病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

見た目が花のように心を開いてくれる

2018-12-09 11:44:13 | はとはあと最新情報
見た目が花のように心を開いてくれる

ユダヤの諺のなかに、「目が見えないよりも、心が見えない方が恐ろしい」という格言があるという。このままでは、少しわかりにくいが、目が見えないとは、見えている状況が掴みきれないことであり、心が見えないとは、相手が何を考えているのか読みきれない。だからそれが恐怖であるということではないだろうか。そこに確証がある場合は、対応の仕方もあるが、その動きを予測できないと油断できないといっている。

どのような仕事でも、リスクや成果に対応しようとするとき、何が飛び出すのかわからず、対応ができないのではコトを前に進めにくくなるのは当然である。しかし、その対象を把握できたから、その対応が成果を上げるとは限らないだろう。通常、見えないよりも見えている方がより多様な対策が可能であるが、見方という価値観を間違うと失敗や成果を失うことにもつながりかねない。

そこで「見る目」のチカラが要求されるが、「見た目」というものは、誰もが使えるマニュアルにはなりにくい。直感とか経験的尺度による読みの鋭さが取り仕切ることになる。では、相手の「心を読む」には、どうすればいいのか。また、「心を読む」などの動きは、相手に不快感を与えないのだろうか。まず当たり前のことだが、心掛けるのは、感情をもった“人間“であるということ。

不愉快な言動に注意することはもちろん、双方に共通するテーマを見つけて双方の間に置いてみることだろう。それを踏み台に視点と焦点を合わせるようにし、見るべき対象を共有できれば成功である。見えたものと心が一致すれば上出来といえる。ただこんなことをシコシコとやるようでは覚束ない。日頃から人に対して関心を高め、愛情をもって前向きに接することで、人は花のように心を開いてくれると「信じる」ことが第一である。mitameya181209


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・会場:京都YWCA 本館103号室
・講料:非会員12,960円 HIS会員8,640円
・定員:10名(先着順)
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詳しくは、電話075-741-8219・またはinfo-his@j-his.jp宛にご要望いただければ対応します。
(申込締切:12月12日)

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「見た目」は、幸運の引戸につながっている

2018-11-30 16:02:36 | はとはあと最新情報
「見た目」は、幸運の引戸につながっている

見る目はその目前の「目線」や「眼差し」ともいい、見つめる先、目の先のことをいう。そこには人間の興味や関心、ときには恐怖や陶酔がある。美しいと感じたことはその印象として、その刺激の具合によって脳に伝わり認知されて蓄えられる。その刺激を受け取り焼き付けられた印象は、その後の刺激を評価・選択する基礎となる。また一旦焼きついた印象は固定化され、余程でないかぎり妥協はなく、処理できないまま頑固に既存を護り抜こうとするのだ。このようしてできる認識の階層は奥深くにあり、ますます積み上げられていく。

このため見たという経験は、その後その人の行動を何かと規定していく。幼児の見る印象は、従来の印象の上に積み上げられ、その人体独特の行動や性格として、さらにそれが他者から認知されていく。もとろん音は耳から、味や嗅い、そして皮膚による手触り感も同時に重層的に合成されていくのだろう。しかしそれらが一時の感覚であるのに対して、「見た目」だけは外観に光がともなう限り連続して刺激を受けることが可能な感覚といえる。人はまさしく「見た目」という外界と往来して生きているということができる。

外界を見てきた経験データとその蓄積・構成により、意識の中に配置された判断基準がまた新たな経験データを積み上げながら何かに向かって成長する。しかしながら、他者と同様の性質を目指しているわけではない。むしろ他者にない性質や価値を歓迎し、その本質が他にない特性を求め、また独自の居場所を求めながら共存しようとしているように思える。その方が大局の座から見て合理的であり、自己にとっても有益であると考えるからだろう。人間の見た目にはもともと、そうした公の目が備わっているのではないか。

まさしく人の目は、クルマのヘッドライトのイメージがあると言える。暗闇の続く夜であっても、過去に蓄えた各種のデータを駆使して、行く先をくまなく照らすことで安全を確保して進む。見えないものを見るチカラを付けることが行動する価値であり、それが生きる力となる。見えないものを見るとは、生きてきた成果や価値を受け取ることである。こうした運勢や能力を見つけるには、対象となるモノをよく見ることに加え、いわゆる「いいもの」を見ることに尽きる。言葉に尽くせない「見た目」は、幸運の引戸につながっている。


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・会場:京都YWCA 本館103号室
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・定員:10名(先着順)
・主な講師:石田章一ほかPL認定メンバー
詳しくは、電話075-741-8219・またはinfo-his@j-his.jp宛にご要望いただければ対応します。
(申込締切:12月12日)

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「尊い寺は門から見える」よりナラティブな理解を

2018-11-25 16:09:13 | はとはあと最新情報
「尊い寺は門から見える」よりナラティブな理解を

人が生きて行く上で、偶然の直感は有難いものである。頭の中がなんとなく落ち着きのないときに、「こんな情報、いかが?」とばかりに呼びかけがある。この呼びかけが、具体性をもって急接近して、大変ありがたい知恵やヒントを提供してくれることがある。多くは悩みの解決に困っているとやってくるから、大助かりである。「そうそう、そうなんだ。それで行こう!」と元気がでてきて嬉しくなる。しかしこの恩恵に浴するには条件がある。それはある程度、考え続け、なんとかしなければという強い気持ちが継続していることである。

「尊い寺は門から見える」というのも直感に訴えようとしている。門の外は端正に行き届いて手が入っている。門を潜って尋ねなくても、中には立派な仏殿があり、尊敬に見合う僧たちが修行している。それは門の前に立ったときの直感で理解できるだろうということ。日常を見渡しても、さしたる根拠や論理が存在しないし、確認など何もしないのに、行動が決定されていくことは忍び難いことである。身体に蓄積された認識データが反応して判断すると理解できる。世の全てに検証が必要となれば、生命も社会も崩壊するしかなくなるだろう。

人は大いに「感覚」で行動する存在である。感性を鍛えて自らを可能なかぎり自由で自発的な行動の保証が求められる。企業やビシネスではシビアな行動と成果管理により、そこに至る組織やプロセスの質などということが経済の仕組みの上から欠かせないという現状がある。それは致し方ない側面ともいえるが、その切り分けがすべて明確だとは言えないために、却ってマイナスの状況を引き起こしてしまう。人間は「心身」をセンターに抱く存在であることを最優先した仕組みが社会を動かすようにならないか、かなりの難題かもしれないが。

筆者らが運営している日本HIS研究センター(京都市)では、医療施設のヒトにまつわるHospitality(あなたの視点)・Identity(わたしの視点)・System(みんなの視点)として見ることで、ヒトが協働した成果を観察していく仕組みを模索している。例えば以前から問題視されている医療関係者の働き方実態、医療福祉への住民の意識・知識・リテラシーにおいても、客観性を求めるあまり納得のいく現状把握が見えにくいことが多い。こうした点では、よりナラティブな資料づくりで理解することが必要だと思っているが、さてどうだろう。

病院経営にも、企業の方法論や感覚が幅を利かしてきている。まず中心は、医療サービスを受けるために来院するヒトの位置付けである。この人々を顧客と位置付けることでスッキリしようとする思考があるが、ここから考え直すことが急がれる。顧客の実際は、料金を払う立場から「主体的に商品選択が可能」という人々のことである。まともな医療を考えない医療者はいないはずだ。未だに「お客様」の求めに応じようとする。医療はゲームでななく、双方、社会性に立った協働の立場が求められている。「尊い寺は門から見える」のである。
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目の前の印象を変えていく生き方

2018-11-15 16:00:29 | はとはあと最新情報
目の前の印相を変えていく生き方

なんでもいい。目に見える世界があるのは、自分が今、生きていることの証である。当然、気分良く過ごせる時もあるが、なんだか悔しい思いや何もないのに悲しい時もある。それらの理由もはっきりしないのに、いつの間にか気分は変わっていく。もちろん明確に、その思いはどんなところから来たのか、分かっていることは多い気がするが、何も理由がわからないまま、様々な感情が出入りする。自分に感情があるなど、てっきり忘れてしまって、有頂天になっていることもある。生きているというのは、いい加減なもののようだ。

何のためにこの世に生まれて、何をして、何のために死んでいくのか、しっかりとした認識可能な説明、それは求めればあるにはあるが、実感的ではなく哲学的な話に流れてしまう。だがそれは、生まれて死ぬまでの現世を主体とした見える物語である。何のため?を問う人間社会の価値観ではないのか。むしろそれらは、「夢」であり「ロマン」という、現世のおっさんが宣う理論であるだけでなく、多くの偉人が教えてくれている。目の前に見えた現実を歓迎するような根性と自由があれば、この世の幸せは自分のものとなるはず。

それだけに、日々世界を感動的に捉える能力を鍛え上げることそのことが、生きることと念じなければならない。まずは、今見えている真実を見極めることが重要である。なかでも見えているのは、言葉に包まれた概念なのか、言葉の印象が構成するイメージなのか、どのような尺度で測るのがいいのか、といったことだが、ひとことで言えば、自分なりの感性と哲学でいいのではないか。楽しむ心根もあっていいだろう。できれば、生き生きと反応することで、周りを引き摺り込むような技もあっていいのだ。

そのような意味で、それぞれの「自分が見るもの」、「見えるものの質」は、みんなが生きていく社会において欠かすことのできない条件ともいえる。現状に対して無気力、無関心を振り返り、見過ごして通り過ごすのではなく、まずは自分の目に見えるものに前向きな姿勢をとり、見えるものを自分の経験から優れものへと変えていく。その前向きな積み重ねと人への印象が、その後の自身の身体感覚を鍛え上げるという。いい人生、いい生き方のために、人にとっていいものを「見る」努力を意識することで生きたいものである。mitameya181115



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「何が見えるのか」で違ってくるクオリティライフ

2018-11-10 17:16:12 | はとはあと最新情報
「何が見えるのか」で違ってくるクオリティライフ

自分であることだけは確かである。現れるままに受け入れてしまう印象と陰の欠片が、何かにつけて体内を通り抜けていく。今いる所とは別の空間にいるような気分でもある。人はほとんど知識としてしか知ることのない酸素や栄養を摂り込んで生きていると教えられてきた。実はそれだけでない。自らの成長・維持に合わせるように、外見の変容を自在に摂り込み、活用して生命を養っている。そこには人たらしめる「精神」という存在がある。食や栄養だけでは生命は維持できない。理想を掲げることで心身は構築されていくように思う。

私たちの身体は、「見えたもの」を相手に常に呟いている。自身にとって、あるいは身体の各機能にとって好ましい組み合わせなのかどうか、見えるものから発生する印象とその背景にあるイメージについて検証を欠かせないのだ。いつも馴染みにしているコーヒーショップ、オーダーを受けに来るいつもの女性は見当たらず、外国人らしい女性が代わりにサービスにお出ましになった。ただそれだけのこと、表向きなんの変わりもないとするのが我々の観念だが、その場に一瞬立ち込めたイメージの破片は言葉にならずに散乱する。

それが人体にとってどのように「見える」か、また信号化されるのかは、理解の上でとりわけ重要である。自在のあり様や変幻の流動によって、養われる身体や精神もあるが、見ることが主題でないとしても、そこに付随してくるさまざまな印象、非言語としてのバーバルがもつ多くの語彙と意味を読み解かねばならない。当然、身体は力づく一辺倒の機械ではない。むしろ、そのような感覚能力・性能は、われわれの想像をはるかに超えるものに違いない。他者に見られた笑顔を瞬時に判断し、人の思いや願いを分析・理解できてしまう。

私たちは、人のことを「人間」とも言ってきた。人の「間」がまさしく人間なのである。人の間を往来し、思いや価値を表すために「言語」が配置された。言ってみればこの間にこ人の意味であり価値であると言える。この間の言葉と意味を交わすことが人間である。言語には言葉というシステムやルールもない「非言語」でのやりとりによって、様々なコミュニケーションが可能になる。その認識の原点は、「見ること」「見えること」という人間の感受性である。「何がそこに見えるのか」、そのことによって伝わる質と生の意味が違ってくる。
mitameya181110
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