病院広報(はとはあと)評価支援情報

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「見える」に含まれる様々な意味を考える

2019-05-11 13:13:47 | はとはあと最新情報
「見える」に含まれる様々な意味を考える
人の目が常に探し求めている先は、いつも美の光景である。さほど意識はしないが、目のいく先は、美との偶然の出会いに期待が向けられている。しかし、美がどこにでも散在しているわけではない。それは捉える側の感覚によって調整されるからだ。日本の観光都市の代表である京都には、歴史がその美の舞台を担っている。美というテーマが街並みや景観だけでなく、暮らの隅々から人々の仕草にまで貫いているのだ。見た目による価値観が軸となって身の周りを包囲しているが、改めてそれが負担であるということなど全くない。

京都を地元にして73年、日常が美の光景であって当然、それが人々の身体の健全につながっている。例えば「汚れ」は市民の「恥」である。そのような言い分が溢れ出ているわけではないが、京都人の暮らしの意識の中には確実に流れている。人通りの絶えない繁華街などでは、極寒の時でもない限り、店先の道路に水撒きを習慣にしているところが多い。清潔であることが品位を表すことであり信頼につながる。客サービスではなく、すべての他者へのホスピタリティである。笑顔での「おもてなし」だけではない深い社会性が含まれている。

観光都市・京都は、世界に他者から「観られる」存在である。言って見れば「言い訳の効かない」街である。見えたとおりに伝わってしまう風土になっているのだ。見えることは言葉を超えるのである。何かと言葉は、揺るぎない論理の代名詞として社会参加に絶対である。その言葉をまるでペーパーバッグに仕舞い込むように済ませてしまう文化力。これで京都はこれだけの歴史を堂々生き抜いてきたという教えの一つになる。観せる・観られるとは、部分にこだわりなく、丸ごとの印象による身体的コミュニケーションといえそうである。

壊れ窓理論(マイケル・レヴィン/佐藤桂訳)という本がある。その印象の一箇所が改善されないまま放置されると、いずれ全体の印象が駆逐されてしまうという。壊れ窓もそうだが、汚れ窓の放置も同様である。その窓だけでなくその他の窓、いえ窓だけの問題ではなく、外部への情報経路はじめあらゆる通信網から安心や信頼感が途絶えていくことになる。その結果、青いものが赤く認識されたりと、正常な社会とのやりとりが途絶える。それはまさしく組織の認知症という状態である。すべてがシステムの時代、些細なことが致命傷になる。mitameya190511

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