病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

組織や現場にココロがあれば「成果」はできる

2019-03-21 16:05:44 | はとはあと最新情報
組織や現場にココロがあれば「成果」はできる

「イシダクン、君そこ、そこ、そこ!小さな、ホレ白いの、見えないのかね?」。松下会長が私の耳元に手をかけ苛立ちながら囁きかけた。「え、どこどこ?・・なになに・・?」その日アメリカのジョンソン大統領が、来日を機に、当時日本で最先端を誇っていたテレビ組立工場の見学のために立ち寄られることになっていた。他の社員とともに、工場など見学通路の入念な点検していた時のことであった。ただ何かをやれ!早くしろとのご指示のようだが、耳元の会長の囁きが何を意味するのか、入社2年の身には、どうしても理解できなかった。

その数分あと、少し先輩の営業部の社員が、廊下の床から拾い上げたのは、5ミリ角ほどの白い紙切れであった。その後は何もなかったように無言の列は次へと進んだが、私には、その後の記憶が止まったままで今日まできている。全く見えないものが、会長の目は、いち早くそれを捉えて問題を解決したのに、私には全くその単純なことができなかった。だが、仮にそのゴミに対応しなかったとしても、なんら大きな問題にはならなかったとも言えなくもない。たった5ミリもないようなゴミ切れが、見学者の印象を悪くするはずもない。

会長が言いたかったこと、問題意識は「ゴミ一つない当社などではなく、全社員の目が清潔で快適という常識」つまり社風の中にある工場を見てもらいたいということであった、と思った。結果的に廊下にゴミを放置するのも社員であり、言われなくても対応し、無くすのも社員である。5ミリであろうが1ミリであろうが、その価値は理屈ではなく「組織としての精神である」という点を理解しなければならない。それが数10年も経ってやっと理解できた。これを実行したから成果があるではなく、この精神が経営成果に生み出すのである。

筆者は、その後1年少しでこの会社を退職し、上京して現業のデザインの道に入っていくが、モノづくりのためだけのデザインではなく、コトづくり、あるいは環境づくりのデザインに可能なかぎり心がける。人づくりとも言える。たとえエビデンスが不明でも心意気や情熱のある取り組みへの参画にすべきだ。折々にその情熱や信念をもってすれば、いま声高に叫ばれる「成果」や「生産性」は必ず付いてくる。根底に組織・現場にココロがあるからである。デザインはココロを入れ込む仕事であり、カタチだけでは、寧ろもったいないと思う。
mitameya190317


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ゆるぎない視覚戦略が組織を活性化させる

2019-03-16 12:13:11 | はとはあと最新情報

ゆるぎない視覚戦略が組織を活性化させる

人にもさまざまな癖があり独特の仕草が見える。山田さんは山田さんだけの雰囲気があり、目頭に浮かぶ独特の印象がある。印象がいいとか悪いとかも話題にも昇る。自分の意を通したい時、何かで賛同を得たい時には、とりわけこの印象に気を遣うことがある。印象がいいことは、人から愛され希望に近づくチカラ(推進力)になる。誰しも理解可能な前向きな生き方のポイントである。人だけではない。人が集まって何かをしようとするとき、その総体、約束で集まった組織体にも、印象やイメージによる他にない相違を見ることができる。

良いにつけ良くないにつけ、その組織体についての印象は、目に見えるモノや出来事についての情報に張り付いている。というよりもそのモノを見る側の脳メガネと掛け方によって様々に変化する。レンズが合うとか合わないという問題もあるかもしれないが、印象は記憶されて次の機会のために一時保存される。しかし、印象について防備、対策はよく見えない。眠りから覚めたあと、目に映り込むすべては一旦網膜に映り込み、さまざまな判断と記憶・保存のために使われるようだ。印象の多くは、感情により脳の記憶機能に頑固に配置される。

昨夜であった大学教授は、人当たりのよい優しげの迸る人物であった。見るからに付き合いやすい印象で、「この人に出会ってよかった」という思いが残った。はじめて出会った人の印象は、評価も不完全になりがちだが、その人そのものであると言える。つまり印象(感情)のかたまりとして多少の履歴や為人を把握していても、字面だけでは実際が見えない。何度か何時間かを一緒に過ごすとか、仮に偶然であっても共同の場をともにすることで次第に全体像が把握できて来る。ただの印象から「実感」としての相手が把握できて来るのだ。

つまり、「見たモノ」は空気や栄養のように「体内に取り込まれ、生きた“自身”になる」と言える。見た目という「印象」は絶え間なく脳に送られ身体行動のエネルギーとなって身体を働かせている。人とのいい出会いや経験に、印象が関わっているなら、印象の果たす役割や目的をより明確にすることも重要になる。何が人々の行動を駆り立てるのかが分かれば、問題の解決は早くなる。印象そのものには、温度もなければ重みもないが、目の前の有効資源として活用するには、成員の目に見える感性さえあれば十分と言える。

今述べていたように、これは人のもつ能力である。人の集まりである組織や法人にとって戦略や戦術にも関わる視点である。何かを成し遂げたいという意思や思考があるなら、意図したコミュニケーションを原点として「印象」や「イメージ」を戦略化するべきではないか。人間理解の経営というならば、シンボルとしての建造物に加えて人心をリードする揺るぎない「印象づくり」が無くてはならない。自分たちが他者からどのような印象を持たれているのか。見られたいように、見えているのか。安心して動くという側面も考えたい。mitameya190316

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「見せる」コミュニケーションの意味を考える

2019-03-10 13:48:13 | はとはあと最新情報
「見せる」コミュニケーションの意味を考える

9日夜、NHKテレビのブラタモリの番組で、徳島の阿波踊りが紹介されていた。他の地区で行われてきた盆踊りから、「阿波踊り」として全国に認められる存在になるため、踊り手とチーム全体の「見せ方」を変えるために集中したという。目をとらえる踊り手の衣装や得意な編笠はもちろん、踊りそのものにもシッカリしたテンポ、メリハリのある動きを感じるように手を加えてみた。観衆の目を捉えることに集中した努力と工夫に集中が行われたという。番組では、その比較映像も流れされたが、一目瞭然とはこのことであった。

「見せる」ことは、視神経から脳、体感通して納得と行動に結びつく身体反応である。俗に一体感という言葉もあるが、人心を集め互いの共感につなぐには欠かせない手立てである。反面、見せることは「見せかけ」という欺瞞を感じさせる契機にもなる。ここで軽薄さだけが伝わってしまっては、ただの情報処理にも終わり、裏切りにもなりかねない。真剣で真摯な動きこそ、人々の心に伝わり感動を呼ぶのだということ。「見せる」ことは、ともすれば進んで信頼を失う危険性を秘めている。「見える」を提供するには覚悟がいるのだ。

とはいえ「見せる」は、さまざまな社会や人間同士のコミュニケーションにとって欠かせない。欠かせないのに日本では必要な理解が進んでいない。インターネットの時代だ。今さら見せる情報は彼方此方にあって氾濫している。必要はないという意識レベルでもうウンザリというわけである。しかしそうではない。ないのは「心に響く」情報であり、「役立つ情報」である。または、そのあり方ではないか。特に求められるのは、「見せる」情報のスマートさである。抵抗なく「読みたくなる・見てみたくなる」表情に目線の会う情報である。

つまりは、「非言語の使い方」が大きい。経営理念など精神的なマインドは言語では梗塞しがちである。伝えるべき内容が抽象的であるなら、シンボルとなる場所に彫刻を配置し、その持ち味を理念と響き合う演出してみる。理解が固定化しては困るが、言葉で解説することで本来の意味が屈折するのが心配である。理念はトップ、理事長が言葉限定で語るべきであろう。要は、市民や職員など社会から「存在すること」に「納得」を得ること。そのために日々「経営の方向を見せる」小さな印象と実感の、単純な繰り返しが何より必要になる。Mitameya190310

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両眼は前方に向き、見えても後方は見えない?

2019-03-03 13:09:23 | はとはあと最新情報
両眼は前方に向き見えても後方は見えない?

今更ながらヒトの眼は間違いなく左右にある。人は誰でもその両眼の窓から見える世界を恐る恐る捉えながら生きている。だが、二つの事象を把握するためというのではなく、捉える世界は一つになっている。動的な対象であろうが、静止した事物であろうが、その空間や色彩、ときに温感さえも把握して神経に伝えていく。あたかもこの両眼による視覚世界は「額縁」に収まった絵画のようである。幅や奥行を示して象徴化し、実際にあるものもないものも区別なく脳裏に運べる。天国や地獄という夢の想像において神仏も抜け目がないのだ。

しかし、ヒトの両眼は目前の対象を、それぞれどのような機能分担により捉えようとしているのだろう。左右いずれかが主で、そうでない方が予備というわけではあるまい。左右の僅かな捉え方の違い・ズレを感知することで、よりリアルな実感を全身に伝えることで立体感、実在感などの成果を引き出していると考えるのはどうだろう。体操競技の平均台の演技で、両手を開いてバランスをとり、次なる演技に備えるのも同様、ヒトの身体が環境に適応すべく仕組まれた感覚対応であることを考えると、人体の当然の姿、有り様が理解できる。

そのような身体能力として、ヒトの視覚神経や視力構造が関わっている。しかし、ヒトの目や顔面の向きは、前向きにしか配置されていない。両眼によって前向きの知覚はできても、背後に向けた世界が感知できないがどうなのだろう。もちろん振り向けば可能であるが常時は困難で、敵に背後から襲われるなど、よくあるお馴染みのシーンがある。つまり人間の知覚世界は、前には広がっているが、後ろは楽屋の物置のような存在であるのか。それをカバーするのが神経のネットワーク。ヒトにも備わった身体知能という仕組みである。 

ヒトが生きていく上で欠かせない知覚や感覚を受け取り、脳の指令を待たなくても行動に移す仕組み、それがイメージである。これらには日頃溜め込んだ印象が役に立つ。向こうからやってくる自転車は「なぜかふらつきが激しい」と「見れば」、反射的に身を道端に寄せて様子をみるなどの対応がイメージという知性によって可能である。観る目の役割は、体型だった知性・合理性もさることながら、直感や印象によって高められる感性での判断である。合理の基準に加えて、感覚判断に意味や価値を見出す仕組みも欠かせない時代が来ている。

このようなイメージ理解を願うには、人間の心の動きを表した成果物をなるべく「観たり」「見たり」することに尽きる。自分の心に新しい絵を取り込み、感じることに時間を使うこと以外にない。音楽やアートに親しむことで、心地よい経験を積むことで自然に得ること(分かること)ができる。無理をせず自然体でいること。ときに少し考えてみる。そんな本にであえるようになれば、身体の中にイメージタンクができた証かもしれない。それも大事だが最大の収穫は、イメージという独自言語を使いモノを「見る」ことができるようになることだ。Mitameya190303


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