病院広報(はとはあと)評価支援情報

「はとはあと」は、市民の暮らしに必要な、誠実で適切な医療情報を評価し、支援することで参加施設の透明性と“信頼を高めます。

「いいものを観る」「いいものを観せる」努力が開く未来

2019-02-24 11:38:15 | はとはあと最新情報
「いいものを観る」「いいものを観せる」努力が開く未来

人の論理的判断は、ときには鬱陶しい経験になる。多分こうだろうという直感を優先させることが合理的であって当然というような場合がある。場合があるというより、われわれの日常の多くは、そうした脳?の直感とともに行動している。もっといえば、左脳の判断を参考にしながら、右脳の直情評価もあってコトが進んでいく。まさに時と場合によるのだが、どちらを優先させるといいかという“仕切り”に覚悟をもって望むことが必要である。なんの覚悟か、それは命を全うしようとする生身が担っている、生まれながらの責任からである。

先週、京都大学大学院で開かれた「健康デザイン論」の講座に招かれてゲスト参加してきた。講師は広告代理店大手の電通、それも3名の講師がコメントとワークショップを指導した。テーマは「人を動かす“企画書の企てる“方法」で、私が主張するデザインが「問題解決」であるという点で興味があった。彼らは「医療はコミュニケーションである」との考えのもと、いつしか「動いてしまう企画」を提示した。人は理屈では動かないが、共感があれば、心よく賛同する特質を理解したアクティベーション・デザインの提示であった。

済んでしまった、ある程度の結論を後から評価するときも、このような視点を進んで評価することも重要ではないか。ともすればエビデンスの明確な根拠が云々となるが、後日の評価に見捨てられてしまう事例は悲運である。それは大らかな生の認識でではなく、生死につながる計算メモを勿体なく懐に忍ばせるような精神ではないのか。大らかに心地よく笑顔で迎える布袋和尚のような心根がすべてを包み込むことを考えよう。生きていく以上、いいことも、悪いことも、入れ替わり立ち代りやってくる。その動きが見えなければいけない。

こう述べてのすぐさまの決まり切った反論はわかっている。あえてここに議論を書かない。なぜなら正直な感覚を述べているからだ。それよりも心地よい笑顔で優しく振舞い、困った人を支え癒す手立ては何か、どうすれば社会善が生まれるのか、思考の努力をしなければならない。ほんの思いつきだが、こうした点に、本当に共感して脳に焼き込まれるのは、論拠の配置がいかに整然としていても、刻一刻と変化するデータといっても、結局は人間の目を通すのである。重要なことは、意欲の湧き上がる環境やコミュニケーションではないか。

要は「見ること」つまり「見えた世界」をどう活用するかである。過去の記憶やその先入観によってその質も変化する。変化したフェーズによって映像化されたイメージも変化する。つまり見えた世界(としか言いようのない世界)とは写真や動画のようなもので、その撮影条件のよって質は自在に変化しするから、見えた世界(対応するイメージ)にもさまざまな変化と反応がある。そこにあるのは外的な縛りではない。あるのはそこに残された印象である。その場に生まれる“笑顔”にこそ前向きの、次なるアクティベーションがある。Mitameya190224

地域住民は、病院のいったい何を「見ている」のか

2019-02-17 16:24:33 | はとはあと最新情報
地域住民は、病院のいったい何を「見ている」のか

私たちは自らの内的宇宙に生きつつ、その印象世界の纏まりを意識し、自在に分析・検証・判断をしながら生きている。それらは言葉として編集され外部化されることでその遣りとりは、他人の立場にも少しは理解され共有される。つまり自己→言語→他者という感性による往来の中で、知的価値をその場の協働により創造して行くことになる。ここに科学的分析など到底及ばない生命的乱動のように見えてしまうのは致し方なく、「なるがまま」「ありのまま」自在な姿こそ合理的であり、人間として納得のいく実感ではないだろうか。

昨日は、日本HIS研究センターの企画運営会議という月例の集会に出席した。只でさえ忙殺されそうな状況の中、年度末の課題山積に議論は白熱した。気になるのは、大きな流れが明白でない段階に、細部に議論が集中してしまうことだ。準備不足の会合によくありがち、根気よく進める以外にない。むしろ「その場に立ち上がる湯気」やはり「ありのまま」という目の前に見える現実を尊重し、「流れに身を任す」ことも必要である。決定は力任せではなく、自分の意思、使われた言葉、メンバーの理解の質を統合して考えてみることである。

そのような場を十分に見わたし、進むべき道筋(戦略)を決めるには、言語情報よりも非言語、つまりビジュアル(図解)による資料が有効である。視覚には「小さな情報単位を嫌う」という原則がある。まして高齢人口の時代である。文字情報を極限まで制限して、なるべく「全体視」が可能な情報づくりが望まれる。いわゆる「パッと見て理解する」仕掛けの情報づくりである。また忘れてならないのは文面の漢字率(30%)で「可能な限り制限する」こと、視覚が細部に及ばなくても理解可能なように脳神経への配慮が重要である。

またそれを見込んで「バーチャル・チーム」という手法を提案しているが、時間切れ、準備不足で果たせなかった。それぞれ多忙かつ創造的な仕事ぶりの中にいるメンバーである。決定していく時間と場所は代替えの効かない基本条件である。その現実をクリアするには、タテの発想をヨコにしてみる、また経済などをハバとオクユキと置き換えてみる発想が必要である。「バーチャル・チーム」は会議・打ち合わせの固定概念を打ち破るにふさわしい。ぜひ、多職種が協働する医療現場では、この枠組みに挑戦してみるべきだと思う。

理念らしき理念、方針書らしき方針書、一見してそれらしい体裁をしていても、どこか軽々しい。熱のある情報はその威力を表面に滲み出しているはず。それらは「本質の研究」「サービスの研究」から距離を感じさせる。見た目だけのこうした筋合いは、必ず「制度」や「基準」からも距離があるように見える。利用者が「安心したい」を訴えるのはこのことに安心したいのだ。「虚いのない真心の医療かどうか」という精神性。病院に集まる医療の利用者は、欲望満足を願う「消費者」ではなく、顧客の特権を主張する「患者」でもない。mitameya190217






「複眼で観る」今春の夢を求めて

2019-02-11 13:46:39 | はとはあと最新情報
「複眼で観る」今春の夢を求めて

前号で個人的な若い経験をあえて捻じ込んで紹介したのは、柔道もアートも、方程式では解けない感覚の世界を追求した“身体知性”の成果物であること。いずれも論理の形式を束ねるだけの、科学一点張りの世界で説明のつくものではない。私なりの理解を経験の中で説明したに過ぎない。だが、こう書いてしまえば、「なんだ、当たり前の話」でないかと叱られそうだが、時にはこのような「複眼」でモノを見ていくコト、または行動していくコトが全体または要点理解・全体認識に求められることにも多々あることはご存知のとおりである。

このことは医療や介護サービスの場でも欠かせないテーマである。「患者様第一のサービスは何より大事」であり、その施設がもっとも重視する理念である旨を掲げない病院経営はないし、それなりの職員教育が行い院内掲示にも謳われていて、サービスの場に集う人々の文化としても育ってきているのは間違いない。サービスの利用者のサイドに立った専門サービス(商品)の提供という視点から評価できるのではないか。つまり医療の目的である本質部分ではないが、サブサービスとしての付加価値においていえることである。

では、医療の本質つまり病態の改善や予防、患者教育など医療が本来的に担うべき使命の部分ではどうだろうか。医療の本質は医学の適応であり、論理的な仕組みとして社会に適応している。すべてにこの本質を外すことはできない。しかし、現実には利用者の心地よさに配慮して、それなりの満足や納得感により、共感的で協力的な受療を進めることが必要である。ここに利用者の心理や感性など心身の快適性を理解した医療が求められることになる。付加サービスの満足を上げることが受療の満足を上げるという研究成果もでている。

「複眼で観る」ことこそ現実の眼差しではないだろうか。世はまさに科学全盛でありテクノロジーの時代である。好きなことが科学でできる。この理想を享受するためには、好奇心によるテーマの受け入れ、掘り下げとともに、審美眼や非言語によるコミュニケーションへの参加が欠かせない。「科学の進展が全てではなく、科学自体がアートの資質を備えている社会」が待たれるのかも知れない。人に備わった理性と感性は「複眼で観る」ものである。要は、知性を土台にした高い感性による心地よい情報社会に求められる。春よ早く来い。
mitameya190211


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日本HIS研究センター(NPO) 
関連情報は、075-741-8219または、http://www.j-his.jp/


医療の場に必要なデザインによる問題解決力を

2019-02-03 15:47:02 | はとはあと最新情報

医療の場に必要なデザインによる問題解決力を

若い頃の話で恐縮、武蔵野美術・工芸デザインの過程でデッサンの日々を過ごしたことがある。成長に役立ったのか、いまさら確証するすべもないが、これでこの世界に踏み込んだという自覚が生まれた気がしている。関西を離れ、友人の顔ぶれもコロッと変わり、身なりも目にする世界も一変した頃である。「見ること」、「見えた印象」に強い関心と自覚を持ちはじめたのである。実はそれは初めての孤独感であったかもしれない。冷たいモチーフの石膏に何度も触れながら、自分の存在を確かめるようなアトリエでの日々があった。

京都の府立高校を出た。進学を諦め柔道の縁で大阪の某電器メーカーに就職。実業団選手から東京オリンピックを目指したのだが、会社側の無理解から思うような(約束通りの)練習をさせてもらえず、折角の軽量級への機会をあきらめた経緯がある。その後、たまたま人事異動で自己申告による希望が叶い、短い期間であったが、宣伝業務を体験することとなる。偶然「デザイン」の世界を志すには、すべてを白紙にする必要があった。当時大阪にはデザインが学べる場はなく腹を決めて退職。東京・四谷の新聞配達所が宿舎となった。

その後、友人の誘いで東大阪の住道に移り、日本画の大家の自宅に下宿してが、やはりデザインとは世界がちがう。広告仲間と千林や扇町を転々、結局、両親のもと京都へ。和装・伝統産業に絡む仕事や全農連、京都大学工学部に絡む建造物や大規模文化公園の開発にも参画してきた。京滋の衆・参議院議員や知事のイメージ選挙の立案なども珍しがられてか手がけてきた。印象・認識の真理世界を整理し直し、特長づけて「強み」にする。全体をいかに整理して筋を通した強みを社会に浮き上がらせるかという(デザイン)に掛けてきた。

そのうち出会いがあって医薬品流通にも関わる。各地の医療関連企業のマーケティングや病院など医療サービスの質向上を担うため、全国を駆け巡らんばかりの忙殺の日々が続く。この間に生まれた独自の支援サービスが、HISである。他社が手を出しにくい「デザイン」の視点から、医療の場を改善する。医療・介護サービスの質を上げながら、人材の成長をサポートするとともに、いま言われ始めた働き方改革やコンピテンシーの視点から、成果と納得の実感ある現場づくりのために、デザインをツールに問題解決を行なっていく。

医療を企業に擬える理解が大手を振っているが、それは違う。人の健康や人生は百人百様。既製品の大量生産、大量消費によるマーケティングやコストダウンが指標ではない。「個別の状況に寄り添うことが基本」であるのだが、案外そんな配慮は現場にない(多分これから浮き上がる話?)。要は「景色や空気を判断して(個別に)対処する力」で成り立つ療法、一歩一歩の登山のセンスでないだろうか。観ること(観察)、看護により見通しをつけながらのデザイン、ナイティンゲールが言ったように、その芸術を全うするのが医療のチカラである。190203