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ぽかぽか春庭「不易流行 in 写真美術館」

2025-04-26 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250427
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩写真の春(2)総合開館30周年記念不易流行展 in 写真美術館

 4月16日、第3水曜日65歳以上無料観覧は、写真美術館へ。
 ロバー・キャパ展と「カスババ展」は3月第3水曜日にも見ています。はじめて見る「30周年不易流行展」をメインにして、まず3階へ。

東京写真美術館の口上
 東京都写真美術館の総合開館30周年を記念するTOPコレクション展を開催します。
 本展は、学芸員5名の共同企画によるオムニバス形式です。多角的な視点から当館コレクションを選りすぐり、写真と映像の魅力をご紹介します。
本展のタイトル「不易流行」は、江戸初期の俳人・松尾芭蕉(1644–1694)が俳句の心構えについて述べた言葉に由来します。「不易を知らざれば基立ち難く、流行知らざれば風新たにならず[現代語訳:変わらないものを知らなくては基本が成立せず、流行を知らなくては新しい風は起こらない]」という言葉は、現代の私たちも芸術に対する姿勢として心に刻 んでおくべきものです。この「不易流行」の心を大切に、本展は過去の芸術表現を深く理解し、その魅力を今に伝えていくとともに、現在の表現や時代の潮流にもしっかりと目を向けようとするものです。19世紀から20世紀、現代までを取り上げる5つのテーマで当館コレクションを読み解きます。

 1室から5室の部屋ごとにひとりの学芸員が企画をたて、編集展示を担当しています。5人の学芸員のうち4人が女性。おう、そういう時代なんじゃな。
 1室から5室まで順番に見て歩くことは、今回もしませんでした。人が少ない箇所をぬって歩き、ベンチで足を休めたりしながら、展示を行ったり来たりしました。

第1室「 写された女性たち 初期写真を中心に」(企画:佐藤真実子)
 写真黎明期。それまでの肖像画に代って貴族ブルジョアこぞって写真機の前にたちました。何度か黎明期の写真展が開催されるたびに目にした作品もあるし、皇后ウージェニーの肖像、はじめて見ました。ウージェニー皇后の肖像画は多数描かれており、それぞれ貴顕肖像画の約束通り実際より美形に描かれています。しかし、写真の肖像にいちばん近く描かれていたのは、文久遣欧使節(1862)漢方医高嶋祐啓が描いたウジェニー・ド・モンティジョ 。高島は遣欧使節の一介の付き添い医師にすぎませんから、実際に謁見を賜ったとは思えません。写真館を通じて手に入れたウージェニー肖像をもとに描いたのではないかと想像しました。各種肖像画のなかでいちばん本人らしくえがかれているんじゃないかと思います。
アンドレ=アドルフ・ウジェーヌ・ディスデリ「ナポレオン三世皇后ウジェーヌ」1858 鶏卵紙手彩色。   高嶋祐啓「佛郎西皇后」(本展の展示ではない  

 幕末に生まれた出たばかりの写真機の前で緊張し不動の姿勢で写された人々。サムライの肖像はかなりの数残されています。今回は、女性像が展示でされています。お抱えの写真師を自宅の写場に呼んで撮影された華族夫人や令嬢の像もあるし、少しばかりのモデル料をもらい、写真師のつけるポーズでじっと立ち続けた芸者や茶屋娘、子守まで。フリーチェ・ベアトや下岡蓮杖が撮影した幕末明治初期の人々の表情。

下岡蓮杖「梅の枝を生ける女性」1863-1875


フェリーチェ・ベアト「日本の女性と赤ん坊」「傘をさす日本人女性」1863-1877

フェリーチェ・ベアト「お茶くみ」1863-1877


黒川翠山「傘をさす女性と菊花」撮影年不詳


第2室 寄り添う(企画:大﨑千野) 
 「寄り添う」をテーマに、大塚千野、片山真理、塩崎由美子、石内都、4作家の作品を紹介します。痛みや悩みとともに生きていくために、作家がどのように自身や周囲の人々に心を寄せて作品を制作したのか、4名の作家たちの作品を通して、寄り添うことの多様なあり方について考えます。

 幼いころの自分自身の隣に現在の自分の姿を合成した「過去に寄りそう」大野千野。亡くなった母親や被爆者の遺品を撮り続け、「残したもの」に寄りそう石内都。足を失った体が、義足に寄り添って生きる姿を写す片山真理。それぞれに寄りそう姿は異なるけれど、今を生きる4人の女性写真家をまとめた大崎千野学芸員の「痛みや悩みとともに生きていくために」という編集方針。

第2室の展示

片山真理「小さなハイヒールを履く私」「子供の足の私」

 片山の写真は、この2点だけ。最初にキャプションを読まずに歩きまわる私には、この写真に写されているのが義足であることはわかりませんでした。
 片山が先天的疾患により9歳のとき両足を切断したこと、左手はやはり先天的に指が2本の手であること。
 埼玉県生まれ群馬県太田市育ち。群馬女子大美学専攻から東京藝大先端美術専攻大学院へ進学。彼女の存在や作品に「アート」を見出し、「ファッションモデル」「アーティスト」として育てた恩師3人。現在の片山は、夫とともにひとり娘を育てながら、セルフポートレートを中心にアート活動を続けています。

 いじめを受けた子供時代。ひとりぼっちで過ごした中学校。一人で生きるために商業高校で会計士の資格をとって地道に就職したいと思ったけれど、身体障碍者1級手帳を持っていると履歴書に書くと、書類審査で落とされたからアーティスト目指すほかなかった。アートで賞をとっても「普通の体になれたら」という呪縛が続いた。娘が二本指の手を「いちばん好き」と言ってくれたことからようやく呪縛が解けたと、片山は述べています。陽毬ちゃん、すくすく育ってね。

第4室 写真から聞こえる音(企画:山﨑香穂)
 「音」を意識させる作品を展示します。写真に捉えられた空間には、たしかに存在していたにもかかわらず、写真として切り取られることでこぼれ落ちた情報である「音」。この「音」を意識しながら写真を見ることは、そこにあったはずの「音」という現象を捉えなおす契機となるでしょう。

 先日、現代美術館で「坂本龍一の音楽から現代美術を生み出す」というコンセプトのアート展を観覧しましたが、現代アートに弱いHALはピンときませんでした。同じく、写真を見て、「そこに聞こえてくる音」を聴くというのもピンとこなかった。大竹省二が撮影した「カラヤン」を見ても、カラヤンの音は聞こえてきませんでした。音楽にもアートにも鈍いから。ただ、写真としていいなと思ったのは、岡上淑子「廃墟の旋律」。荒涼とした大地に長い髪の女性が不思議な楽器を膝に置き、岩の上の楽譜を見つめています。音を聞いているらしいのは白ネズミ一匹。女性のスカート近くにいるのは妖精かしら。

岡上淑子「廃墟の旋律」1951


 東京都庭園美術館では2019年3月から4月にわたり開催された個展「フォトコラージュ—岡上淑子 沈黙の奇蹟」を見たときには、この作品は展示されていなかったと思うので、今回1作でも岡上の初期作品をみることができてよかった。

 植田正治、杉本博司らの作品、これまで見た作品に比べて驚きはなく、そうとう遠くなってきた私の老人耳に音は聞こえてきませんでした。 

第3室 移動の時代(企画:室井萌々)
 陸、空、そして宇宙へと人類の活動範囲が劇的に広がっていった「移動の時代」に焦点を当てます。つながりと分断、両方の側面を持つ「移動の時代」を捉えたまなざしは、歴史を鮮やかに描き出し、当時の人々の思いを鮮明に伝えます。

 ムロイモモさんは、1年間のインターンを経て2024年4月から正式に学芸員就任。学芸員として手掛ける最初のキュレーションだと思います。「移動」という着眼点から集められた流浪の民や移民。宇宙への移動まで多様な写真が並んでいました。

菱田雄介「北朝鮮と韓国」

 「ピョンヤンの少女とソウルの少女」「北朝鮮兵士と韓国兵士」「北朝鮮の桜と韓国の桜」というように、ふたつ並べた被写体は同じようだと言えば同じよう、対照的といえば対照的。
 1996年に慶応大学経済学部を卒業した菱田は、在学中は旅サークルに所属し、2年生で北海道、3年生でヨーロッパを回り、4年生の時にシルクロード横断を行い、バスと電車を乗り継いで北京からイスタンブールまでを旅しました。これらの旅の中で旅の方法を身に着けた、と述べています。
 菱田のことば(三田評論2019)
 平壌に初めて降り立った日、空港から街へと続く車窓の景色を眺めながら、自分は時間旅行をしているのではないか? という気がした。農作業を終えて帰路につく農民、歌いながら集団で帰宅する子どもたち。金日成主席への忠誠心や軍国主義がもたらす光景は戦前の日本の延長線上にあるように見えたの だ。
 板門店を訪ねると、軍事境界線の向こうに韓国側からやってきた観光客の姿が見えた。ここからバスで1時間も走ればソウルだ。そこにはスタバもあればマックもある。同じ民族が全く別の価値観で国を作り上げていることへの強烈な「違和感」。
 この感覚をもとに、僕は「border | korea」というプロジェクトを始めた。北朝鮮でポートレートを撮り重ね、韓国でも同じような年齢、属性のポートレートを撮影し、併置して見せる。新生児から幼稚園児、学生、結婚式、軍隊、中年、高齢者、バス、地下鉄、水平線……被写体は多岐に及び、僕は8年間で北朝鮮に7回、韓国に10回ほど通って1冊の写真集を作り上げた。
 
 沢木耕太郎はラジオ番組で写真集を評した。「その最大の衝撃は、2枚の写真の相違性ではなく、同質性だった
 同じポーズ、同じ視線、同じ光線で撮られたふたりのポートレート。田舎のおばちゃんふたり。北朝鮮と韓国の似たようなおばちゃんの姿の肖像。北朝鮮のおばちゃんの後ろには、ちゃんと金日成と金正日の写真が飾られています。建国の父とその息子の写真を飾っていない部屋で撮影したなら、あとで不忠民とののしられ逮捕されるかもしれないことを「相違」ととりあげなければ、ふたりのおばちゃんの同質性が際立つ。私が「似てるっちゃ似てるし、違うっていえば違う」と感じた「違和感」について、沢木耕太郎は「同質性に衝撃」と表現したのだと思います。北朝鮮は「異質であろう」という目で見たら、咲く花はなんの違いもなく咲き続けている。

 私がはるか覗き見た北朝鮮は、30年前の延辺地区の 図們市。 図們川にかかる国境の橋の真ん中から北朝鮮側の人家や、ごくまれに通る人を眺めただけだった。中国側から見える村だけはこぎれいに建てられ、人々の服装も支給されたきれいなものだけれど、双眼鏡で覗けない場所になれば、がりがりの飢えた子供たちが目に入るはず、と聞かされた。菱田が撮影可能になった地域は、北朝鮮政府によって許可された場所に限られていたと思うけれど、菱田が撮影した2009-2017あたりの両国の「差」は、今どうなっているのだろうか。裏取りのない無責任な噂にすぎないけれど、 図們川の 中国側から双眼鏡でのぞけない地区にも、人の姿など見えないというのだが。空飛ぶ衛星スパイカメラからは、地上1mにいる人物の顔もはっきり見えるというので、米軍も政府も北朝鮮の民衆の現状はすべて把握済みだけれど、「自由経済と民主主義をおびやかす敵」の存在が必要な政治家もいる。果たして同質性か違和感か。子供が遊んでいる姿が映る映像があれば、見てみたい。スパイ映像でも。

 20世紀に撮影された写真の中で、広く人々の意識を変えた一枚を選ぶなら、まちがいなく「月から見た地球」がその1枚に選ばれると思います。宇宙に浮かぶ小さな青い星が我らのふるさとなのだ、と強烈に人の目をくぎ付けにしました。
 

 アメリカ西部へ移動する幌馬車、平原に残されたネイティブの部族。夢の国と信じるアメリカへ移動しようとする移民船。移民労働者たち。流浪するユダヤ民。復員してきた敗戦国兵士。  

 林忠彦「復員-品川駅」1946

 林忠彦の写真と言えば、銀座のバーで飲む太宰治のポートレート。それ以外に名前と写真が一致している作品はありませんでした。
 林は写真館の跡継ぎとして写真学校で学ぶも、卒業後の放蕩により勘当同然で上京。肺結核の既往歴により徴兵免除。23歳で日本報道写真協会の会員になり、在北京日本大使館の外郭団体として「華北弘報写真協会」を設立しました。日本の宣伝写真を撮影したのち1946年に復員。品川駅で撮影した「復員」は、くったくのない笑顔に満ちていて、「同じ復員仲間」を撮影したのではないかと想像します。復員兵の「生きて帰ってきた!」という心からの笑いが写されています。

 林忠彦が1946年に写真発表を再開したのに対して、戦中報道写真の大御所たちは、戦後沈黙し、ほとぼりがさめるまで写真発表をしませんでした。
 今回展示されていた林忠彦の「復員」は、「カストリ時代1946─56 」の中の一枚。以下の論述「戦争責任と日本の戦争報道写真家」は、次回「戦争-キャパ」展の報告において展開します。

 第5室 うつろい昭和から平成へ(企画:石田哲朗)
 東京都写真美術館が総合開館した1995年に着目し、昭和末期から平成初期の写真・映像表現とその時代背景に目を向けます。総合開館記念展「写真都市TOKYO」(1995年)を再現するとともに、当時の新世代作家たちの出世作を紹介。30年前の時代に思いを馳せます」」

 第5室で見たことあった写真は瀬戸正人、野口里佳などがいました。1995年の「新世代作家」が開館記念展に展示した作品をもとにインタビューに答えている映像を、3階エレベーター前エントランスホールで見ました。当時の新進写真家も、30年たてばベテランにも大御所にもなります。

 開館時すでに50代でベテランになっており、アラーキーとして今も最前線の写真家として評価されているひとりが荒木経惟(あらき のぶよし1940年~)写真集「冬の旅」1990は、死んでいく妻を撮影した作品で、死に顔写真などが賛否を呼びました。展示されていたのは、死の床の妻と手をつなぐ腕。失われる妻への哀惜の情が表れていると感じてしまうのは、この手の人が死ぬところだとわかっているからなのか。このつながれた手が、男により性暴力を受けた女性の手だとわかっていて見たら、同じ写真に感じることが違うのかしらと思いました。
 いまでは「セクハラパワハラ写真家」として評価さまざまになったアラーキーです。

 過去のセクハラパワハラ事件を訴えられている人物の作品をどう評価するか、という問題。HALは2001年以後の荒木作品につきとりあえず評価保留とします。
 日本のエンタメ業界への貢献を免罪符にしてジャニ某を評価しないのは、セクハラ対象が未成年だったことが大きい。アラーキーを訴えた舞踊家兼モデルのKaoRiさんは、2001年に荒木に出会ったとき「二十歳そこそそこの年齢であった」と述懐しています。「フランスと違ってモデルが契約書かわさないのは日本の習慣と思った」そうです。日本のアート界芸能界が契約書をきちんとかわさないまま仕事をしていく方式であり口約束で進行する業界だったのは、昭和が終わっても続いていた慣行。これは出版下請け業界も同じでした。タカ氏も長い間口約束だけで仕事を回していました。もらう分が反故にされたことは何度もあったが、支払いを反故にしたことはない、というのがタカ氏の自慢ですが、おかげで家族は食うや食わず。

 着衣モデルと聞かされてフランスでの撮影現場に行くと、突然脱げと言われ、逆らったら今後の仕事ができなくなると恐れてヌードモデルをつとめたこともある、とグラフィックモデル経験者の談話。アラーキーはKaoRiさんを称して「荒木のパートナーであり荒木写真のミューズである」と言っていたことは、囲りの人も周知。二十歳から16年という長期間、パートナーとして遇される間はがまんできたことも、撮影される女性がより若いモデルになっていくと16年間がむなしくなったことはわかります。が、その間に撮影された写真の運命は?
 どのような業種であれ、ようやく契約書同意書の存在が重視されるようになってきた世になって、+MeToo運動も深まって、これから先どうか被害者を出さないでほしい。

 死者の被害。「すべて買い取った側に所有権があるから、プライベートヌード写真も使用権利行使」というのは、肖像権の乱用。判例では「故人の場合、肖像権は人格権の一種なので死後は消滅するのが原則だが、裁判所は「遺族の敬愛追慕の情の保護」という形で、死者の人格権も間接的に幾分保護している。
 要は買わなきゃいいんです。ネットで売れると息巻いている人々を儲けさせたら日本の恥。とはいっても転売屋~は早くもネットで高値取引を始めているというから、「死者の尊厳を守れ」という訴えはどうなるでしょうか。

 さてさて、 開館30年記念展。肝心の写真への凝視よりも、「身体とアート」論やら戦争責任論やらセクハラやら、「写真見ながらよしなしごとを」という観覧となりました。

 不易流行とは、芭蕉が俳諧について「不易を知らざれば基立ち難く、流行知らざれば風新たにならず 現代語訳:変わらないものを知らなくては基本が成立せず、流行を知らなくては新しい風は起こらない」と述べたことに由来する。春庭はどうしても流行を知らずにすごし、新しい風に吹かれることは人より遅く、風吹かすこと皆無で75年生きてきました。新しい風は、きっとどこかに吹いているでしょうから、老婆は風に吹かれることあっても、襟巻マスクで風邪などひかぬよう。あのね、襟巻って今はマフラーって言うけど、私がこの冬首に巻いていたのは、娘が編んでくれた毛糸の襟巻です。



 次回「キャパ戦争」の観覧記録と「昭和の報道写真家戦争責任論」考察。

<つづく>
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