病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

合議で生まれた「令和」を世界に誇れ

2019-04-28 11:57:37 | はとはあと最新情報
合議で生まれた「令和」を世界に誇れ

新元号「令和」が始まる。国文学者の中西進さんが、先月27日の京都新聞で記者のインタビューに応えて語られていた、誰がこの元号の考案者かいうコメントに大いに納得感が湧き上がった。それまでの元号についての報道では、新しい元号は「令和」であり、美しく平和の時代を意味するのだという解説だけが先行していた。どんな面々が考案者であるとか、他の案はコレコレといった情報は一切なし。それだけに「令和」に何か押し付けがましいものを感じたし、決定の仕方そのものにも「上から目線!」と感じざるを得なかった。

この記事で中西さんは、「決定は合議である」を強調し、喩えそれが事実であったとしても合議である以上、個人が前に出るわけにはない。あくまでそれは合議での提案であり、個人の手柄にするわけにはいかない、という主張であった。なんと今時フェアで紳士的な言い分であるのかという印象と同時に、これからの日本のアイデンティティは、この新元号「令和」を旗印に国際社会に働きかけねばなければならない。機械的になんでも多数決という数の論理に頼るだけの進め方に不審を抱いていた身体を突き抜けていった。

これはちょうど大相撲という大衆のルールをあてることができる。勝敗の根拠が不明確な場合に、審判がワザワザ土俵中央に集まり、意見を交換するあれである。審判も客席から審判を受ける。どの審判のどのような目に、どのように「見えた」のか。また、観衆・客席がその成り行きを具に検証するというシステムが、「見える仕組み」として働くのである。AIやITの導入だけでは、実際に人は付いていけない。ダサいといわれても、人の目を通して判断を加える仕組みを育てる価値観が、これからますます大事になるのではないだろうか。mitameya190428

Hospitality
Identity
System
…HIS三位一体思考で組み立てる

6月29日(土)午後:HIS広報プランナー認定200回記念講座のご案内
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がんばる病院広報で、何を魅せるのか

2019-04-21 17:47:35 | はとはあと最新情報
がんばる病院広報で、何を魅せるのか

自己の利益と持続を長期の視点から持続的な基盤に立って公衆の信頼と理解を得ようとする活動がPublic Relations(公衆との連携)である。情報の発信というイメージ(認識)から、広告と混同して認識されている。また、広報はマスコミとの協力やイベントなど多様で、象徴的なイメージになりにくいことものあり、必ずしも広告媒体を使った情報発信ではない。時代のうねりを受けて、これからの医療や介護のあり方に関心が高まっている。書いて字の如しで、「人間」という言葉には、「ふれあい」「関わり合い」という期待が含まれている。

求める者と求められる者との心地良いサービスの理解・協働の質こそ、医療・介護の今に求められるべきテーマではないか。特に医療は、市民・利用者にとって高度な価値観や専門的理解には近づき難い面があり、一般に言われるように情報も届き難い現状は否めない。一般に医療情報といえば、現場の専門が取り扱う限られた情報であり、市民には不必要なデータであり、別世界の事柄だ。情報を減らして利用するようなことは考えられない。いかにも配慮したデザインを施してみる程度で、理解を深めるのはかえって問題を困難にする。
 
社会全体への医療の成果を考えるべきこの先、医療の情報価値への改革は、待ったなし、今後いっそう重要になるだろう。医療・介護サービスの利用者が必要性を満たす情報メディアやカテゴリの拡張がこれから必要になる。専門家から真価を引き出すための知識やモラルの獲得が求められてくる。もちろん医療サービスの提供側もこの動向には、力を貸していくことが求められるが、それでは理解にバイヤスがかかってしまう可能性もある。利用者側も自立した視点からの価値観や理解を広げて社会貢献の輪を広げることではないか。
 
とはいえこれは知識の競合と考えることが目的ではない。たとえば仏教の言葉に「門前の小僧、習わぬ経を読む」というのがある。お経は全てをいちいち理解しなくても、それを唱えた者にご利益があるというもの。でも、理解を深めれば、もっとご利益があるはずです。お経がもっている有難い響きが、その人その一団のプラスにつながり、信念が有効に働いていくという具合。他のサービスと異なり、医療・介護というサービスは人が人に直接接して、一体となって進める場面も多く、その点でまず信頼ありきである。

人がそこにいることの圧力は相当なものになる。利用者は信頼感(最大公約数的)を覚悟に変えて受診する。来院の間にその信頼に値する事実をさがし納得を求めている。信頼できない事実とは、その過程で手触り感によって発見されていく。その事実が改善されそうにないときに落胆し、クレーマーさんに変身することがある。雨の中、遠い道のりを傘をさしても受診にくるのは、期待と信頼の脳の鼓動によって来院行動が起ったから。外からは何も見えない。「ふれあい」こそが人と人の本質であり健康のもと。人は医療に何を見てしまうのか。 mitameya20190421

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開講:6月29日(午後)横浜みなとみらい クイーンズタワーA棟 会議室
講師:ジェリイ・フォリ(イメジャス代表)「病院の情報力は広報とデザインで強くなる」
   石田 章一(日本HIS研究センター代表)ほか
協賛:日揮株式会社/医学通信社


詳細・申し込みは、http://www.j-his.jp/




それとも柳の鞭でぶちましょか、いえいえそれは・・

2019-04-14 16:31:43 | はとはあと最新情報
それとも柳の鞭でぶちましょか、いえいえそれは・・

今朝の京都新聞のコラム天眼に、哲学者・鷲田清一先生の「金糸雀記」というのがあった。西条八十作詞の童謡「かなりや」(金絲雀記)が紹介されていた。ある程度の年配者には、子供の頃の懐かしい純粋な思いが俄かに込み上げてくる。書かれているように、音楽には、他人の苦しみを自分の苦しみのように抱擁する力がある。この象徴派の詩人は、家族の扶養に懸命の詩業を断念、生計の維持との錯綜の胸の内をこの唄に求めたというのだ。先生には、いちど日本HIS研究センターから講演をお願いした経緯もあり、神妙になって読んだ。

問題は、年配者には響くこの感情豊かな曲の味わいが、今の若い人たちには受け継がれていないことだ。時代は変わるもの。変わるから時代という理屈は当然ではあるが、では、人間がIT機器のように簡単にバージョンアップしてしまえるのか、ということ。それで万事いいのかという素朴ともいえる疑問がここに浮かび上がっている。しかし、それはITやAIといった技術の変革・革新といった従来の変化やニュースの中身ではない。日常の若者とのコミュニケーションの中で、それこそヨヨーッ!としてしまうことが多いのだが。

だが、ここには童謡「金糸雀(かなりや)」の中には、日本人の優しい精神が謳われているのに、真剣な伝承ができていないのではという問題提起がある。講師が最後の授業として考え抜いた講義であったにも関わらず、出席者である若者が「金糸雀(かなりや)」という歌の存在を誰も知らなかったというのだ。目の前の効率優先の結果だとはいえないが、何年かの間に、社会は人間的な配慮を蔑ろにしてきた事例の一つではないだろうか。形式やDATAの比較としてだけが、あたかも唯一正しい評価として処理されてきているきらいがある。

そのズレには、人の心につながる夢や可能性の入る余地・機会が意図されてないのだ。この近年の傾向は、組織間の協働やビジネスのうえでも平気であらわれているように思う。特に会議や連絡といった仕事のコミュニケーションにおいて、いつも亡霊のようにスーッと立ち上がる。発信側も受信側も「見えているだけ」のやりとりで深いところを見ていない。情報があったら文字列(記号)として記号どおりの理解に終わる。もちろん全てがそうであるとは言えないのだが、相互に心からの遣り甲斐に繋がったという確認はできないものだろうか。mitameya20190414

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開講:6月29日(午後)横浜みなとみらい クイーンズタワーA棟 会議室
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   石田 章一(日本HIS研究センター代表)ほか

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見る目を鍛えることがなによりの成長になる

2019-04-07 11:32:54 | はとはあと最新情報
見る目を鍛えることがなによりの成長になる

人や動物の眼は何を見ているのだろうか。その原理は言われるとおり光の強弱や角度によって多様な見え方を描き出している。対象に行き着いた光は、人の眼、視覚機能によって脳に伝えられ、その意識は過去の記憶との合成によって判断・行動が行われる。光の束が統合され、刺激、信号となって現実をなぞっていくことで、現実感を体内に取り込まれる。ディスプレイに描かれる映像は、機械的に構成された現実感である。同じ対象を捉えても、その印象、脳内映像は同一の構成でないところにも、人々の驚きと関心が湧き上がる。

多少理解に乱れがあるかもしれないがモノを「見る」、「見える」という誰もが自覚する身体の実感はこんなものではないだろうか。より大胆に言い換えれば、眼はクルマの運転席に広がるフロントガラスといえる。運転手は「前」を向いている。前方の山並みの間から、青い海が少し見え始めたとする。眼の神経は青く輝く海に集まっていく。しかし道路は大きく右手にカーブし、その先は土手と木々に遮られ、いまひとつ把握できないまま、刻々と変化していく。こんな時、ドライバーの眼はその先一点に集中し、ガラス全体に眼は行かない。

一方、人の眼、つまり眼差しは、その光跡を追うように、また確かめるように自在に反応し運転席のごとく、生きることに連動していく。行く先で偶然にも見事な桜花に出会えば凝視して身体をその場にと止め、ひと時の安らぎを楽しむかもしれないし、その思い出を何かに書き留めることに繋ぐかもしれない。身体全体が見た目のガイドにしたがい豊かさを享受することとなるが、このとき過去の経験や情報による脳からの危険信号によって行動の抑制することもある。見る目は、脳との連携により、適切で安全な進路を示してくれる。

よりよく生きる上で、「見る目を鍛えることがなにより重要」である。どんな視覚経験をすることがいいか、一概にいえることではないが、普遍的な意味や価値のある姿・形に出会えるよう積極的な生き方や暮らしを取り入れることであり、その印象を頭から羽織ることではないかと考えている。羽織ることによって他者にも“印象波”を伝えることができる。流行りの「見える化」などではなく、無言であってもその場の質に貢献する言語として、である。なにより自らを高める生き方として「見る目」を羽織ることである。mitameya 190407

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