病院広報(はとはあと)評価支援情報

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怪我で稽古ができないときの「見取り稽古」

2019-01-31 12:37:59 | はとはあと最新情報
怪我で稽古ができないときの「見取り稽古」

近代柔道では、稽古に入る前に道場で「黙想」を行う。正座して目を畳1畳くらい先に落として数分。指導の先生によって違うが、黙って座って瞑想する。なぜそんなことが必要かなどという講義があるわけではない。また本人もそこで何を考えるわけでもない。ただ、黙って目を瞑り、自らの息遣いや心臓の脈を聞いている。ほんの数分、息を整える場として、稽古の後に保たれるだけである。剣道や空手道においても、同様の稽古法があるようだが、少中生の頃に毎日通った京都の道場でも、欠かさずに行われていて参加してきた。

稽古が終わると、指導の先生か主将クラスの先輩格が、「正座!」と声をかける。皆んながいつも通り道場の真ん中あたり並んで座すと、続いて「黙想!」と声がかかる。静かに目を閉じていくと自らの心音とともに息遣いが聞こえてくる。ただ、そこはそれだけの世界であり、自分が居なくなってしまう。偶にであるが、そのように指導されると、「自分がこの世にいる・居ない」という自覚が身についてくるのである。錯覚・妄想ともいえるが、稽古の後の欲も徳もない自身の身体が実感できるのである。まさに悟りに近い感覚である。

人はいかに「日常」に生きているか。非日常から日常を見て感じてみることで体感する正直な世界ほど、自分理解に役立つ視点はない。自分という存在がありきたりの形に合わせて構成されているのか、それは自らの脳裏で触れ合う自在な「印象」を鮮やかにしてみることで浮かび上がることがある。人は「夢」や「イメージ」という非日常の出来事によって元気づけられ、変革を自分のものとすることができる。意識を変える前提に金銭・経済はない。自らの体験と評価を、「生きる」「生きている」という照準に合わせればいいのである。

これらの思考アップグレードのためには、自らの「見る」姿勢を改める必要がある。見えるモノは何か、「見える」を通して何を創造するべきだろうか。「見える」を通して繋がる意味や価値の連鎖を手繰り寄せてこそ、「生きる」ことになる。まさしく「黙想」の中に見えてくる生きた世界である。いわば身体知性による直感の叡智「あるがまま」の精神世界。妄想しながらの理の旅は楽しくもあり、また意味もある。気をつけたいのは、中身のない空洞から飛んでくる計量目的による既成概念の欠片。ユメユメ気をつけたい。mitameya190131

余談:柔道では、怪我で稽古ができないときは「見取り稽古」という方法がある。
「見ること」も、上達の途であると教える。

「全身で見る」ことで生きつながる人間村

2019-01-20 16:54:40 | はとはあと最新情報
「全身で見る」ことで生きつながる人間村

いままでこのブログで視てきたように、目で見ることは、人が生きていくことの基本原理である。また、生きるべき環境に適応するための中心機能でもある。ただ目で見ての明るさや遠近、色彩、形状など、さまざまな視覚要素の把握・確認だけでなく、全身の視覚神経により人々の身体・心身機能とつながっている。あるいは他者との連携・協働の思考過程をコントロールしたり、意思決定や判断能力などに欠かせない役を担っている。より精密で戦略的な研究が進むことはもちろん、それらが社会全体をつないでいることは驚き以外にない。

見ることは、そのような視覚情報の受け皿専門のような認識が一般的である。しかし、よく考えてみればわかるように、「見ること」は情報を受けとるだけでなく、さまざまな判断や思考を一体として制御されているのである。映画や芝居、各種スポーツは「観る」というが、ここには「味わう」「楽しむ」などがあり、健康に有益だともいわれてきた「快適」にも大いにつながる意味合いがある。病院で患者を看るというのも突き詰めればヒトの目の能力である。見ることに関心をもてば、同じ観賞でもより豊かに向き合うことができよう。

また、人の目は、情報を「見分ける」「分析する」という仕事にも参画できる。外部からの刺激として網膜に届いた視覚情報を、その見え方により判別・分類するにも大いに役立ってくれる。さらにそれらは、道路標識やユニバーサルデザインによる視覚システムのように記号化ないし仕組み化して活用する。単なる「見る・見えない」ではなく、人の目の機能を統合的な交通システムの一部として成り立たせるのである。自らの制御に加え、社会全体の活動の基本になるのは、「見える」という人の感覚ネットワークである。

目は見るためだけ道具ではない。視覚神経から脳に、そして全身に行き渡る通信網によって我々の身体を自在にコントロールするセンター、それが「両目」の仕事になっている。その役割の大半は「確かめる」、と同時にこれから先(将来)のための予測し判定する役割、見て確かめる検証機能ではないだろうか。目があってこそ安心して命を継続することができる。もちろん他の臓器の存在あっての話ではあろうが、ただ「見て楽しむ目」だけではなく、よりよい人生を学ぶためには「全身で見る」ことを学ぶべきではないだろうか。mitameya190120

写真は、大阪なんばの夕焼け空

人間的感覚を重視した文化と仕組みに配慮した経営を

2019-01-14 17:40:11 | はとはあと最新情報
人間的感覚を重視した文化と仕組みに配慮した経営を

見ることは、人間のすべての感受性につながっている。まさしく生きることそのものであり、身を置いている世界と一体である。すでに人間の目を超えて、新しい創造の領域さえ形成していくようでもある。見えた像影は、神経を通して、なぞるように印象化し記憶する場合もあるが、他の印象との融合や相克により、異質のアウトラインを描いていくこともある。すべては必ずしも写真のように、輪郭を追うように印画されるわけではないのが面白い。言えることは、なぜだろうかピントが合っていないイメージ像でしかないのだが。

とはいえ、当然それらの像は他者が像影したものではなく、その個人の脳の中で立ち上がった像である。我々はそれを自らがとらえ、客観的に把握・認識することがないだろうか。つまり、実際に経験・視覚した像と記憶から生まれたり合成されたりの印象が同時に処理される不都合と好都合についてである。一般に「第一印象」や「先入観」といわれる脳内活動である。このように述べるとそれらは、時として起こるように受け取られるだろうが、我々は血のかよう生物である。視覚が休まない限り、本能としての脳は作用し神経は活動する。

話は飛ぶようだが、私の本職は、人が仕事をする組織の「問題解決」を専門としている。人と仕事と組織の関わるメンバーの相克から生まれる問題をいかに納得に結びつけて成果を引き出すか、が目的であり、そこを目標として成果を上げていく。目的は組織のメンバーがトコトン話し合って納得のいく結論が共有できれば、ある程度の達成は可能のように思われる。しかし、成果や目標は、ほとんどが「数値」である。とくに近年でのデータ・マネジメントでは、そこから逃げることはほとんどできないというのが実際の現場の事情である。

こうした近年のマネジメントは、先に指摘した人間の脳内活動とどのように向き合うのか、このような人間の眼差しが置き去りにされてはいないだろうか。この点が繋がらないまま成果を求めていくことは、どこかに無理があり、実態を影ナシで伝えることができるのかという問題が浮き上がってくる。人は生きた目を通して、ことの良否を「見ている」のであり、データの連続・集合だけでは片手落ちといえる。多くの企業や病院の現場でも懸命の努力が感じられる昨今である。なにより人間的感覚に重きをおいた文化と仕組み重点の経営が求められよう。mitameya190114





見る・観る・視る・診る・看る・覧るの故郷を考える

2019-01-11 12:53:33 | はとはあと最新情報
見る・観る・視る・診る・看る・覧の故郷を考える

このブログは、「見る」という人間の基本行動についての意義を、いちいち目くじらを立てんばかり騒いでいるように見えるかも知れない。しかし「見る」ことの中に「他者の自分が生きている」と考えるとすんなり受け入れる余地を認め、むしろより良い価値観に貢献できるのではないか。少なくとも事実、見ることで、そのこと自体が、直接他者に迷惑になるということはあり得ない。見ることは自分にとって現実の「世界」、いわば誰にでも許された自分世界の額縁にあたるのだ。自由気ままな「見る」が許された人間の権利が「見る」であり、また「見える」という共有価値と考えてはどうだろう。

実はこのブログを綴る筆者のことで恐縮だが、「見る」ことで世界を一変させたことがある。いえ、もう少し正確には、筆者の意識が一変したことがあるが、誰しもがこんな経験があるものではないので、ここに述べて見る。とはいえ大したことではない。私の眼鏡歴の始まりに過ぎない。日本軍によるハワイの真珠湾攻撃によって始まったとされる先の戦争で家を焼かれた後、兵庫県の甲子園から、京都で暮らす親戚を頼りに、歩いて移り住んだ京都・西陣でのことである。確か小学校低学年での視力検査でかなりの低下が指摘され、母親に手を惹かれ西陣・千本通りの眼鏡店を訪問したことがある。

その店での視力は、0.03という値であったことは強く記憶している。その後何日か経た日、同店に連れて行かれ、出来上がっていた子供用の小さな眼鏡をかけてみて驚いた。腰がぬけるという言い方があるが、まさしく見える現実世界が違っていた。初めて見るモノ(初めての視覚認識)ばかりである。筆者にとっては、まさしく「世界が一変していた」のである。戦争はあったとはいえ、兵庫や大阪とは違い、爆撃などは少なかった京都の繁華街は、ネオンとは言えないまでも夜の燈の列や塊の輝きは、子供心を圧倒したのだ。見えた世界は、眼鏡という新基準によって全面改装となったのである。

まさしくビルの改装のような見える世界の一新は、眼鏡という大胆な目の性能アップで成功し、その後は成長に即応した微調整の継続により世界という概念を把握、全体の体質調整にも役立っているだろう。言えることは、目を通じた世界観は、人間にとってもうひとつの世界である。そこに他者と共有するという価値や価値観を目の前にして見ることができる。抽象的でありながら具象的な実感が湯気を立てている空間である。この人には一体何が見えているのだろうと考えても何もわからない。その共有空間に入ってみないと実感は不可能。そうしない限り他者を理解するなど頭の中の出来事なのだ。mitameya190111

自らの心の成長、まず真を見抜くチカラを鍛えよう

2019-01-07 17:18:16 | はとはあと最新情報
自らの心の成長、まず真を見抜くチカラを鍛えよう

見ることは、知ること、感じること、受け入れることなど外界の様子をつかむという意味のほかに、目を通じてつながる周辺の要素から把握し、認識を深めること、という意味に使うことがある。決してそれらしい印象の輪郭をつなぐだけでなく、ひとつひとつを判断し関連付けて理解した結果をつないで行く仕組みであるだろう。つまり感覚による判断だけではなく、それなりの理性によって、そこに浮かび上がる印象やイメージのルールが働いているように思われてならない。それがいわゆる”身体知性”をなしているのではないか。

しかし、自動車など機械構成のパーツの集まりの結果ではないのが人体だろう。部品が決まり切った機能だけを担い、それが全体の成果につなぐという理解では成り立たない。たとえば映画に活躍する座頭市は、盲目ながら、なぜあんなに的確な太刀捌きが可能なのか。いえ、それは映画であるからと弁明するが、われわれは、映像などを通じて、見るからに人間離れした技量の持ち主の存在を沢山知っている。高齢ながら卓越した記録保持者、若年ながら大人顔負けという逸材などを見ていくと人間の理解を超える能力の持ち主たちもいる。

人の目を、その人が、その位置から外界を見るための道具やパーツと分けて考えない。考えても(あまり)意味や価値がなく、動かしようもなく動きようもない。誰にでも備わっている両足を、走るときのユニットなどとも意識していない。また、「考えなくてもよいような合理的な原理」によって構成されているのかもしれない。しかし、ここで必要なものは、全身で手に入れる快感であり、快楽である。人の目と連動して楽しめる心地よい響きやスペースともいえる。また、人が求める快い時間と経緯、その中に身をおくのも人の温もりなのだ。

知性を歌いながら、すべて論理にかなうストーリーが外見を飾り始めた。あるがままでいる美が無視され、美に定義にかなう素材集めが主題となっている。感動が方程式で語られ、半音が省略されて謳われる。それでもいい、構わない。歌いたい心が歌うなら突き進め。人から心を取り外すことはできない。見ることで、心を感じ心で対話する。言葉の前後に言葉がある。言う言葉、聞く言葉、見る言葉。すべてが自前の舞台で共演してこそ「心の言葉」になる。すべて自分の言葉になるよう、まず「見る」ことに精を出したい。 mitameya190107