兎角、「経営」というものも、広報と同様に誤解を生みやすいようです。
やってみないと判らないし、運不運もかなりのものです。
僅かな講義や書籍の知識なんかでは、どうにもならない代物です。
病院経営においてプロの経営者の登場が切望されているからか、
経営者を育てようという試みがあったり、経営塾なる高額な会も花盛りです。
私も、さるコンサルタントから誘われて行ってみたことがあります。
その雰囲気に、驚きとも異様とも言い難い印象をもちました。
熱気で溢れかえっているのですが、型どおりが称賛されていました。
これは新興宗教とも軍隊ともいえそうな雰囲気がありました。
その後も執拗に誘われましたが、どうしても参加する気にはなれません。
そんなところで経営者が“育つ”のでしょうか、疑問です。
20歳のころでした、私は経営の神様、松下幸之助さんの後について、
工場見学のお客の案内をした時のことです。
「キミはそこにゴミが落ちていることに気がついているか?」と聞かれました。
松下さんだけでも緊張しているのに、高名な方々に囲まれた若い私が、
廊下の片隅に小さな黒いゴミに気がつくはずもありません。
もうよく覚えていませんが、不思議なことにその言葉に「叱り」の響きがなく、
どちらかいえば、芯に優しさを感じました。
仕事とは小手先ではなく全身でするもの、全身で聞き全身で見るものとの理解につながっていきました。
それが「社会から生かされること」であり仕事であると知った貴重な思い出になっています。
その松下さんのことが先日の新聞に載っていました。
昭和55年4月2日、松下政経塾の1期生に向かっての講話で松下さんは、
人間を(まるごと)認識しようと訴えたそうです。
同じころ、神戸大経営学気鋭の教授・三品和広さんは、産経新聞の取材に答えて
「経営者を育てるという発想がダメ」といい、
「教えられないと気がつかない人に教えてもムダ」と話したそうです。
松下や本田は、誰かから経営者として育てられたでしょうか、いえそんなことはありません。
志を高く、自らの夢と情熱をもち、常に目の前の人間理解の基に行動したはずです。
最近流行の、赤子でも育てるように、何でも誉めてその気にさせる
場当たり的な人使いとは全くちがうのです。
ヒントはゴミだけではありません、取るに足らない小さなこと、足下に、
経営力や生命(神)は宿っているのだということです。
育てるのにマニュアル発想もダメだと思います。
「徹底的に任せること(権限委譲)」が本来の松下の流儀です。
育てるなら、それしかありません。
しかし、任されるよりも、任すことの苦労には計り知れないものがあること、
その英断・覚悟にも大変なものがありますから、ま、順送りですね。
この話、失敗が許せない医療の場では少し乱暴な発想であるでしょう。
しかし。「人間理解」は自らの“うりもの”のはずです。お手の物ではなかったのでしょうか。
医療経営・・・
「はとはあと」のやり取りの中で、ともに考えていきたいですね。