらく遠ざかっていたが、甘辛が生まれ幼稚園に通うようになって「第一期手弁当時代」を迎える。「ボクの大好きなものだけ入れてね」と幼い甘辛にせがまれ、小さなウルトラマンの箱に弁当を作るようになって「ついでに」私の分も作ってもらうようになり、インテリジェントビルの職場で何の抵抗もなく弁当箱を開いた。中高の時のように巨大なタッパーではなかったが、そこそこ入る器だ。私は食い終わると必ず給湯室でさーっと洗うことを忘れなかった。女子社員に感心されたこともあるが、その昔夏休み前に食ったままの弁当箱を机の中に忘れたまま、40日間の休みを過ごしてしまい、9月の新学期に発見してその蓋を開けるという世にも悍ましく忌まわしい経験が忘れられないだけである。そして甘辛の小学校入学とともに私の「手弁当時代」も終わりを告げた。当たり前だが「第二期手弁当時代」は6年後にやってくる。この時は私が使っていた弁当箱を甘辛が使用することになり、私用はミスタードーナッツの安っぽい景品にされた。成長期が遅かった甘辛に対し少しでもたくさん食べさせたいのか、妻は甘辛の弁当箱に凄まじいばかりの米とおかずを詰め込んだ。何せ全体重をかけないと蓋が閉まらないほどの量である(大きいのを買えばいいのに)。一度包みの巾着を間違えて持ち上げたら鉄アレーでも入ってるのかと思うほど重かった。。。

      

甘辛は自由登校期間に入り、ほとんど学校に行かなくなってから弁当を持っていくことも自然に消えつつある。そのうち甘辛向けの弁当が終わるとき、私の弁当も終わる。まことにありがたいことだが、同級生女史のように本命の息子向けでないのに作ってもらうのは何か悪いし、我が社は昼食の補助制度が結構充実しているから、ものすごく不便になるわけでもないのだ。今度「お弁当メール篇」を妻と息子甘辛に見せて、高校生である彼への最後の弁当はいつになるか、そしてその時は何をおかずにするか聞いてみようと思う。むろんその時は同じものを自分用にも作ってもらうつもりである。母の手弁当が終わる時とは一つのイニシエーション(通過儀礼)だとも思われるが、CMのように、「これで最後」とキメられることは中々なく、後から「あー、あれが最後だったな」と思い出すくらいのものだ。しかし自宅から進学先へ通学するであろう息子は何の屈託もなく「母ちゃん、弁当作ってくれい!」と頼みそうな気もするし、そうなるとこの感無量的な作戦もパーになってしまう。それとは別に仕事に出る妻にいずれ私が自分用と共に弁当を作ってやろうと最近、朝の忙しい時でも簡単にできる弁当メニューを色々教わろうとしているのだが、その日珍しく甘辛の出かける予定がないのに「弁当作ってあげるよ」と包みを持たせてくれた。どうやらこちらの魂胆を見抜き「やめておけ」というメッセージにも見えるのである。

大晦日と正月の今昔

2016-01-09 13:18:41 | 昭和
我々は言わば昭和末期に若者時代を過ごした世代だが、暮れと正月の過ごし方や家周辺の風景、テレビ番組なども少しずつ変わってきたものだ。正月明け朝の連ドラではそれこそ「昔の日本の正しい正月」(商家バージョン?)が短い15分という短い放映時間にダイジェスト版で登場した。あれと比較すると確かに昭和も平成も日本の家庭そのものが劇的に変化したと言えるだろう。しかし昭和末期から今まで30年くらいを見ると、なくなったものとまだあるものがたくさんあり、変化としては微妙なのである。もちろん年齢によるスタイルの変化も多分にあるが、文化という面から見ると昭和末期には現在の生活で当たり前のように使用するほとんどのものが存在したのである。インターネットやスマホは確かにあの時代には無かったが、普段の生活と異なり年明けを過ごすにあたり、あんなものはあってもなくても大差がない。餅つきや年賀状も、門松や正月飾りも減るには減ったが、絶滅してしまったわけでもない。福笑いや羽子板は確かに見なくなったが同様のゲーム、スポーツはあるし、駒は「缶ゴマ」という形で学童で見られるし、海浜公園の空を埋め尽くしたゲイラカイトも数は減ったが健在だ。巨大な凧を上げて喜んでいるのは「○○凧揚げ会」とかいう大人のグループだが。

ちなみに我が地方で遊んだコマは先日ハイキングした大山がルーツの「大山こま」というもので、紐が麻で編まれた細い縄のようになっている。馬の尻尾のような先端は「はたき」と言い、回した後コマの回転が衰えないように回転方向に「はたく」のだがあまり効果はない。「けんかゴマ」といって先に回っているコマ目がけて投げつけ叩き割る遊び方が主流だが、頑丈な大山こまはそんなことで割れることもないので、そのまま一番長く回っていた者が勝ちとなる。ある者が一計を案じ、はたきの先端に細かく線上にちぎった布きれを装着して回転補助力を強化しようとしたが、はたいた瞬間、コマごと吹っ飛んでしまい隣家のガラス窓を叩き割ってえらい怒られていた。またある者は芯の部分を本体と見分けがつかぬほど短く削り、「止まっても倒れず、はたけば再び回り始める」不死身のコマを考案したが「豚ゴマ」と蔑まれて姿を消した。芯の中央にベアリングを打ち込んできた者もいて、滑らかなコンクリの上では威力を発揮したが土の上では刺さってしまってダメだった。

子供の頃、大晦日はNHK夜の番組で「刑事コロンボ」を放映する日以外に唯一、日付が変わるまで起きている日だった。今は完全な時代の変遷と番組としての行き詰まりを感じるが、高橋圭三さんの「輝く!日本レコード大賞」が始まる夕方7時頃までには全て正月準備が終わっていた。歌番組とアイドル全盛期を過ごした青少年の注目は最初、「最優秀新人賞」、そしてその彼、彼女らが盤石のアイドル基盤を築いて受賞する「レコ大」だった。レコード大賞は「日本を代表する歌の上手い人が歌う日本で一番売れた曲」だと思っていたが、ピンクレディがこの常識を打ち破った(というのは失礼かな)。その頃はレコード大賞発表とNHK紅白歌合戦の始まり時間がカブっていて、レコ大受賞者は武道館から駆け付けたが紅白のオープニングには間に合わなかった。この遅刻こそ歌手最高の栄誉と思われていたようだ。当時の紅白歌合戦では新人アイドルは全てトップバッターや前半に集められ、いきなり登場、一番だけ歌って退くという明らかな差別扱いだった。少年の私達は最初から3組くらい見ると後は「聞いたこともない」懐メロしか出て来ないので紅白など全く興味を持てず、自分の部屋で「紅白歌合戦をぶっ飛ばせ」や「仮装大賞」を経てべーやんが歌い里見浩太郎さん演じる「年末時代劇」を見ていた。そして紅白歌合戦が終了するとNHKは地味に雪降る「永平寺」などが映ったが、昭和の終わり頃までは確か民放の「ゆく年くる年」は割と華やかに全局同じ番組だったと思う。

私はこれまで「深夜番組を延々と見る」という習慣がなく、大晦日も年が明けてしばらくすると寝てしまっていた。今でこそ「年越しライブ」とか「朝まで生放送」など24時間そこそこ内容のある番組があるようだが、昭和の頃は朝方の空白時間帯までの「つなぎ番組」は年明け前後の華やかさとは考えられないくらい「落差の激しい」映画ものだった。(うろ覚えて適当に挙げているが)例えば「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神の逆襲」の3部作そのまんま放送、「猿の惑星」「続・猿の惑星」「新・猿の惑星」なんてやはりシリーズ3連チャン、「水戸黄門(天下の副将軍)」、「旗本退屈男」「社長何とか記」シリーズ・・・どうだろうか?自分の守備範囲だけで決めつけてはいけないが、どう考えてもわざと「斜め下」を進んでいるとしか思えない。大魔神・・・?「ゴジラ」なら間違いなく見た。猿の惑星・・・?「スター・ウォーズ」は無理でも「スター・トレック」ならたぶん見た。時代劇なら「関ヶ原」をやってほしかった!森繁さんの社長シリーズ・・・?「釣りバカ日誌」なら。。。。見ないな、やっぱり。

新年の朝を迎えると、その昔は正月番組と言ったらどこのチャンネルを回しても「爆笑ヒットパレード」や「新春東西寄席」など純粋お笑い番組に事欠くことはなかった。この時期のお笑い番組は1年で正月以外たまに笑点でしかテレビで見られない正統派の漫才やコントなどの宝庫で、ある意味貴重な記録だ。染之助・染太郎師匠を筆頭?に楽器持ちの演芸なら玉川カルテット、東京ボーイズ、横山ホットブラザーズ・・・純正漫才なら昭和のいる・こいる、大木こだま・ひびき、中田カウス・ボタン・・・中には亡くなってしまった人もいるな。元々漫才やコントが本職だったのに、テレビではバラエティ番組の司会やコメント出演、クイズ番組の回答者ばかりやっているのが正月だけはちゃんとしたネタを一応はやるところが面白い。最近は「出ては消え」が激しく、流行の人気芸人が毎年変わっているようだでさすがに「一発屋」とは言われないが、「去年流行って、今いない人」みたいな感じでミニコーナーで紹介される人々には何か哀愁のようなものを感じる。「ゲッツ!の黄色い人」「ワイルドな人」「そんなの関係ねえ人」「ごめんねごめんねえの栃木人」などは辛うじてチョイ出を見たが、M1グランプリなどで正統派コントを勝負するとは思えない「だめよ、ダメダメの連合」「ぐぅ〜っの美人なお姉さん」「らっすんごれらいの人」などはとうとう、テレビで見かけることはなかった。妻は「あなたは『お笑い』あんまり見ないから」と言うが。。。

朝の連ドラで見たほどがっつり「大晦日と正月」をそれらしく過ごした記憶はない(でもあれを見ると「なるほどなー」と感心する)が、コンビニ主流となる前は正月3が日は近所の商店街も全てシャッターが下りて「しーん」としており、食品や必需品が不足すると何一つ買えなくなった。大掃除や正月料理など正統派を改めて見ると我が家はかなりサボっていたようだが、それでも普段は外さない網戸や換気扇を洗ったのは覚えている。また自家用車がやってきてからは必ず洗車はしていた。今ではとんと見なくなったが、ボンネットの前の小さな正月飾りも付けていた。いつだったか正月飾りを付けたまま大晦日に洗車していたら、中央の安っぽい海老の模型がボロボロに溶けてしまい悲惨な姿になった。慌てて新しいのを近所のダイクマに買いに行こうとすると「そのままにしておけ」という父親の言葉で初めて「一夜飾り」というのはよくないことなのだということを知った。
私も父親も「おせち料理」なるものはあまり好きでなかったから、母もあまり精を出して作らなかったようだ。黒豆はよく煮ていたが家中異様な臭いに包まれていた。その結果、出来上がった黒光りする豆が何とも薄気味悪く、数の子は漬物っぽくて食べられない。田作りなども豊作祈願があるそうだが、「何で正月からこんな釣りエサみたいなものを食わねばならんのか?」という気分が否めなかったし、伊達巻や栗きんとんなどは甘くて酒の肴にはならない。昆布巻きとかまぼこ以外正当おせち料理を色々出してもあまり手を付けずいつまでも残っているので、そのうち正月の食卓には出て来なくなってしまった。

両親とも富山の人だから魚や独特な漬物にはこだわりがあり、送られてくるヒラメの昆布〆やバイ貝煮付け、煮しめなどはよく食べていた。私が成人して酒を飲むようになると尾頭付き鯛の塩焼きを箸でつつき、骨を炙って骨酒にして飲んだ。雑煮を普通に食い、あまり歓迎されないおせち料理の代わりに日持ち(というか製作者が楽)する大量のおでん鍋とか、すきなべ、豚しゃぶなど鍋ものが台頭していた。餅もよく食べたがちょっと変わっていて富山から送られてくる豆もちと昆布もちが主だった。豆もちはこの辺でも見かけるが、昆布もちとなると中々売っていないようだ。また「おせちもいいけどカレーもね♪」というキャンディーズのCMにすっかりやられた私にはよくカレーが作り置きされ、カップラーメンなどもかなり買い置きされていた。家族3人でひたすら酒ばかり飲んでいたのだが、妻が増えて4人となり、さらに甘辛が登場していち早くルールを覚えてしまうと、そこそこ飲み食いした後は箱根駅伝中継をつけっ放しにして「新春麻雀大会」が開催できるようになった。残念ながら麻雀好きの父が亡くなってしまった後だったが息子が幼稚園の頃であり、一応受験生の今に至るまで続いている。(一家で所縁ある何校も箱根駅伝の応援を沿道で楽しめるという月美さんご家族におかれてはまことに羨ましい限りである)

あろうことか息子甘辛がクビになってしまった駅前の進学塾の前を通ると「センター試験まであと9日」という大きなカウンターが見えた。ずいぶんと追い込むようなことをするものだが、幸いにも(と言ってよいかの判断は後年に委ねなければならないが)甘辛はこの暗黒期間を潜り抜けることができた。しかし神妙にも今回はどこにも出かけずに家で皆と寝正月を決め込んでいた。恐らく近くで「遊んでくれる者」が見つからなかったのだろうが。来年は友達同士どこかに出かけてしまうかもしれない。スキー場とまでは行かなくても、首都圏近郊、我が家周辺でも若者らしく?カウントダウンして夜通し過ごすイベント、場所には事欠かない。そしたら妻と老母3人で久々に正月の温泉にでも出かけるか。そうなったとしても1日には帰宅していなくてはなるまい。月美さんに「絶対にテレビに映る場所」を教えてもらい、ウルトラコスプレで小夏師匠に合図を送ることになっているから。。。

今回は写真がないのだが、正月に赤いライオン号を取りに家に戻った時に不思議なことがあった。ポインター号用の車体カバーの下に何と「カニ」がいたのである。海までは400m、川までも50mはあるのだが、どこからどうやってやってきたのか?そのまま203号を持って川辺を少し歩くと、縁起のいいことに「青い鳥」に出会うことができたので、これだけ載せておこう。

        

我らが「12ちゃん」

2015-09-16 05:47:37 | 昭和
民法局の番組を見に最近よく訪れる「テレ東」について、昭和期によく見ていた「チープな番組」を書き綴ってきた。せっかく途中まで書いたのでもう少し続きを考えてみよう。(って実はもうネタが切れてきたのだが・・・)
その前にテレ東と言えば「11PM」や「オールナイトフジ」を凌ぐお色気シーン満載の深夜番組が山ほどあったようだが、残念ながらそのほとんどは見たことがない。「天才柳沢教授の生活」のように未成年期の私は今同様に完全「朝系」で夜10時40分頃から放映されたいたNHKの「刑事コロンボ」以外は11時以降起きていることがほぼ無かったのである。(受験生期間だけ1時間延びた)青年期はそもそもこれらの番組が流れる土日の夜など家にいないことが多かったものだが、「ギルガメッシュナイト」の故・飯島愛さんの「御尻」は印象的だった。

「釣り」
私は釣りが好きだったので釣り番組には期待することが多いのだが、メジャーの民放では「松方弘樹世界を釣る」なんていう非現実的な特番しかなく、ここでも「12ちゃん」はかなりの健闘を見せた。「われら釣り天狗」「千夜釣行」「釣りロマンを求めて」など、どれも似たような内容で海なのか川なのか、テーマ・ジャンルがよく分からなかったが、貴重な分野として土日の夕方にいる時はよく見ていたものである。いつ見ても明らかに爆釣で、釣れたシーンだけ「テープをつなぎ合わせている」か、ダイバーが針に魚をつけているか、都市伝説として噂された。年末のカワハギ船に「オレも行く!」と手を挙げたら、「お正月休みでダイバーがいないので・・・」と笑われて久しい。。。

  

「旅行」
旅行と言えば多局でも多くの番組がある。しかし他の民放は少し若めの女性タレントやお笑い芸人、バラエティタレントなどを起用しているようだが、我らが「12ちゃん」では「いい旅・夢気分」が印象的で、その昔は山本陽子さんが光っていた。なぜ覚えているかというと、撮影の裏話をどこかのトーク番組で披露していたのである。高級温泉旅館など紹介する時は他の宿泊客に配慮して撮影は早朝に行われたことが多かったそうだ。夜遠しで板前さんの創った特別料理を朝の暗いうちからほおばり、何度も取り直ししてげっそりしてきたところに、入浴シーンの連続で半ばのぼせ上がりながら、「ふぅーっ・・・ゆったりできるわねえ。。。」といかにもくつろいで見せるのはかなりしんどかったそうだ。(さすが女優魂)他局がくだらないバラティばかりやっている時にこの局の旅番組を見ると何故か気分が落ち着き、ずいぶんお世話になったものだ。

  

「バラエティ」
他のメジャー局でも多くの番組がバブルのように「出ては消え」、この局も多くの番組があったようだが、こういうマイナー局になると番組自体を全く覚えていない(というか見ていない?!)バラエティ・お笑い番組は「流行り」の芸人やタレントを抜かりなく起用するのが大事で、他局にかなり遅れをとっていたような気がする。よく見ていたのは「三波伸介の凸凹大学校」である。確か故・三波伸介さんがはげ頭にちょび髭の「カトちゃん」みたいな姿だった。面白かったのは「白紙の描く絵とジェスチャーを組み合わせたエスチャー」で、レギュラーだったずうとるびの山田さんだったか江藤さんだったかが、いつも変な絵を描いて笑わせた。岸本加世子さんがヌード写真を出した時、「あんな姿じゃ寒いだろ」とのたまった三波伸介さんが途中で亡くなってしまった。最終回(たぶん)の追悼特集はものすごく寂しく悲しい記憶がある。

   

「トーク」
週末、私が寝る時間の直前くらいに「ミエと良子のおしゃべり泥棒」というトーク番組をやっていた。ウィークエンダーよりは上品なものを感じた。あまり内容に印象深いものはないのだが、たぶんミエさんのほうがずけずけと普通は聞かないゲストの過去やプライベートところに踏み込み、良子さんが「まあまあ・・・」と抑え役だったようだ。今でもそういう番組は結構あるが、深夜帯だったからかテーブルにお酒が確かあって、今よりもお洒落な感じが漂っていた。内容はあまり覚えていないが、俳優の浮気話とか嫌いな芸能人の悪口とかミエさんはかなり際どいところまで突っ込んでいた。マンションの一室みたいなところで撮影されたいて、最後に二人が「あの人はああだったこうだった」と回想してエンディングを迎えるのだが、あの手の演出というかスタイルの走りだったように思う。両親は「人に歴史あり」とかいうシビアな番組を深夜に見ていたが、内容はあまり覚えていない。

  

「時代劇」
名物時代劇と言えば、「桃太郎侍」の高橋英樹さんや「長七郎江戸日記」里見浩太郎さんの二刀流が煌びやかだったが、隠密同心としてグループの多様な活動で蔓延る悪を退治した「大江戸捜査網」は大好きだった。オープニングで「隠密同心、それは時の老中○○●●(松平定信だったかなあ)の命により・・・・・彼らに明日はない。」そしてエンディングでは「隠密同心、(何とかかんとか色々口上)・・・なお死して屍拾う者なし、死して屍拾うものなし」(ちなみにたくさんのシリーズがあるようなのでこれだけではないかもしれない)私が見ていた頃は「12ちゃん」の割には杉良太郎さんや里見浩太郎さんと言った超大物時代劇俳優が出ていたように思う。妻は瑳川哲朗さん演じる井坂十蔵が好きだったらしく、内容そのものは私よりも詳しいようだ。ちなみに瑳川哲朗さんはウルトラマンAの防衛隊TACの隊長である。平成になっても何度か新シリーズが登場したようで、あの独特なオープニングテーマはテレ東の色々な番組(特に取材や探し物)で使用されているし、元職場にこのオープニングを携帯の着メロにしている人がいた。

  

いよいよ最後のジャンルが「アニメ」シリーズである。(って言うか、もはやネタ切れ・・・)
息子甘辛に言わせると(彼の時代はテレ東)、12ちゃんは小さい頃アニメの宝庫だったそうである。「とっとこハム太郎」「超ロボット生命体トランスフォーマーシリーズ」「ヒカリアン」「ビーダマン」に「ケロロ軍曹」なるほど、私でも幼い息子と一緒に見た記憶がある。しかし昭和の時代を見ると何やかやで色々見てはいたが、「これぞ12ちゃん」というアニメは印象がないのである。ただ「番組時間帯と看板アニメ」がぱーっと思いつくのは夕方6時半から7時までの「まんがキッドボックス」から「まんがのくに」への流れである。この時間帯専用に制作されたものではなく、外国のアニメなどが垂れ流しになっていてちょっと意味不明なものもあった。「これが見たい!」とチャンネルを合わせていたわけではない。夕方6時半から7時の間は他の民放はすべてニュースか天気予報、スポーツ速報みたいになってしまっていて、子供にとっては空白時間帯であり、アニメ難民のように最果ての「12ちゃん」に流れ着いたのである。正直、どちらの枠で放映されていたのか、さっぱり覚えていないが誰もが覚えている有名どころ以外に、確実にあったというものはいくつか挙げられる。メジャー路線で言えばポパイ、チキチキマシン猛レースとその派生品のようなアニメ、マジックベルトの「シンドバッドの冒険」に登場したオウムのソルティは三遊亭金馬師匠だった。よく考えると「ハンナ・バーベラ」ものが多かったような気がする。
そして「シンドバッド」に「ラムジーちゃん」という白いプードルの短い物語がすぐに続いたように思う。主題歌は「ラムジー、ラムジー可愛い子ちゃん、ラムジー、ラムジーお茶目ちゃん・・・・変身オオカミぱっと出て、騙すつもりが騙される。。。。」その他、運動方程式くらいの記憶にあるのは「大魔王シャザーン」、ヒューヒュー、ポーポーの出る「怪獣王ターガン」、そして三角関数の加法定理並みのうろ覚えしかないものとして「突貫カメくん」「タキシードペンギン」などである。(あくまでうろ覚えなので違ったらスルーしてね)

今はなき、東京12チャンネル(テレ東になってからのも入っている)の番組編だったが、他のメジャー民放局に比べて何かと格下のイメージがあり、「ボラギノールのCM」のようにいかにも低予算で映像がイマイチだった割にはずいぶんと救われていたと思う。実は記事中に登場する番組タイトルは図書館で借りてきた「ザ・テレビ欄」のものである。「東京12チャンネル」欄だけ見てみてもこれまで書いてきた番組以外にも「あーっ、これあったあった!見てたねー」というものが結構ある。小夏師匠のご指摘された「演歌の花道」も調べるとやはり夜10時からの番組だった。私はあまり見なかったのだが「にっぽんの歌」とともに「演歌のテレ東」を確立した番組で、「浮世の・・・歌ひとつ」のオープニングは有名なせりふだったらしい。(さすが師匠)「にっぽんの歌」というのは夏祭り編とか年忘れ編とか色々応用編があったと思う。また平成の始めごろには「昭和歌謡大全集」という番組もあったが、アイドル全盛の我々にとっては少し前時代的な「知らない曲」ばかりでほとんどチャンネルを回すことはなかった。

  

さてパラパラとテレビ欄ページをめくっていると、「12ちゃん」の番組のは二つの法則があてはまるような気がしてきた。一つは無茶苦茶な再放映権の取得である。たぶんオリジナルの放映は他局だったであろうが、(再)マークもつけずに平然と流していた番組が山ほどあり、どちらかというと「12ちゃん」で初めて見た番組の方が多いくらいである。アニメで言えば「カバトット」「かいけつタマゴン」「ゼロテスター」に「ハクション大魔王」、特撮ならスバル360の「トリプルファイター」、忍法獅子変化の「怪傑ライオン丸」、ドラマならチー坊の「パパと呼ばないで」、片桐くんの「飛び出せ青春」、どう見ても「夕陽が丘の総理大臣」の二番煎じにしか見えない「旭ヶ丘の大統領」、時代劇では「鬼平犯科帳」、「子連れ狼」などがそうだ。特に子供の頃、チャンネル権がなくてオリジナル番組を見られなかったアニメ番組は午前中にやっていた「まんが広場」で見貯めしていたのである。

さてもう一つ、我らが「12ちゃん」の大きな法則は無茶苦茶な放映時間帯の変更である。
看板の「大江戸捜査網」は夜9時がメインだったが、その再放送は昼の1時かと思えば夕方16時、はたまた深夜0時なんていう時もあった。「世界の料理ショー」も日曜昼前の時はいいタイミングで食欲が湧いたのに、夜10時に追いやられ、最後はさらに11時なんていう夜食のような時間になってしまった。「我ら釣り天狗」は始めのうちは深夜11時15分なんていう蔑まれたような時間だったが、夕方4時45分に昇格し、さらに午前10時半に抜擢されたが、いつの間にか深夜11時半に格下げされてしまった。憧れのお色気ドラマ「プレイガール」は深夜0時台と真昼間を行ったり来たり・・・全く無茶苦茶な時間帯設定である。
テレ東だけでもこれだけ話題があるのである。昭和のテレビ欄をくまなく見渡すと、もっと面白い番組や見出しの宝庫に違いない。

がんばれ「12ちゃん」

2015-09-13 16:10:49 | 昭和
子供の頃から王道を行くようなテレビっ子だった私にとって、「東京12チャンネル」というのは何となく他の民放と格の異なる「最果ての」テレビ局だった。名前からして田舎臭かった(東京だけど)し、新聞のテレ番欄でも一番端っこだったし、チャンネルを回しても(今は言わない?)次はNHKに戻る位置である。ただ年のせいか、他の民放がいわゆるゴールデンタイムで、お笑い芸人やちょっと知性の不足気味なタレントが遊んでるだけのドタバタ番組や、トイレに立っただけでストーリーがさっぱり分からなくなる難解なドラマばかりに感じ、げっそりして難民のように行き着くことが多くなり、妻と「テレ東、頑張ってるよねえ」と苦笑する機会が増えた。先日、我が家の近くを取り上げてくれた「アド街」など堂々たる土曜の定番番組になりつつあるが、この局で見てきた番組の特徴は「毎週欠かさず見るモノではなく」「他のメジャー局がいかにも下らないとき」「じゃ、テレ東でも見っか」と回してたどり着くことが多い。その性質上、ニュースやドキュメンタリー、ドラマなどはやはりNHKや他局にひけをとっているように感じる。ちなみに我が家(実家)ではBSアンテナをつけるまでUHFは映らなかったのでもっとマイナーなTVK番組は見たこともなかったのだ。「辻街」編を書いていて何となく思いついたので、主に昭和の頃見ていた12ちゃんの番組をアド街風にあげてみよう。ただし一々調べないのでうろ覚えが多く、間違いも多々あろうかと思う。(そこはスルーしてね)

第10位「料理」
「料理天国」や「料理バンザイ」、「料理の鉄人」などメジャー局では大物番組が必ずいくつかあったが、「12ちゃん」にはほとんど記憶に残る番組はなかった。その中で綺羅星のように輝いたのがこのサイトでも一度取り上げた「世界の料理ショー」である。日曜午前の早くもなく、昼に近くもない「普通は出かけているが、たまたま暇などうでもよい時間」に放映されていたように思う。コマーシャルの時にGCのマークが現れ、ワイン片手にやけに太いネクタイをしたグラハム・カーが面白トークしながら聞いたこともない料理を仕上げていく。「男の料理」のように具材の裁断や前処理などがいかにも雑で、やたらにジューサーミキサーを使用していたが、切った具材を鍋にぶち込む際に使っていた魔法のヘラのような平たい器具が印象的だった。またいかにも高脂肪、高カロリー、高コレステな完成した料理を食べた時の至福に満ちた美味そうな顔は誰にも真似できないものだった。このサイトにも登場したグンマの大先輩「スティーブ」の命名もその役割上この番組のスタッフに由来する。(その後、「外見がアップルの創始者に似ている」という風に美化した)

  

第9位「特撮」
子供向けではアニメのイメージが強い「12ちゃん」だが、色々と手掛けていて結構見ていた。ただウルトラ、仮面ライダー、戦隊シリーズやその類似系に比べると、独自路線のようで「ばったもん」臭を消せないところが多かった。例えば先日の「アニソン魂2015」にも登場した水木アニキとみっちーのゴールデンコンビが主題歌を歌う「忍者キャプター」など、いかにも戦隊ものなのだが、メンバーが7人という中途半端な設定で変身してもイマイチ「姿が変わった」感が少なかった。またどちらが先か忘れたが登場の際に「ズバッと参上、ズバッと解決。人呼んでさすらいのヒーロー!快傑ズバット!!」と何とも赤面するしかないようなセリフをのたまう「怪傑ズバット」は何と仮面ライダーV3の風見志郎(宮内淳さん)である。さらにウルトラマンに登場した怪獣のぬいぐるみ同士が工事現場などでいかにも等身大で古館一郎さんばりのプロレス実況に乗り戦う(というよりは叩き合う)「ウルトラファイト」(これは確か本家TBS)に似た「ミラーファイト」という世紀末ともいえる5分番組もあった。

    

第8位「スポーツ」
巨人戦や各種球技スポーツの大会、プロレスやマラソン、国際大会の中継などはほとんどない。ただその昔、今ほど流行っていなかったサッカーに関し「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組は日本リーグが見向きもされなかった時代に唯一やっていたサッカー番組としてマイナーに輝いていた。解説は日本サッカー界の第一人者「岡野俊一郎さん」で彼とぴたり息のあった司会の人の「サッカーを愛する皆さん、こんにちは」(みたいな)セリフで番組が始まった。ワールドカップがあるとその試合を放映していたが、大体イギリスのプロリーグかドイツブンデスリーガの試合が半分ずつ流れるのが定番で、選手名もそれでよく覚えられた。日本人初のプロサッカー選手奥寺さんの試合も放映されていた。番組のオープニングテーマが何とも言えず華麗な雰囲気があり今でも口ずさめる。後、妻がファンだったという東京ボンバーズを生んだ「ローラーゲーム」というのもたまに見ていた。(あれは後楽園だったろうか)中々迫力があり、学校でも結構話題があったが、最後までルールがよく分からなかった。またもう流行りはとっくに終わった後だったが、土日どちらかの真昼間に「スター・ボウリング」というをやっていて、湯原昌幸さんと清水由貴子さんが司会をしていた。「リツコさん♪」はいなかったが、亡くなった須田プロが解説にいたような気がする。学生時代にたまに足を運んだ「田町ハイレーン」(この前、潰れちゃった)も番組会場になっていた。スポーツじゃないかもしれないが、「プロ野球列伝」というのが大好きで父親と一緒に必ず見ていたものだ。

              

第7位「ゴルフ」
スポーツ編になぜ入れなかったか、というと私は「12ちゃん」という局はゴルフの番組を何よりも優先していたような気がしたからである。実は私はゴルフ番組なんて見なかったのだが、どこかの国で戦争が始まろうが、衆議院の総選挙があろうが、日本を覆うような大型台風が接近しようが、他局が特番を組んで一斉に何時間も特集しても平然とゴルフ番組を放映していたような気がする。選挙の開票速報などどの局を見ても面白くもないので、難民のように「12ちゃん」に逃げ込んだ結果、日曜日なんか特に1日中ゴルフ番組をやっていたような気がする。覚えているのは「巨泉のチャレンジゴルフ」、「尾崎兄弟に挑戦」、ちょっと変わったところで「藤原弘達のグリーン放談」というのがあった。評論家が経済、政界の要人と一緒にゴルフをしながら時事を語り合うという、中々ハイセンスなもので「時事放談(子供の頃、私は「じじいの放談」だと思っていた)」の好きだった父親がこれだけはいつも見ていた。

  

第6位「音楽」
音楽というよりは我々はまさしく黄金時代と言ってよい「アイドル」である。歌番組で言えば「ザ・ベストテン」を筆頭に「紅白歌のベストテン」「ザ・トップテン」、「夜ヒット」など大物番組の中で我らが「12ちゃん」で記憶に輝くのは「ヤンヤン歌うスタジオ」である。「あのねのね」が司会をしていた、オープニングは東京タワーだった。アイドル全盛期に、予算の関係からかちょっとB級系が多かったような気もするが、トークコーナーやコントもあり、何となく毎週見ていた。同じ日に「LuiLui」の太川陽介さんが司会をしていたNHKの「レッツゴーヤング」(松田聖子さんがサンデーズにいた)が爽やか系だったのに対し、ちょっと胡散臭いおちゃらけ系だったのが気に入っていた。

  

さて、当初これを書き始めた時は番組ジャンルにはアド街風に「第○位」と順位をつけていた。ここから先はベスト5ということになるのだが、これまでの番組と同様「とりたてて順位をつけるほどでもない、似たようなものが多い」ことに気が付いた。見てはいたのだが「何たってこれが一番よね」というもののない「どうでもいい系」が多かったのである。ということで順番を気にせず書き進むことにするが、長くなってしまったのでこの続きはまた今度(があるかどうかは自信がない)

スーパーアニソン魂の夏

2015-08-17 19:11:46 | 昭和
「アニキたちのパワフルライブ」編で書いた通り、ウルトラ・アニメ・アイドルとトリプルのゴールデン世代の私達にはドンピシャど真ん中ストライク、興奮に打ち震えた「アニソンヒットパレード」に味をしめ、真夏に行われる最大級のフェスティバルに妻と申し込んだのである。「AJF(ANIME JAPAN FES)スーパーアニソン魂2015“夏の陣”」という、聞いただけでも鳥肌が立ってくるようなイベントである。ヒットパレードは中規模のホールだったが、こちらは台場の「ZEPP東京」といういかにもな大規模ライブハウスである。その日最後の大会となる息子甘辛の試合を久々に応援に行き、そのまま妻と新橋からゆりかもめに乗り込んだ。お盆休みで台場周辺のエリアはフジテレビのイベントやらビッグサイトのコミケなどがあり、大きな紙袋を持った青少年、オタク、外国人、家族連れなどでごった返していた。青海駅で下車し、ZEPPに向かって歩きながら妻が「何かだんだん年齢層上がってるような気がしない?」と苦笑していた。ちなみに入口でドリンク券を購入して席にアルコールなどを持ち込んでライブに臨むのは初めてだった。正直あまり健全な感じはせず、「20世紀少年」の「ともだち」ライブみたいなイメージがあったのだが、さすが本場!席に着くと同時に独特の熱気が漂っている。

  

やがて場内が暗くなり、壮大なスケールを思わせるオーケストラ風のBGMが流れた。私は隣の妻に一言「ハーロックだよ」とつぶやいた。交響組曲「キャプテンハーロック」の序曲で、アルカディア号が悠然と姿を現す時に飽きるほど聞いたBGMである。「キャプテンハーロック」はアニメのBGMにしては豪華絢爛オーケストラのシンフォニーになっていて、クラシック風の音楽の世界がアニメ映像とマッチングしているところが斬新だった。最初は「ヤマト」だったと思うのだが・・・何故こんなに詳しいかというと、そのLPレコードを実家で発見したのである。このアルバムの「終曲」は私の中ではアニメ史上、最高の名曲だと思っている。最終回にこの終曲をバックにナレーションが語る名シーンが今でも脳裏をよぎる。マント姿で颯爽と登場した水木一郎アニキはハーロックを高々と歌い上げ、大声援飛び交う舞台を一旦降りていったが、去り際にあまりにも激しくマントの片肌を巻き上げ過ぎ、半分くらい脱げてしまった。慌ててくるくる巻き上げて去って行ったが、後のトークで「あれで終わってしまった」とこぼしていた。

   

そしてあのパワフルな串田アキラさんの「キン肉マン」、堀江美都子さん定番の「キャンディ・キャンディ」で早くも場内は総立ちとなり、最初のテンションピークを迎えた。司会の「ショッカーO野」なる謎のふとっちょおじさんは最初からライブにつきものの「みんぬぁ!ぬぉってるくゎいー」をぶちかましてきた。この手の「いぇーい!」系をいくつか繰り返した末「じゃーいくぞ、スーパーアニソン・・・・→ぜぇぇえっっつつ」(モモクロの振りに似ていて少し恥ずかしい)ショッカーによると、この回は3日間続いたアニメジャパンフェスタの最終日、豪華絢爛ゲストで熱中症にならないように水分をマメにとってくれ、ということだった。その紹介でド初っ端からいきなりテンションMAXで現れたのが中川ショコタンである。舞台を縦横無尽に走り回り、タオルを振り回し大歓声の中、激しく声を張り上げていたが(歌は結構上手なのね)正直最初の2曲は何を歌っているのか(歌詞も)さっぱり分からず、「今年初めて夢がかなった」というポケモンの挿入歌を歌ってようやく落ち着いた。「何だかよくわからなかったが、あれはアニソン用持ち歌なのかねえ」私が聞くと妻は「でも、ショコタンってすごく頭の回転早いと思うよ」と返した。「私は日頃から神々と尊敬している方々と楽屋でお会いして感激のあまり、いてもたってもいられない」みたいなことを古館一郎アナ顔負けの口っぷりでマシンガンのようにまくしたてて大興奮していた。

    

そしてその中でも御大と言われる「ささきいさお」さんの登場である。(私もこれは初めてだった)何からくるかと思えば、いきなりアニメデビュー曲「新造人間キャシャーン」だ。(このあたりがかなりレア・・・)御年7X歳のレジェンドはまだまだ健在だった。鉄郎がまだ少年までいかない子供の顔のテレビ版「銀河鉄道999」、そのエンディングテーマには聞き惚れた。今年、開催した「デビュー55周年記念ライブ」は10分でチケットが完売となったそうだ。このAJF2015初日はアニソン女子会で堀江さんの大活躍だったが、戦隊ヒーローシリーズをやってのけたというからすごい。堀江さんは女子向けアニメの巨匠だが、実は戦隊ものの主題歌などにもデュエットで登場しているのだ。「忍者キャプター」などは割とマイナーなアニキとのデュエットで二人で毎度歌うようだが、今回は大御所の「ささきいさお」さんがいるので間違いなくやってくれると期待した。

さて最終日ということでその3日間ではもっとも多彩な出演者だったのだが、正直よく知らない人が多かった。ショッカーO野が「昭和生まれの人!」と叫ぶとほとんどが元気よく手を挙げた観衆を見渡すと、周囲に限っても「絶対この人、オレと守備範囲とツボが一緒だよな」と思える人が結構いる。その人たちの振りを見ていると知っていて(歌ってもいる)曲と知らないが手拍子だけしている曲の違いが歴然と分かるのである。「森川美穂さんって、アニソン歌ってたっけ?」「私達の知る森川美穂じゃないんじゃないの?」相棒と歌った「ヤッホー」という曲はテレ東系のアニメだそうだがさっぱり分からなかった。山本正之さんというミュージシャンは「ヤッターマン系」の曲をたくさん歌い、素晴らしいアコースティックギター技を披露したトボけたおやじだった。3時間半という長丁場で類似の公演3日目だから曲がかぶらないようにしたのか、誰も知らない中だるみのようなソングも少し続いた。2020年オリンピックに向けてスポ根魂2015と題したコーナーがあった。水木アニキのタイガーマスクⅡはちょっと無理があり、くっしーの「キン肉マン」はさらに無理が開いてしまい、みっちの「明日へアタック」はどう見ても「アタックNO.1」のパクリに思えたが、「ささきいさお」さんの「新巨人の星」で少し救われた。そしてかの1曲だけのために尾藤イサオさんの登場で、それはそれで垂涎ものだった。ここはどう見ても「エースをねらえ!」なんだが、もう一人の女王「大杉久美子」さんはいなかった。

それまでいわゆる「アニソン」の世界は四天王と言われる重鎮を中心に「歌う人」しか知らなかったが、多くの曲を書いた伝説の超人がいらっしゃるという。名を渡辺宙明さんと言い、何と御年90歳!東大の心理学科を卒業したというこの大先生が何とナマ登場し、「まだまだ頑張るから乞うご期待〜」と手を振ってらっしゃった。初めて聞く御名だったが、「宙明先生のコーナー」と称していきなり赤いスーツで現れたアニキはいきなり「マジンガーZ」「グレートマジンガー」をかまして場内を大興奮に陥れた。くっしード迫力の「宇宙刑事ギャバン」(だったかなー?)が続き、みっちは火曜版「サザエさん」のオープニング、エンディングを歌い「ちょっとこれでデュエットしますね」と腕を真っ直ぐ前に差し出して5本の指を大きく広げてみせた。登場したのは真っ赤なジャケットに着替えた「ささきいさお」さん、遂にやってくれた、「秘密戦隊ゴレンジャー」である。「〜ごーぅ!ごごーぅ!いつつのちかーらをぉ〜ひとつにあわせてぇ〜さけーべ勝利のおたけびを・・・・」(さあ、みんなで一緒に!)

フィナーレが近づき、アニキは渋く「グランプリの鷹」、みっちーは「セーラームーン」をかましてきた。くっしーの歌は正直よく分からず、山本さんのヤッターマンは最新作(と言ってもパチンコCR)、タカトリ何とかさんはがなりたてるだけで全然知らない歌(単に知識が乏しいだけ?!)でふわーっとステージは一旦お開きになってしまった。お約束のアンコールでアニキの「バビル2世」で場内大合唱にならなかったら、どうも不完全燃焼気分だったかもしれない。そしてエンディングに出演者全員が再び登場し、この3日間のスーパーアニソン魂を思い思いに語った。最後に登場したのは「ささきいさお」さん、ここまで演出したらグランドフィナーレは誰でも思いつくだろう。「宇宙戦艦ヤマト」である。

  

怪獣酒場に続き、似たような話題を投稿するのは気が進まなかったが今夏はどうもこの路線らしいので、某SNSサイトにアニソン魂2015の様子をアップしておいた。するとまたしても「茅ケ崎」「怪獣酒場」つながりの連中がよき反応を示してきた。こういう時の食いっぷりというのは女子のほうがはるかによいものだ。「アニソン懐かしい~」「マコちゃん」「キャンディ」「ゴレンジャー」そして共通に言えるのは「キャンディーズ」「ピンクレディ」は振付で踊れ、カラオケでは今でも歌うらしい。(中には衣装までもお持ちとか・・・)レパートリーがかなり偏っていていくらもないのでカラオケってあまり行かないが、アニソン&昭和アイドル縛りなら結構イケるかもなー。振付と言えば私が唯一歌って踊れるのは高2の時に卒業生を送る会で披露した「松本伊代」さんのデビュー曲である。某SNSサイトでは私のためにヅラを持参するとか、ツケマまで貸してくれるとか、はたまたナースの白衣を用意するとか・・・?!いつの間にかコスプレ大会になろうとしていた。さすがにこの企画のセンターからは身を引いたほうがよさそうだ。

駅を語る集い

2015-06-27 10:14:24 | 昭和
「駅周辺にあった店」編投稿時点では「予定」に過ぎなかった「茅ヶ崎駅を語る会」が意外にもあっさり実現した。すべて同級生であり、通勤・通学などかの駅を長きに渡り利用してきた面々である。近年は「故郷への回帰現象」とも思えるような、同期会、同窓会が結構あり、数十年ぶりということはないし、とあるSNSサイトにマメに近況報告している者もいるから、何となく超久々に会ったという気はしない。この手の目論見を思いつき、言い出すのは私であることが多いのだが、実行力のない私は人選や声掛けは最初にこの話をした女子に任せていた。「忘れないうちに集まってしまおう」ということで、すぐに来れそうな少人数に限定したようだが「女子ばっかりになってもいい?」と連絡してきた。昔の合コンじゃあるまいし正直、この年齢になるとメンバの男女比率など気にならないのだが、本来語るべき「駅」路線から外れ、私の知らない「女子の世界」を築かれるとポツンと浮いてしまうので、やはり悪友に一人声をかけることにした。ここ数年会っていないが、昔の私に関してはほぼ全てを知るある意味「危険な存在」でもある人物である。

駅のコンコースで待ち合わせをして手を振る彼を見て、少し髪の毛に白いモノが混じったが変わっていない姿に安心した。学生の頃にはお父上様にも大変世話になったのだが、数年前にお亡くなりになった。年齢的なものもあり家族のみで「お別れ」したそうで、風の便りに聞いてはいたが、「一度伺わなきゃねえ」と思いながら足を運びあぐねていた。「久しぶりに会ったのにこんな場所で申し訳ないんだけど・・・」と「御仏前」として手渡しするとひどく恐縮していながら受け取ってくれ、長い間の胸のつかえがとれた気がした。私はサッカー部、彼は野球部だったが、部活が休みの時は飽かずに駅周辺を歩き回った「ダイクマ」仲間であり、ラーメンにかけては「北京亭」仲間であった。彼とは「茅ヶ崎駅の話」以外にも積もる話が山ほどあったのだが、とりあえずその日は「駅を語る会」なので、これに徹しようということで彼にとってはたぶん何十年ぶりに再会する「クラスの女子達」の待つ会場へ向かった。

北口コンコースを久々に歩きながら「この辺もずいぶん綺麗になったもんだなー。この辺でどんなこと覚えてる?」と尋ねると、すかさず「お前が大踏切の陸橋から転げ落ちたことぐらいかなー」その時密かに「(コイツに声かけたのは失敗だった・・・)」とつくづく思い、会場で披露されないことを祈った。私はここ数年で何度か再会しているメンバーだが、彼にとって女性軍はホントに久々だったらしく、最初はかなり緊張していた。私は自分にとって不利な(今じゃ苦笑いに過ぎないが)話題にならないうちに、とっとと「エキバナ」に持っていこうとしたのだが、やはり最初は近況報告会のようになってしまった。「○○(旧姓)は今、▲▲に勤務してるんだよな。ルミネにいたことあったのか?」と確か県内の百貨店勤務と聞いていた一人に尋ねると、「ううん、今は□□。この前、あなたが奥さんと歩いてるの見かけたよ〜買い物とかよくするの?」「(うげげーっ、▲▲だと聞いてたから、そっちには近寄らないようにしてたのに、裏目に出るなんて・・・)」しばらく「パートナーと買い物に行くか?行ったらどうするか?」についての話題となった。不思議なことに相方に付き合ってぴっしり買い物する者は私くらいだった。ガンさん(悪友の仮称)は「オレは入口で集合時間を決めて個別行動!」なるほど合理的で同調する女子も多かった。

「えーっ、えーっ、洋服なんて『どっちが似合う?』とか聞かれて見てあげんの?たろーって結構優しいじゃん」この年齢になると別に照れくさくもない。「好みのままに『両方良ければ良し、両方ダメならダメ、片方が気に入ったらそっちを指差し、どっちでもよい時はどうでもよし』この4つを瞬時に判定し余計な気を使わずに宣言する。何店舗も見て回ることも可、しかし最終的には必ずどれか決めること。つまり私の時間を空転させないことを要求する。」という配偶者との買い物に関しての自説を披露する。散々歩き回ったあげく、「今日はやめておく」というのは許さないのである。最初はにやにやしていた主婦軍もだんだん複雑な表情になってきた。「そんな話よりも、茅ヶ崎駅を語りに来たんだからな。オレ、ちゃんとこういうのも用意したんだぞ。偉いだろ」私は実家に駅の写真はないか?と尋ねて母親が市役所の用事ついでにもらってきてくれた「茅ヶ崎駅の一世紀」という茅ヶ崎市史編集委員会(そんなのホントにあったんだ!?)の冊子を取り出した。「うわーっ、すごいね、こんな本があるんだ・・・」数人の女性がおもむろに眼鏡を取り出した。「年ゃー、取りたくねえもんだな。」と冷やかした向かいの人は拳を上げかけたが「まー、同い年だからごまかしようがないもんね」と諦めていた。

  

驚くべきことにそれまでのちょん髷が終わった明治維新の20年後には東海道線の新橋から横浜を経て国府津までが開通していた。(日本ってすごい!)停車場は旧宿場町が基本となっていたので、同じ湘南地方の藤沢、平塚、大磯に比べて遅れていた茅ヶ崎だが、10年後ついに開業し、あと数年で120周年を迎えるそうだ。当時、主要幹線として東海道の整備が最優先だったとはいえ、「原っぱにできた駅であきんどは茶屋町だけ・・・歓迎のために天狗様になって仮装行列した」ということだから、やはりすごいことだったんだろう。我々のおばあさんくらいの年齢の人の時代は駅から海が見えたという。関東大震災で大きな被害を受け、終戦後は占領軍の厚木基地からの相模線の輸送に大きな役目を果たし、茅ヶ崎市が戦後発足して数年後、戦後の新時代の象徴とされる「湘南電車」が登場する。私も乗った記憶のあるオレンジとグリーン二色の80系式と言われるこの湘南電車はさまざまな意味でそれまでの「電車」の常識を破るものだったと記述されている。長距離運行は機関車牽引の列車が一般的だった時代に、海外でも類を見ない15両固定編成の電車が100km以上の区間を最高時速95キロで走ったのである。何か誇らしい思いになった。その後、高度経済成長期の「人口増」や「通勤地獄」、1日に14時間も遮断されてしまう「大踏切」などの問題を経て駅周辺が開発整備されていく。「ダイクマ」「西友」ができ、「イトーヨーカドー」が建設されるが、その直後の駅ビル建設計画により商業界はかなり混乱したようである。

私の持ち込んだこの冊子により本来の「駅を語る会」の話題に向かいかけたのだが、やっぱりすぐに「久々再会した面々」にありがちな「コイバナ」「バカバナ」路線に外れて行ってしまった・・・ガンさんは運動に関しては学校でも「超エース級」で私などよりもはるかに女子にモテた。勉学に関しての「エース級」男子の名前も次々と話題に登場したが、思ったよりもモテたヤツはいなかった。運動に関しても勉学に関しても「並みより結構上」程度の私の話題など登場するべくもない。しかしこれまでも何度か昔話だけ聞いたことがあるが、当時圧倒的人気を誇っていたという男子はルックスをともかくとすると、私とガンさんが「??」と首を傾げるほど、あまり目立たない(はっきり言えばあまり冴えない)面々だった。「私は○○」「私も・・・」「私は▲▲」と次々に聞く学校内モテ男クンの名前を聞いてガンさんと目を合わせ「こいつらの好みってよくわからんなー」と無言で会話していた。その後、全盛だったアイドルの話題になり、SMAPファンクラブだった人が「たろーは誰のファンだったのよ?聖子ちゃん?明菜ちゃん?」私は首を振り続けていたら「あー、分かった。堀ちえみでしょ!そんな感じするー!」私は憐れむように首を振り「河合・・・」と言いかけると「あーっ、そうだ。河合奈保子ちゃんだー。いたよねー。秀樹の妹だよねー」唖然とする私の隣からガンさんが苦笑しながら救いの手を差し伸べた。「違うよ、たろーは・・・」会員番号12番の娘の名前をあげ、「オレはゆうゆ・・・」と付け加えた。実は私達は「おニャン子」仲間でもあったのである。

とりとめもない話ばかりで夜も更けていったが「駅周辺にあった店」編でいくつかあげた店名がさすがに上がってきた。女性軍が詳しいパスタの店や雰囲気のある喫茶店、加えてラーメン屋などに混じり「これは知らないだろう」と名前をあげたイトーヨーカドー最上階レストランと南口松坂牛の店を一瞬にして思い出したのは幼い頃近所に住んでいた女子である。今や(自称)スポーツ万能を誇る私も自転車が乗れるようになったのは彼女の指導によるものだったのだ。「ルアンもジャルダンも知ってんの?オレが言うのもなんだが、そりゃー結構すごいぞ!」私は彼女の話題同調に興奮し、周辺の店の話題でさらに盛り上がっていったが「そー言えば、たろーってさ。お泊り保育の時にペンギンのぬいぐるみ持ってきたよねー」幸い周囲の視線を一斉に浴びるほどではなかったが、私は密かに凍りついた。「(そーだった。コイツと幼稚園一緒だったんだ・・・この辺の話題は危険だ)」女性軍とはかなり久々だったガンさんも駅周辺の知識は豊富で、中々盛り上がりを見せて皆で記念写真を撮り、「第1回茅ヶ崎駅を語る会」は無事に閉会したのである。

さてこの会の盛況をとあるSNSサイトに投稿し「次は辻堂駅を語る会で集まろう」と締めくくったら、「辻堂なら○○って店知ってる?」とか「ちみさいってラーメン屋覚えてる」とかやたらマニアなコメントがあった。私も「語る会」を口にしたものの、かの駅は高校通学時にチャリで通過していただけなので、周辺の駅についての記憶があまりない。そうこうしているうちに「辻堂の会には呼んで〜」という人が結構現れた。中には「浜中華にキムタクが来たことも知らないの?予習してきてね〜」という厳しいコメントである。知人が投稿した茅ヶ崎駅の時もすごかったが(最終的にはコメントが100件超えたそうだ)、マイナーな辻堂についても通勤・通学で馴染みの人が次々に参加を表明してきた。実はそのサイト以外にもメールやメッセージで「面白そうだよね」「10年間利用した」「ぜひ次回誘って〜」という声があった。うーむ。。。これは少し困ったぞ。いつの間にか私が開催を企画しなければならない状況に追い込まれた。予習もそうだが、誰かこの手のイベント開催得意な人にお願いできないかなー。。。

    

駅周辺にあった店

2015-06-20 09:48:50 | 昭和
子供の頃から何十年も利用してきた「茅ヶ崎駅」だが、何となく味のあったボロ駅舎が橋上駅になり「ルミネ」が入ってから約30年、駅ビルを全面改装するそうだ。そのことを知人が某SNSサイトに投稿したら、驚くほどのコメントが集まった。ルミネを職場とした人もいるらしいのだが、茅ヶ崎駅を利用してきた市民として駅周辺の「あそこにあれがあった、これがあった。あの店が好きだった・・・」パスタ屋からおもちゃ屋、ラーメン屋色んなジャンルの今昔物語がずらりと続いたのである。何か懐かしくなり「『茅ヶ崎駅を偲ぶ会』でもやるかい?」とかましたら、本当に実現しそうだから面白い。今のように遊ぶ施設だけでも有り余っている時代に比べ、選択肢があまりなかった頃駅やその周辺のお気に入りの店などには皆「思い入れ」があるようなのだ。今でもたまに利用することがあるが、南北どちらから見ても堂々たる駅舎で特に北口のペデストリアンデッキなどは素晴らしくお洒落に出来上がっている。しかし私もそうなのだが、小さな三角屋根にしょぼい看板が乗っかっていて、石でできた改札口で切符を着られる昔の南口を懐かしむ声が多い。「偲ぶ会」(別に無くなってはいないけど)が実現した時に思う存分語れるように、駅周辺について思い出す限りを綴っておこう。

  

実家に自家用車のなかった私は子供の頃からどこに行くにも「お出かけ」は列車であり、最寄は「茅ヶ崎駅」であった。幼い頃は父親の自転車の後ろに座ったり、バスを使ったり、たまにタクシーを呼ぶ贅沢もした。「湘南電車」と言われた東海道線の東京方面辻堂駅と大して距離は変わらなかったのだが当時辻堂へのバス路線がなかったことや、父親の職場が駅の方だったこともあり、圧倒的に茅ヶ崎駅を多く利用していた。高校になっても正規の通学ルートは茅ヶ崎-藤沢-小田急線となっていたため1年生の時は真面目にその経路で通っていた。中学を卒業したての時は違う進学先に通うクラスメートなどと駅で顔を合わせることもあり、何か新鮮な気分がしたものだ。しかし慣れてくると電車での通学というのは煩わしく時間のかかるもので、自然と自転車通学できるものはそちらの方へ流れて行ったようだ。私の学校は交通事故防止のためか、学校から一定の圏内に自宅のない生徒には自転車通学の許可が下りず、圏外だった私はモグリで近所の公園につなぐことになる。体力の有り余っていたこの時期は雨が降ろうが風が吹こうが約30分かけて自転車で往復していたので電車の利用という意味では少し駅からは遠ざかることになる。

しかし今でこそ湘南エリアとして知名度が上がり駅周辺だけでなく、海側にも山側にも色々なところに施設やお店ができてきたが、今と比べると当時は見事なくらいに何もないところで、一通りそろっているのは茅ヶ崎駅前だけだった。カラオケやゲーセンもない中高時代に部活のない休日などでぶらぶら歩きまわるとしたら、北口にあったダイクマの存在は圧倒的だった。生まれて半世紀ほどだが、これほどまで自分の好奇心を満たしてくれる「場所」はなかった。このサイトで書いた私の趣味・嗜みのうち読書を除くほぼ全ての原点が「ダイクマ」にあると言ってよい。ちょっと昔の「安かろう悪かろう」感は否めないが、とにかく「何でもあった」のである。先日書いたオーディオシリーズやラジカセ、その隣はレコード売り場などがあり、家電コーナーが広がっていた。プラモやフィギュアなど充実したおもちゃコーナーを飽かずに眺め回し、スポーツコーナーでは消耗品のサッカーのシューズなど何足買い足したか分からない。乗っていたチャリもダイクマ製(かならずしも良品ではない)だし、釣りコーナーには海川湖あらゆる道具がそろっていたし、天体望遠鏡コーナーも顕微鏡コーナー(ちょっと後になってからだが)あった。驚くべきことにカメラのコーナーにはネガフィルムの現像機や引き伸ばし機まであったのである。

  

40年前に10cm反射望遠鏡で撮ったネガフィルムはダイクマ製現像液で増感現像され、同じくダイクマ製白黒引伸ばし機で印画していた。一時期は私の部屋そのものが暗室だったのである。この時覚えた技術が後に研究室で数百枚にも及ぶ透過型電子顕微鏡像作成に活かされることになる。布団や衣類、家電製品などあまり立寄らないエリアもあったが、ペットのコーナーや小さいながらもゲームコーナーもあり、とにかく1日じゅう歩き回っていた。ヤマダ電機に上州屋とトイザラスを足したようなところで「行くだけで満足できる」というコストコファンのような心境であろうか。部活と受験勉強以外の時間は「ダイクマ」を抜きにして語れないほどだ。(まあ、とにかく暇だったんだなー)その頃は百貨店のように一通りのものがそろう大型店舗と言えば(ディスカウントだが)ダイクマと西友(その後丸岡屋)しかなかったのだ。老舗の「ショッピングセンター」というベタな店舗もあったが、老婦人ものの洋服屋と私が近寄れない「漬物屋」くらいしか印象がない・・・

ダイクマの入口には小さなたい焼き屋(たこ焼き屋?)があり、向かいには「インテルナ・イトー」という謎の家具屋のようなものがあり、1階は立ち食い蕎麦屋でたしかかけそば1杯80円、お腹が空くとこれに薬味のネギをヤマのようにかけて食べていた。そしてゴジラシリーズにキングギドラが登場した時のように衝撃的だったのが、イトーヨーカドーの建設である。衣服や食料品、雑貨などが中心だったので実はあまり足を運んではいないが、最上階の本屋と我が家がアニバーサリーで使用したレストラン「ルアン」が入っていた。このレストランは最初ダイクマの大通り向かいの地下にあったいかにも「昭和のレストラン」だったのだが、いつの間にかなくなってしまった。そしていよいよボロかった茅ヶ崎駅舎が全面改装で橋上駅が建設され「駅ビル」としてルミネが登場するのである。元々開けていたのは北口でそれからもどんどん開発されていったが、私のすべての興味は「ダイクマ」に集結されていたのでさほど覚えている店がない・・・相模なのにスルガ銀行がなぜかあり、その奥に「下里模型」という小さな店でよくプラモデルを漁った。ショッピングセンターの前の商店街(エメロードというそうだ)を駅から歩くと、川口パーラーという果物屋、川上書店という本屋があり、その先の「フジヤ」という洋品店で学生服を調達することになっていた。その先、大踏切からの道路とのT字路真ん中に店内に滝がある「アポン」という喫茶があった。

橋上駅が完成するまでは線路を渡って南北行き来するには「大踏切」を上る必要があったが、この踏切には痛恨の思い出がある。スポーツ少年団として参加した大岡祭パレードの帰り、はしゃぎ過ぎて大踏切の螺旋階段から転げ落ちてしまい、額を7針も縫う大怪我となったのは確か小学5年のとき。何とその時ブッチャー顔負けに大流血しながら、後に登場する南口「雄三通り」に位置する伊藤外科医院まで「歩いて」いくのである。
駅の南口というのは北口と異なり「みなみマート」以外は大きな施設もなく、ちょろちょろと小さな店が連なっていたが中々侮れない名店が結構あった。特にラーメン屋はV9時代の巨人軍のラインナップのように個性的で美味しい店が軒を構えていた。私がこよなく愛した北京亭、都亭、サザンで有名なサッポロ軒(このあたりがクリーンナップ)、値段でいけば大龍、パイコーハンの来々軒、銀行員の悪友が頑強に進める栄華軒、深夜飲んだ帰りに寄るならタンポポ、せん・・・すべての店に共通なのは「店がショボくて目立たない」

  

ロータリーから海に向かう細い道沿い(どうも高砂通りと言うらしい)にコーヒーの「ジャマイカ」という店があり、母親がここで挽いてもらった豆をいつも購入していた。そのそばに「ジンギスカン」というそれは小さいお店があり文字通り焼肉屋なのだが、一皿100円くらいの信じられない安い肉を食わせた。(この店、恐るべきことにまだあるらしい・・・)その先に「ルアン」なき後、我が家のアニバーサリーレストランになった「松坂牛の店ジャルダン」に至る。300グラムの高級テンダーロインを4000円くらいで食える超お気に入りの店だったのだが、店主の放蕩癖が祟ったらしく潰れてしまった。さらに一本西よりのサザン通りにはスポーツ少年団のユニフォーム指定調達店「カワグチスポーツ」と長谷川書店が並んでいた。逆に一本東側の雄三通りはかなり海よりに有名な「サッポロ軒」があるくらいで目立った名店を知らないが、何と言っても「泣く子も黙る」伊藤外科病院があったのである。私が幼少から高校を卒業するくらいまで母親が事務の手伝いをしており、怪我だろうが風邪だろうがとにかく診てもらっていたが、このサイトに何度も登場しているから、再びの紹介は割愛しよう。

大型店舗に入っている店もあるかもしれないが、ここで登場したほとんどのお店はもうなくなってしまっているだろう。茅ヶ崎駅など来たこともない人には全くなんのことか分からないお話でもあったろう。しかし某SNSサイトの知人の投稿をきっかけに次々と懐かしコメントで盛り上がって行くのを見ていて地元の最寄駅というのはちょっと振るだけでも多くの人の思いを引き起こすものだと思った。通勤、通学、娯楽・・・最寄の駅というのは色々な面で我々とつながりがあるのだろう。今度カメラ片手に駅周辺を「ぶらタモリ」してみようかと思う。大昔から今も現存する全然気が付かなかったスポットや名店、また無くなってしまった店の史跡を追うのも「亦楽しからずや」である。

   

アニキたちのパワフルライブ

2015-06-01 20:38:22 | 昭和
「んっ?今、アニソンって言ったかな」私は一人でつぶやいて、自家用車を運転中にいつもつけているFM横浜に耳を傾けた。早朝、竜泉寺詣りの後、母親を実家に送った帰りの134号線である。番組中のCMの合間に今度ははっきりと聞き取れた。「FM横浜プレゼンツ、『アニソンヒットパレードin横浜』5/31横浜・関内ホール、チケット発売中・・・・出演は水木一郎、堀江美都子、串田アキラ」私はアクセルを踏んで家に急いだのである。先日、東京MXテレビの「アニソンなんとか」という番組を息子甘辛が見ていた。今、売れている若手のMCがアニメソングの歌手などをゲストに迎えトークを楽しんだり、往年の名曲を舞台で披露したり、ミニライブを放映している番組だ。彼がよく見ているこういったバラエティやアニメそのものなどは放映時間にずいぶん無理があり、夜の10時とか11時とかなのである。昔の子供なら「とっくに寝ている時間」に平気でアニメを流すところが当代の事情なのか。

先日、そのバラエティに「堀江美都子さん」がゲスト出演してトークしていた。最近のアニメソング歌手はさっぱり分からぬが彼女を知らない者はいないだろう。私は途中から見たのだが、ミニステージでは「サザエさん」を歌っていた。知っている人はたくさんいるが、その昔「サザエさん」は火曜日の夜7時に再放送していたのである。その時のオープニングは本家「♪おさかなくわえたドラ猫・・・」ではなく、「♪まどをあけましょう、るるーる・・・」版で堀江さんが歌っていたのだ。たぶん「あかるーい笑いをふりまいて・・・」というエンディングもそうだったろう。うーん、御年から推察するに衣裳に無理があったように思えたが、懐かしい〜。さて帰宅した私はPCを立上げ、さっき聞いた通りの「アニソンヒットパレード」で検索すると早速、コンサート情報が現れ、この手の購入手続きに詳しい妻に頼んでチケットを予約してもらった。開演時間は午後2時45分、子供もやってくることを考慮したのか真昼間である。

アニメの主題歌などを「アニソン」と呼び出したのはいつ頃からだったろうか。先般の「オーディオの歴史」編でも書いたが、私のアニメソング歴は「テレビマンガ主題歌大行進」(後に調べた)を皮切りとして数十年にわたる(当たり前か!)奥深いものだ。甘辛が生まれてからも自家用車内には「アニソンヒットメドレー」などが数種類あり、常時と言ってよいほど流れていたから自然、息子も番組そのものを見ていたわけでもないのに歌を覚えていった。「アニソン」という音楽のジャンルを築いたのはやはり水木一郎さんと堀江美都子さんだと思われる。それまで主題歌を集めた「メドレー」のテープやCDはたくさんあったのだが、ライブで生歌を聴きたいという人はほとんどいなかった。アニメを聴くのは自家用車内、子供と一緒にコンサートに、行くのは「おかあさんといっしょ」とされ、「文化会館」に「マジンガーZ」を聴きに行く、というのはいかにもオタクっぽくて肩身が狭く、人目を憚られたものだ。そこに我らが水木一郎アニキが大きな穴をぶち明けたのである。まずアニメ主題歌を集めるのではなく、「自分の歌うアニメソング」を集めてアルバムにしたのである。その名も「兄尊」、我が家のCDラジカセが故障し、レンタルで借りてきたCDをカセットテープへの録音を向かいのお友達に頼んだ時にはおおい笑われたという(そこはお嬢さんがお二人の家族だった)。アニキのパワフルさはその後拍車がかかり、屋外ライブコンサートで何十曲も歌い続けて(一説によると何百曲)全く声量が衰えなかったという。

さて、今回出演した水木一郎さんソングはテープ効果もありほぼ全曲を通じて歌うことができる。堀江美都子さんもアニソンメドレーに多数登場するのでかなりイケる。もう一人の串田アキラさんというのは「キン肉マン」の主題歌は知っているが、その他はあまり馴染みがなかった。かなりのベテランらしいが、アニメソングを歌いだしたのは比較的最近で、特撮ものや戦隊ものなど幅広く活躍しているが、残念ながら番組そのものをあまり見ていないレンジなので私のゾーンからは若干外れているようだった。開演15分くらい前に席に座ると、周囲の観客は私達と同年代からかなり若い世代、そして子供連れなどにわたっていた。幕が上がっていきなりステージがまぶしく輝くと真っ白のスーツに(針金入り)でたなびく赤マフラーをまとったアニキが颯爽と登場し、いきなり「マジンガーZ」である。ホールは割れんばかりにどよめいた。何せたぶんその場の全員が3番まで歌えるから。。。堀江美都子さんの「キャンディ・キャンディ」、串田アキラさんの「キン肉マンGOファイト」とゴールデントリオが続き初っ端からテンションマックスである。

3人とも横浜在住だが、中々地元で歌うことがなく、凱旋した気分で5番街を歩いていたら大転倒の末、堀江さんは捻挫してしまったそうで、スタッフに手を引かれて登場した。「堀江美都子も歩くのも辛いおばあちゃんになっちゃったって言われないように初めから言っておきます」その後、それぞれのコーナー、二人ずつのデュエットコーナー、そして怒涛のアニソンメドレーとさらに盛り上がっていく。串田さんはソロコーナーでは「太陽戦隊サンバルカン」をかました(当然、知っている)後、「じゃ、ちょっとCMを」と言って前奏なしにいきない「ホントにホントにホントにホントにライオンだぁー」と始めた。おーっ、富士サファリパークじゃないか。もう何十年もこのCMだよな。あの歌、「キャノンAE-1」の松崎しげるさんが歌っていると思ってたんだが串田さんだったんだな。ちょっとハスキーなヘビメタを思わせる歌声はパワフルさだけなら水木さん以上かもしれない。アニキと北斗の拳の主題歌「愛を取り戻せ」をデュエットした時、不可能と思えたクリスタルキングの田中さんの高音パートを見事に決めた。すごいパワーで思わず鳥肌が立った。ぜひ、このコンビでもカバーしてもらいたいものだ。(ついでに「大都会」も)

堀江美都子さんは足首を怪我しているか、いつものように飛んだり跳ねたりはしていなかったが、透き通った声は健在だった。魔女っ子シリーズは「サリーちゃん」から何となく見ていた程度だが、ご自身のコーナーで最初に歌った「花の子ルンルン」が主題歌とともに物語としても一番好きだった。女の子向けのアニメなので断片的に覚えているだけだが、サリーちゃん、アッコちゃんは古すぎてイマイチ記憶が定かでなく、「魔法のマコちゃん」は第何話だったか「生きているルル」という大きな犬の物語があまりにも可哀そう過ぎてそれ以上見られなくなった。「魔女っ子メグちゃん」は活動的で好きだったが冷たい「ノン」が嫌いだったし、堀江さんの代表作であろう「キャンディ・キャンディ」が一番人気だったろうが、話が複雑過ぎて「おバカな少年」にはよく理解できず、今でもすっぽ抜けた結末のイメージが強い。テリーが古代進、アルバートさんがキャプテン・ハーロックだった記憶しかない。。。「ルンルン」の次に「マコちゃん」を歌った堀江美都子さんは足を引きずりながらお茶目なトークを飛ばしていた。「マコちゃん」の主題歌の最後にお馴染みのセリフが登場する「だって・・・年頃なんですもの、わかってぇ。。。」当時、ホントに同じ年頃だった堀江さんはこの「セリフ」がホントに恥ずかしかったらしいのだが、「この年でこのセリフ言うってのも、違う意味で恥ずかしいんですよ」とかまして、爆笑をさらっていた。(さすが)

アニキのコーナーではいきなり「ぶい!ぶい!ぶい!びくとりぃ!こぉーんばとらーわんとぅすりー。。。」とアクセル全開で、カラオケでは私と甘辛の絶叫ソングでもある「コンバトラーV」に背筋が冷たくなるほど興奮した。「超電磁ヨーヨー、超電磁竜巻・・・超電磁スピン!」必殺技のパートにはちゃんと振付があるらしく、場内が「たつまきぃ!」と言いながら腰をくねくね、気がついたら自分も動いていた。妻が「ヤマト」よりも好きだったという「キャプテン・ハーロック」もド真ん中で登場する。このアニキを代表する名曲は大きな振りがあるような曲ではないが、3番までしっかり場内の観客と一緒に歌っていた。堀江さんは「名曲のコーナー」と言って「キャンディ・キャンディ」のエンディング、「あしたがすき」をしっとり聞かせていたが、ハーロックの「我らの旅立ち」を歌ってくれたら泣き出したかもしれない。地球を去るアルカディア号を「まゆ」が追いかけて走るエンディングだ。ちなみに「まゆ」はたしかキャンディのお友達、パティである。ちょっとマイナーだが戦隊シリーズの「忍者キャプター」の主題歌は珍しくアニキと堀江さんが両方歌っているのだが、残念ながら歌われなかった。たぶんこれまで幾度となくデュエットされて玄人には新鮮でなかったのかもしれない。

後半「じゃあ、ラストスパートに怒涛のアニソンメドレーで行きますかぁ!」と3人ともステージでノリノリになってきた。宇宙刑事ギャバン、アバレンジャー、サザエさん、ボルテスV(何と堀江さんは戦隊モノの主題歌まで歌っていた)、山ねずみロッキーチャック、プロゴルファー猿にとどめは、バビル2世である。ファイナルは再び「マジンガーZ」の大合唱だったが、バビル2世がアニキの終曲というのが嬉しいではないか。「かぁいちょう、ロプロスぅ、そらをとべぇ、ポセイドンはぁ、うみをゆけ、ロデムへんしん、地をかーけーろー」
トークコーナーでアニキも話していたが、これらの歌がテレビで流れていた時に我々はホンの子供だった。「それを今でもこうして歌っていられるというのはホントに嬉しい。この時代を生きてきて良かった」その時彼らは大人だったはずなのだが、それを今でも色褪せずにパワフルに歌える3人はさらにすごい。演歌歌手など年を取ると往年の名曲をやたらこぶしをいれて強弱だけで引きながら歌うものだが、彼らは全くの全開でその歌のパワーと熱さは半端ではない。アニキなんてもうじき「古稀」だというから。彼らにはいつまでもパワフルに夢を歌ってほしいものだ。

  

関内ホールを出た我々は一緒になって歌ってのどが渇いたこともあり、早いうちから好物エクストラコールド「飲み放題」店で喉を潤した。先日はスカッシュ帰りに地震で東海道線が止まってしまい、散々な目にあったのでとにかく早目に最寄駅まで帰ってきたのだが、「なーんか、カラオケ行きたくね?」と珍しく私から誘っていた。アニメ特撮を除くとハウンドドックと浜省くらいしかバリエーションがないので、最近遠ざかっていたのである。その日は当然、アニソンのオンパレードに決めていた。昔は「アニメ・特撮、子供向け」などというジャンルだったが、今はちゃんと「水木一郎」というコーナーがある。どの方角から検索しても辿りつけるが、数曲歌ってみてアニキ以外も歌おうとすると最も高速に目的歌に辿り着けるのは「コロムビアゆりかご会」であることがわかった。(ちょっと情けない気もするが・・・)自分で歌ってみて分かったが、アニキの歌はキーが私と近いのかがなりたてるにしても実に歌いやすい。一方、串田さんの歌はあのヘビメタ調の強烈ボイスでなければ何となく抜けたような歌いっぷりになってしまう。(そんなことを気付くよりも、普通のバリエーション増やすほうが先決だよな)

私はもちろん大興奮だったが、妻もあの手のアニメ系の造詣はなかなか深いものがあり、特に串田さんとアニキのコラボレーションには喜んでいたようだった。車内nオーディオで聴く以外、生声は初めてだったが「次も来てみようではないか」ということになった。会場で配っていた全国のコンサート情報をみると神奈川県民ホール級になると「さだまさし」「鈴木雅之」「郷ひろみ」「中村雅俊」とくるが、関内ホールだと「稲垣潤一」「野口五郎」「八神純子」そして「稲川淳二の怪談ナイト」・・・・何となく分かるような気がする。。。
前回「映画(館)観」編で書いたように「映画はほんの少ししか語れない」が「昭和のアニメなら明日の朝まででも語れる」。アニキ達の熱い歌声はレコードでも映画館でも中々分かるまい。アニソン系今後の開催はフェスティバル「2015夏の陣」として、「スーパーヒーロー魂」「スーパーアニソン魂」に加え「ゆかいな仲間たち」そしてついに「アニソン女子部夏祭り」に女子部戦隊が現れるというのである。今年は今までと違った「熱い夏」になりそうだ。

オーディオの歴史

2015-05-24 15:32:48 | 昭和
ひと昔だったら「趣味はAVです。」と堂々という男子がいたら、少なからず「ぎょっ」としたかもしれない。まさか「アダルトビデオ」ではなかろうと・・・いつの間にかAVという略称は「オーディオビジュアル」というのが主流らしい。自家用車の無かった我が実家は「カーオーディオ」という習慣がなく、木の箱のようなスピーカーの付いた小さなレコードプレーヤーだけが音楽を発する機器だった。まだ幼かった私は雑誌の付録にあった「ソノシート」でアニメの主題歌や特集などをもっぱら聞いていた。初めて買ってもらったLPレコードはアニメ、特撮などの主題歌を集めたアルバムで、記憶しているだけでも「オバQ音頭」「サスケ」「狼少年ケン」「巨人の星」「黄金バット」「妖怪人間ベム」「パーマン」「キャプテン・ウルトラ」「怪物くん」「マン」「セブン」「レインボー戦隊ロビン」が収録されている豪華版だった。なぜこんなに覚えているかというと今でもカラオケのアニメ編では歌えるから・・・我が家のプレーヤーは何かターンテーブルの大きさが中途半端で、シングルレコードよりは大きいが、LPレコードを乗せるとはみ出てしまうにも関わらず、「何とか大行進」というこの1枚のアルバムをそれこそ擦り切れて針が向こう側に突き抜けてしまうくらい繰り返し聴いていた。

小学校も高学年くらいになると「ハム」と呼ばれたアマチュア無線を行う者が登場し、さらに「エアチェック」といってFM放送を受信したり、外国の短波放送を受信できる軍隊の無線通信機みたいなラジオを持って自慢げに見せびらかすヤツがいた。ソニーの(やはり当時先進的なのはソニーだった)何とかいう機種(59何とかいうシリーズ)で、真っ黒なボディに周波数を合わせるダイヤルがいくつもついていてすごくカッコいいが、小学生が「北京放送」などを聞いて何が嬉しかったのかさっぱり分からなかった。そして我が家にも3バンドのラジカセが登場した。たしか「AIWA」というメーカーでラジオに興味の無かった私の「オーディア」は「カセットテープ」に移行していく。ミュージックとしてのアルバムは高価だったのでほとんど持っていなかったが、「大行進」同様テープが擦り切れて最後は切れてしまうほど聞いていたのが「Gメン75」のテーマ集である。今でも道路いっぱいに広がって並び歩く者たちを見ると「(Gメンか?お前らは)」とつぶやかずにはいられない。。。

ラジカセの登場で切り開かれたのが「世の番組を録音して繰り返し聴く」という分野である。
今のようにテレビに「オーディオ用外部出力端子」はないから、ラジカセの本体に付いているマイクをテレビのスピーカーの間近に置き、番組中はしーっと押し静まって雑音が入るのを防いでいた。(それでも台所の洗い物の音など、陶器の音は入ってしまった)ずばり、録音の対象は「宇宙戦艦ヤマト」と「8時だよ、全員集合」である。約40年前に初めて放映された時の「ヤマト」はそんなに人気があったわけではなかった。「戦艦」などが好きでプラモなども作っていた私は夢中になったが、クラスメイトの間では同じ時間に放映されていた「猿の軍団」の方が圧倒的に人気があり、教室で「話題を合わせる」にはビデオがない当時、そちらを見るしかなかった。必然、「ヤマト」はラジカセの録音のみを聞きながら、情景を想像することになるのである。野球中継などで「猿の軍団」がない時は「ヤマト」を見ていたので、登場人物の姿はインプットされていた。その後、「ヤマト」はなぜか再放送で爆発的な人気となり「社会現象」と言われるほどになる。

そして「宇宙戦艦ヤマト」が国民的な一大ブームとなり、テーマソング集やBGMが「交響組曲」としてレコード発売されたりする中、いよいよ我が家に「コンポ」なるセットがやってくる。正しくは「システムコンポーネント」という。専用のラックにピタリと収まるその姿は一種の家具でもあり、インテリアとしてもデザインされていた。ラジオチューナー、メインアンプ、カセットデッキを重ねたラックと、「ダイレクトドライブ=DD」が流行りだったレコードプレーヤー用のラック(下部がレコード格納用になっていた)が左右に並び、その両サイドにほぼ同じ高さの段ボール箱大のスピーカーを設置したコンポは経済成長のステータスを表すシンボルのようでもあり、一応我が家では客間におかれたが、4畳半部屋の3分の一のスペースは占有されてしまった。かつてここでも書いたかもしれないが、当時大型電化製品と言えばここしか売ってなかった茅ヶ崎ダイクマ店のオーディオコーナーで試し聴きとして店内中に大音声でかかった(当時はヘッドフォンなど使わない)のが「かもめはかもめ」、ドーナツ盤はあまり買わなかったが「アリス」のアルバムは買い続けていた。今、家に残っていたのは少し前の「ヤマト」や「ハーロック」などアニメのサウンドトラックものばかりだったが。。。

  

レコード針のカートリッジを手でつまみ上げ、既に回転しているレコードの一番端っこにそーっと置く昔のプレーヤーに比べ、コンポのプレーヤーはボタン一つでアームが勝手に指定したサイズ(LPかドーナツ)のところで停止し、すーっといかにも自動的に降りていく姿に感激したものだ。レコードは静電気のせいなのか放っておいても小さな埃がつきやすく、聴くたびごとにスプレーを吹き付け、15cm幅くらいのベルベット生地をスポンジに巻いたような専用のクリーナーでせっせと拭き取っていた。「音を楽しむ」と書いて音楽と読む。我が家にコンポが来て以来、音の響きというのを感じるようになったのだが、今から考えるとあの時代の「コンポ」はデカ過ぎた。。。左右のスピーカーからして学校の視聴覚室のよりも大きいのである。体育館で聴くならまだしも、4畳半の部屋で聴くとなるとボリュームは12まである目盛のせいぜい1.5くらい、全開にすると家が吹き飛ぶんじゃないかと思われた。そのうちに陸上自衛隊の大型ヘリch-47に搭乗した時に装着したような丸い形のヘッドフォンを使うようになったが、一体何のためにあんな巨大なセットが必要だったのか・・・これも昭和の謎のひとつである。

さて私が通勤で使う電車は都内に入って新宿の手前くらいになると「ナガオカ」という看板が見えてくる。ダイヤモンド製のレコード針と言えば何と言っても「ナガオカ」だった。今はCDプレーヤーからUSBメモリー、スマホで音楽を聴く時代でありいくらなんでも「レコード針」で事業は無理だろうと思うが、どうやら他のアクセサリーなども手掛け、脈々と販売し続けているらしい。以前ネットのニュースいで見たことがあるが、日本ではそうでもないものの欧米ではアナログレコードの販売量がまた増えてきているという。昔からのコアなアナログファンやディジタルアーカイブになっていない年代もののアルバム曲などは分かるが、普通に聴く音楽対象だとネット配信が主流の時代には考えにくいことだ。好みもあるだろうが、物理的な「音質」ならディジタルの方が勝ると思う。アナログの持つという独特な雑音や周波数域もその気になれば作ることができる。しかし音楽にはほとんど造詣のない私でも「アナログレコードへの回帰」は何となく「そうだなー」と思うのである。レコードの溝に直接的に刻まれた「音」の方が、ディジタル信号の羅列により再現された「よい音」よりも何やら刻まれた「歴史」を感じ取れるような気がするのである。今売っているレコードプレーヤーには何とUSBポートが付いているが、すごく気持ちが分かるのだ。単なる懐かしさだけかもしれないが、子どもの頃に飽かずに聴いた「オバQ音頭」を当時のレコードで聴いてみたいものだ。残念ながら実家の物置の隅々まで探したが、「●○大行進」はさすがに残っていなかった。ちなみに写真は大阪の「パナソニックミュージアム」で撮影させてもらった昔の電器製品である。

      

本編から当サイトに「昭和」というジャンルを追加しました。