病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

「書く」文化が、病院経営を助ける

2012-05-10 17:45:09 | 石田章一・仕事の欠片

 いつも大幅に踏み込んだなどといわれる広告規制緩和により、こんごの医療広告への対応や情報公開の必要性が声高にいわれているが、いったいどのようになることを理想としているのであろうか。医療技術の水準の高さや手厚い看護、患者本位のサービスの実践など、その努力の成果があるとすれば、ぜひそのことは具体的な根拠をもって地域の人々に伝えたいに違いない。また、マスコミをはじめ第三者からの評価の事実やハードルの高い多くの認定の実際は、医療機関としてぜひ知ってもらいたいことの最大のものであろう。法律上、不特定多数への医療情報の伝達がいまだ不自由な現状では、社会に向けて医療の質を表現豊かに自慢することは夢物語なのだろうか。

 また、市民や患者の立場から、知らねばならない知識や情報が数限りなくあり、その不備から質のよい医療の選択が簡単にできないことも大きな問題であるといえる。しかし、このような医療情報の乾きを、単に法律や制度だけに押しつけて済ませる説明でいいのだろうか。これは情報の不足もさることながら、むしろコミュニケーションの不足、さらにいえば心からの叫びの不足ではないのか。コミュニケーションとは、人の意識によって自らの身体と行動で伝え、共感するようなリアリティである。情報を伝えようとするひたむきな姿勢や態度が、よりぬくもりのある情報を伝えることは、だれしも経験的に知っていることではないか。

 とはいえ正確で効率のよいコミュニケーションを果たすには、それなりのスキルや能力、感性をともなう。その基本が忘れられていないだろうか。あるいは軽視されていないだろうか。とりわけ医療現場では、こうした表現を必要とするテーマには、成員個人の資質にたよるだけで、組織としての情報能力の向上、情報の整備という課題は置き去りのことが多いように思う。診療報酬に結びつかいないというだけで、手薄にしておくことの報いは必ず訪れるといって過言ではないだろう。けしてここで華やかな案内書や広報誌を奨励するのではない。掲示板の張り紙1枚、玄関先の診療案内に現れる文章の適切性、明快性、職員のことば表現など、単にサービス業という面からだけでなく、医療の質や信頼にかかわる問題認識として取り組むべき課題であるべきだ。近年、表現のもつ力を活用した治療や介護がグループホームなどでも行われるようになっていることを考えてもその必要性はもっと見直されてよいと思う。

 なかでも「書く」という表現技術は、医療の最前線において、すべての医療者に欠かせないセンスでありスキルである。すでに多くの説明は必要ないと思うが、文章を、そして情報をつくり、扱うことは、どのような仕事においても基本であることはまちがいない。読み書き、ソロバンといわれてきたように、それらの基本、教養をもってはじめて、コミュニケーションは正しく適切におこなわれるのである。とくに医療においては、その論理性、必然性、人間性、社会性など、多くの観点から確かなやりとりと論証が求められるからではないのか。書くことは、考えることでもあり、自らを高めることにも通じる。ひとつひとつのことばを吟味しながら綴ること、それが力をもつのである。

 こらからの競争時代の知恵くらべ医療経営にとって、その優劣は、このような情報の基本的実践能力によって決定づけられるはずである。そのためには、“基礎体力”としての書く表現力が尊重され、それらが組織文化として根づくことが必要である。医療における情報の問題のみならず、安全の問題、質の問題においても、すべて「書くこと」や「記録すること」という習慣化された組織風土のうえに構築されるように思う。

 医療の健全性から広告の適正化としての規制は必要である。しかし広告規制を緩和すれば医療の情報問題が解決したり経営が改善するとは思えない。必要なことは「相手の立場に立ってそれを考え表現する力」、「表現した結果から相手の反応を予測する力」など、情報に対する読み書きという、人間のコミュニケーション実践力と、それを育くもうとするマインドではないだろうか。