病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

言葉に優しく、その働きに労いの眼差しを

2018-10-19 17:08:21 | はとはあと最新情報
言葉に優しく、その働きに労いの眼差しを

いつも何の考えもなく使っている「言葉」には、意味や概念だけでなく、反射的に置き換えられる「見える世界」を変えることで、さまざまな印象のバリエーションに繋ぐことができる。言葉の伝える意味は、決して一定ではないことは日常のコミュニケーションによっても理解することができる。しかしながら、それだけ変幻自在の言葉であったとしても、常々の表現に、それほど大きな揺れは感じないのだが、一旦それを疑ったり、鬱陶しいと思たりすると、頭の中は混乱して大騒ぎになることもある。人知れずする、身体の悩みである。

たとえば「卵」という言葉。平凡には、我々が食卓に上がる鶏の玉子が前列に並び、なんの違和感もなく暮らしの中に溶け込んでいる。だからこそ玉子であるが、これが「煮抜き」という理解が強制されたりすると、もう少しリアルな印象が増してしまい、卵や玉子の認識でいる相手には、多少でもギャップという腫れ物ができてギクシャクするのかも知れない。人との心の距離感は、そんな健気な痛みから生まれてくるようで、言葉についての印象や自覚も、常々揺れ動いているように思が、それも人間的成長であるのかも知れない。

自分が認識している言葉の印象と他者が認識している印象は、大きく違うのだが、人はその違いを堪えているに違いない。その違いの場に出会いそうになると、手近な階段を見つけて駆け下りるように避けていくのではないか。適切な言葉を使うと、相互の理解が進み、共感のある関係が生まれるというが、ほんとうだろうか。言葉がもっている印象という身体的理解やその背景となる環境に一定の共通性がなければ、同じような相似形の理解や共感というは難しいのではないか。そもそも手にもとれない印象を比較できるのだろうか。

言葉は想像以上に大切である。何気なく口に出した一言が、相手を傷つけ自分を錯乱させてしまう。言葉自体にも変質の跡が残ったのか、以後あまり見た形跡もなく、使いたくもないこともある。沢山の言葉を知ることも必要だが、その意味で主張する意味合いや価値観を我が身に引き寄せておけないものか。言葉に優しく、働きに労いの眼差しを注げるようになれば、表情はより豊かになれるのではないか。言葉を我が子のように抱き上げ、優しくアヤしながら話しかければ、心の平安がどこまでも広がり、隣人の笑顔が近くまできて囁くのだ。mitameya 181019


10月27日のHISフォーラムでは参加者審査を実施します。常々、広報の視点で仕事をする大学関係者らを審査員に
審査をお願いしてきましたが、医療の現場で広報に関わっている参加者との間に、どのような差があるか、
それを見てみようという会場外プログラムです。
締め切りまであと5日、お早めの思い仕込みをお願いします。

病院広報の精神は「鐘鼓(ショウコ)」、「鐘を鳴らそう、鼓を打とう」です。
昔の人は、こういって魂の村起しをしたと言います。
それがショウコに、BHI最優秀賞には、「鐘の鳴る木」を、BHIデザイン賞には、「連結太鼓」を送ります。







よりよく生きるためのイメージ・トレーニング

2018-10-14 19:20:17 | はとはあと最新情報
よりよく生きるためのイメージ・トレーニング

われわれの性格とは、この世に生きてみると、そこに「浮かんだ残像」や人柄の印象にもどこか通ずるものである。そこで出会った環境とか情報が人の目を通して沈殿していく。ある意味で全く異なった特性、また反対によく似た特性の土地柄を育てている。似かよった特性も生まれる、そこに同様の文化や風土が醸成されるのだ。暮し向きにも同様の特性が現れるだろう。それらは人の生き様にも影響し異なりを見せるから、性格も様々で当然だろう。印象や感性は、計測してしまえば、かえって本来の性質が見えなくなるので分析は難しい。

しかし、人の人生を決定づけるものとは、外部にあるのではなく、その人自身の中にあるという教えがある。確かにそれぞれに人格があり人権が与えられているなら、その人の行動が人生を決定するのだから、そのとおりである。難しいのは、印象や感情の受容は、その人にとってもコントロール困難な部分があることだ。様々な困難をうまく乗り越えるにも、理性や主体性だけで通り抜けていける人もいれば、そうでない人もいる。むしろ、何かにつけて感性を前に出して元気に生きている。それが豊かさと考える人も多いように思う。

変化する環境や情報の中で豊かに生きていくとは、どういうことだろう、などと青臭いことを書くつもりはない。生きることは、何があっても、自分自身に潜む一瞬を生きる覚悟をもって乗り越えていくことにある。自分の目に捉えてジッと見つめるとは、自分の生の選択している一瞬ではないのか。物事の成り立ちの間から、いま見え隠れする決定的変化の瞬間を見届けるためである。実はこの重要な瞬間を意識しないことが多いのが問題である。次なる次元への「あるべき・ありたい予感」を目でする決定的な総合判断の一瞬のことである。

何を差し置いてでも、次を生きるために自らの視覚は、全神経を動員して集中するのだ。何を見ているというより、暗黒の中、全神経を集中して見える脳内座禅に余念なくいるのかもしれない。自分こそが周囲の象徴として無意識に夢想して止まないでいる時空のことである。がしかし、ここで物理的生理的な結果が示されるわけではない。それを繰り返し重ねることで、人間は思考の独り立ちを試みるようになる。誰かから指図によって行動するのではなく、真に自立するプロセスである。よりよく生きるためのイメージ・トレーニングになる。Mitameya 181014

写真は、ニューヨーク・ヤンキースの試合場で手にした本物のボール。

なお、HISフォーラム2018に参加されたい方へ。
今週になって急に動きがでています。特に遠くから予定されようとしている方、
締め切りは今月24日いっぱいとなっています。
お早めのお申し込みを。

広報の事例発表に挑戦する「BHI賞」と並行して、病院広報誌のデザインの質を競い合う「BHIデザイン賞」があります。
今回のHISフォーラム(10月27日・京都)では、BHI賞の発表会場に隣接する特設会場に、BHIデザイン賞の入賞広報誌
の展示に合わせて、入賞応募誌の「現物提供」が受けられるサービスを行いますので、ご利用ください。事務局






コミュニケーションと病院広報、どこがどう違う?

2018-10-10 15:14:24 | はとはあと最新情報
連続2回で、「コミュニケーション」と「病院広報」について、ワークショップを主体としたPL認定講座を行います。

この狙いは、本来と比べても意味がなく、かと言って全く違う話でもない二つのカテゴリを考えていくことで、両者の間に浮かび上がるものがあるのではないか、という思いつき(アイデア)から構成したものです。とかく、このような概念は、人間の思いを載せることで、一概に定義しにくいところがあります。定義しにくいからこそ、気軽に用いることもできる、そのように考えての企画です。たとえば、コミュニケーションは、現代社会では、具体性を示さないまま、どんな場合にも出てきます。使っていることがオシャレなのでしょうか。生産性があがるのでしょうか。実はこんな大事な話なのに、ところ構わず出回っています。

また病院広報は、意味薄弱のまま、出たり入ったりで、風に飛ばされる落ち葉にそっくりで、いまだに恋人がいません。でも集客(この言葉を医療の場で平気で使うコンサルタントがいます)の成績は良く、不安も多いのですが、ビジネスはイマイチです。なぜなら、HISの病院広報は「個別対応」主義、みんな違って、みんないい」主義を貫いているからです。だから1対1の医療が一番です。

それが「糖尿病の人この指とまれ」とか「認知症はこっち!」といって纏めてコストダウンなんてことはやらないし、できないからこそ医療の信頼があり、また必要なのだ、というようなことは、もっと利用者(患者の時代は過ぎつつある)に伝える広報を行い、その展望を伝えることが待たれているということです。

世間話をしているようで、シャキッとしないところがありますが、人は今一瞬を生きているのです。話していて言えている部分もありますが、話していて言えていない箇所もあります。そしてまったく何も言えていないというのもあります。この文字の一つ一つに思いや偏りがあるように、講座では、それら受講者の思いを積み上げてみようと考えています。機械のようにはできませんが、まずは、そのための周到な準備をいたします。構成どおり受講した人には、認定の先が見える」ようにしようと思っていますので、ぜひ、お出かけください。

NPO法人日本HIS研究センター
PL認定講座 石田 章一

上記の講座の受講申込書は
日本HIS研究センター事務局 
http://www.j-his.jp/ にありますので、ご利用ください。

なお、HISフォーラム2018へのお申し込みは、
来たる10月24日(水)午後5時までで締め切らせていただきます。
お早めに事務局までお知らせください。

不明の点は075-741-8219へお問い合わせください。




病院広報の心理学、阿吽(あうん)を考えよう

2018-10-08 16:22:44 | はとはあと最新情報
病院広報の心理学、阿吽(あうん)を考えよう

阿吽(あうん)がほしい。吸う・吐くの呼吸である。気配の変化の察知である。見ることはできないが、何か感じがする。何か閃く軽い電気を感じて集中する。何かが見える前に起こる一瞬の奇蹟である。一生を生きていくには、兎にかく生きていなくてはならない。生きるには、呼吸その他の無意識の指示に従うことが必要である。考えても何もない。そのうちに、無意識が意識を連れてきて、どこかを消してしまう。それまでの間、人は「空を見る」が、それが絵空の役割であるとわかるまで、一時を要することになる。

見えるものを見るということは、考える以上に集中することである。それだけに留まらず、見えるものの動きが定まると、なんと目の前に自分という他者が現れる。それで全身が安心してしまう。すると、社会という見えるものが、別の舞台に現れて、心の土地に定着しようとする。気を衒うように見える要素が描かれて、それが次第に現実味を帯びた空間に成長し始める。辺りを見渡して現実の世界にいるとわかると、見えるものが実感を持ち始める。ごく当たり前の現実が一気に目の前に広がることになる。

私たちが向き合う現実世界は、それなりの個人差はあるだろうが、体感的に説明すれば、そんなイメージを孕んでいるのだ。認識の基礎をなすものは、そのような絵巻でできていて、掴みようのないものであり、死んだらすべてが消える。内的自己も外的主体も再起動は難しいかも知れない。見る人も消え、見られる人も居なくなるが、そのために数値データがカバーしている。暗黒でもなく、白亜の世界でもない。身体には膨大な言語が入る余地はない。むしろ広々とした描かれる空間の、その自在なつながりである。

記憶にはないものの、あの母親の産道を通過したときの無意識の一部には残っているのではないのか。イメージが語りかけるのは、愉快で楽しく想像を逞しくする世界だろう。我々に見えなかった産道の景色は、記憶にはないとして、産道という空間イメージは無意識の中に残されているかもしれない。見えない世界、見ることのできない光景を、イメージが記憶し、伝え、語ることに大きな意味がある。理論は杖のような機能を担い、人々に正しい知識を伝えているが、人が生きるという意味においては、イメージと分担すべき事柄といえる。mitameya 181008


HISフォーラム2018 全国病院広報研究大会 in KYOTO
ご参加ごあんない


日 時:10月27日(土) 
受 付:午前11時〜  開会:午後1時〜(終了後、懇親会)
会 場:京都市左京区 聖護院御殿荘ホール
発 表:第一審査入選など11事例
基調講演:京都大学医学部大学院・健康情報学分野 中山健夫教授
申込先:日本HIS研究センター事務局075-741-8219 info-his@j-his.jp
参加費:1名8,000円(HIS会員6,000円・申込締切10月24日)

懇親会:1名6,500円
申込は10月20日締切・御殿荘075-771-4151まで



自分とふたりで見る、ふる里のような村への拘り

2018-10-05 11:26:55 | はとはあと最新情報
自分とふたりで見る、ふる里のような村への拘り

私という存在を知っているだろうか?まず、この問いが何を求めているのか、理解できるだろうか。禅問答のようで、何だか分かりすぎたような話で、かえって分かりにくい問いだな。答える人によって、いろいろな答えや答え方があるだろう。このような問いを前にしたとき共通するのは、誰でも筋の通った答えが一気に出ないことだろう。それほど私たちの意識は、自分で見たり感じたりする以上に、驚くほど無関心で動いていると言えるのだ。自分のものでありながら、自らに自覚はそれほど完全なものではないようだ。

自分という日常の実物、実態は、現代では、その気になればすべて機会で見ることはできる。例えばレントゲンとかCT装置というカメラ機能を用いることである程度のアウトラインが把握できる。自分の各臓器や血の流れの実際は、リアルタイムに把握することができる。全身の情報を集め、状況に応じて臓器や筋肉に指令を伝える神経によって自身をコントロールしている。ということを私たち自身、頭で理解できている。しかし、誰もが、鍛えられたスポーツ選手のように、全身を変幻自在に、手品のよいに操るようなことはできない。

つまり、自覚し自律できる自分と、自覚も自律もない自分、それが現実の生きる能力とは別に一体になって日常の世界にあるのということになる。自問自答という世界があるが、それは自分の自覚するところであり、答えのある通常に見える世界であるが、自覚のない自分の世界には何があるのだろうか。おそらくそれが無意識の世界、自己コントロールが殆ど不可能な感覚の世界であり、夢見る世界であるだろう。印象やイメージという曖昧な、しかし掛替えのない貴重な言葉によって一瞬を彩るような、強い意思の表現になることもある。

けして社会は、計算結果の積み重ねではない。あたりきしゃりき。平等な人間社会の建設のためには、共通価値の蓄積と適切な生産、その共有が必要である。そのための論理・仕組みの構築や理解への気配りも欠かせない。互いが大らかに生を全うする仕組みは、我々自身と社会が積み上げてきた潜在能力から育成される。目を通して何を見るか、何が見えるかであり、同時に見せる卒のない仕掛けづくりに力を入れることが必要である。だから品性と心地よさこそ何よりの栄養価、高いエネルギー源ではないだろうか。

デザインはアートではない。問題解決が仕事である。そのために「見るべき」は、理想と現実のギャップである。現実の問題は数値を理想に合わせていけばいいが、宇宙や体内には「見えない問題」も山積しているだろう。その基準を一言でいってしまえば、それは人間にとって、いつも「心地よい」ことである。意識しなくても、心地よい環境、心地よい情報に包まれていたいのが、生体としての人体である。その現実とのギャップ解消こそデザインの仕事であろう。仕事にも、家庭にも、健康にも、コミュニケーションにも。mitameya 181005


お知らせ

10月27日、京都左京区聖護院で行いますHISフォーラム2018の参加申込の締め切りは「24日午後5時」です。(事務局)

また、同日の懇親会へ参加申込は、準備の都合により「20日締め切り」とさせていただきます。(運営:御殿荘)
なにとぞお早めのお申し込みをお願いいたします。

HIS事務局 075-741-8219 info-his@j-his.jp