早いもので、四国中央市でHITO病院と共催した病院広報研究大会から、
もう1か月以上経ってしまいました。
開催までに積み残していた仕事や、いわゆる残務処理のようなこと、
そして、やはり疲労感でしょうか、自分ながら動きがスローになった感じの日が続きました。
気がついたらもう新年の準備をしなければならない時期にきていました。
それでもスケジュールに入れた予定は、相手もあるので自動的に進んでいきます。
6日は、NPO法人の来年の総会に向けた準備もスタートさせています。
幸いにして、ボランティアで仕事の分担を引き受けてくれる人や
専門的な知恵を貸してくれる人も集まってくれ、ありがたい話です。
そうした様々なメンバーの知恵と活動に期待しながら頑張って行こうと思います。
おかげさまで「病院広報」も随分浸透して来たようです。
いままで広報という言葉や理解・認識には、企業広報とまったく同質であり、
とくに医療界では「広告」や宣伝の意味と混同して使われてきました。
いえ決して広報なら良くて、広告が悪いという意味ではありませんが、
それらの出方や内容、表現の情報と環境によっては、業界ごとに規制があったりして、
ちゃんとした情報発信には、注意が必要ということに変わりはありません。
ただ言えるのは、広報を広告と比較するには、どこか無理があることです。
企業では、事業がうまく周るように「知らせる」「認識させる」ことが目的になります。
では病院ならどうでしょう。もちろんそれも大事ですが、それ以前に「人の命や尊厳」について
専門を超えたプロ意識と技、そして結果が問われることへの広報が必要になるのだと思います。
広告で何をするのか、広報でどうするのか、しっかりと意識することが必要です。
意識の話は、大雑把になりがちです。広報は社会を主題にし、
社会が良くなるよう、様々な活動を継続させることが中心になります。
寄付やボランティア活動といった人々の思いを集めておこなう活動も一つです。
そのゴールはSocial Good(社会善)の創発です。
社会にとって広告と広報、どちらがいいとか、正しいということには無理があります。
私たちは「病院広報」とわざわざ概念化して強調していますが、
そもそも医療そのものが、すでに社会貢献として発展してきているのです。
医療・介護の本質を極め、懸命に進めることが何より必要であり、
それを「手分けして発展させるところに意味や価値がある」のではないかと思います。
特別にサービスを付加することで形骸化した満足を生み出すよりは、
医療の質にすべてをかける医療を待っています。
※「医は意なり」は江戸後期の儒学者・亀井南冥のことば
12/14 すみません少し手をいれてしまいました。