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ぽかぽか春庭「高田賢三夢をかける in オペラシティアートギャラリー」

2024-07-25 00:00:01 | エッセイ、コラム


20240723
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩ファッションの夏(1)高田賢三夢をかける in オペラシティアートギャラリー

 高田賢三、没後最初の大規模個展に出かけていきました。ファッションの世界でいち早く世界に打って出た高田賢三の名は、ファッションに縁遠い私でも知っていました。

 中原淳一にあこがれてファッションの世界に入った、という展示もありました。私の好みは、中原の「夢見る乙女」ではなく、高田の「世界中を取り込みながら世界を飛び出していこうとする意志」です。

 オペラシティアートギャラリーの口上 
 髙田賢三(1939-2020)は、日本人のファッションデザイナーとしていち早くパリに進出し、斬新なアイデアで常識を打ち破るスタイルを次々と生み出しました。単身で渡仏後、1970 年にパリで自らのブランドを立ち上げた髙田は、木綿の新しい可能性を打ち出したことで「木綿の詩人」と称され、早くから注目を集めます。その後も、身体を衣服から解放させることを意識し、直線裁ちの着物袖やダーツをなくしたゆとりある服を生み出したり、独特の色使いや柄の組み合わせを用い「色彩の魔術師」と称されるなど、日本人としての感性を駆使した作品を数多く発表しました。それらは、国境や文化、性別を自由に超え、これまでの西欧中心の伝統文化にとらわれない新しい衣服を示唆することとなり、今もなお世界中で愛されています。

 2020 年に惜しまれつつ逝去した髙田賢三の没後初の大規模個展となる本展では、髙田のファッションの変遷を衣装展示でたどるとともに、幼少期から描いていた絵画やアイデアの源泉となった資料、衣装のデザイン画などを紹介し、多角的な視点で人物像を浮かび上がらせ、日本人デザイナーのパイオニアとして世界で活躍した髙田賢三の生涯にわたる創作活動を回顧します。

・髙田賢三 略歴
 1939年、兵庫県姫路市生まれ。文化服装学院に入学し、1960年に若手デザイナーの登竜門「装苑賞」(第8回)を受賞。渡仏して5年後の1970年、パリに自らのブランドを立ち上げる。その自由で華やかなデザインで瞬く間に人気が広がり、世界を代表するトップデザイナーとして活躍した。1999年に「KENZO」ブランドから退いた後も、企業とのコラボレーションやオペラ衣装の制作、新たなブランドの立ち上げなど、精力的に活動した。
2020年、81歳で逝去。

 第一室は、高田賢三の生涯を年代別にたどっていました。公的な生涯紹介ですから、きれいごとのみの一生になっていますが、インタビュー記事をまとめた「高田賢三自伝」に語った内容なども加えて作品を見ていきます。

 賢三は、姫路市の生まれ。両親は、浪花楼という待合を経営し、芸者などの粋筋の女性に囲まれて育ちました。長男次男とは年が離れており、長女次女と共におはじきや人形遊びをして成長。感性は女性として育ったと自認。

 姉たちが購読していた「それいゆ」や「ひまわり」を見て育つ。
 
 
 美術系の進学がかなわず、神戸市外国語大学へ進みましたが、文化学園が男子学生の受け入れを始めたことを知り退学して上京。父親は大学を卒業して手堅く会社員になってほしいと退学に反対だったので、アルバイトに励み、文化学園デザイン科9期生として卒業、同期にコシノジュンコら。1960年上期にコシノジュンコ、同下期に高田が装苑賞を受賞しました。

 住んでいたアパートが建て替えのために立ち退き料が支払われ、そのお金をもって1964年にパリに出ました。
 70年代のパリで売り出して、出世作となったウエディングドレス。⒛年集め続けたリボンをつなぎ合わせて民族衣装っぽいドレスに仕立てたもの。このあと高田は木綿使いや色使いにおいて、これまでのファッションの常識を飛び越えた衣装をつぎつぎにデザインし、パリに進出する日本人デザイナーのトップスターとなりました。

 リボンつなぎのウエディングドレスとわたし


 パリコレクションで活動する高田賢三は、グザビエ・ドゥ・カステラという同姓の恋人とすごすようになりました。マネジャー格のピエール・ベルジュをパートナーとするイブ・サンローラン、カール・ラガーフェルドにはジャック・ドゥ・バシェールというように、同姓の恋人を持ちましたが、イブはジャックに横恋慕という男性同士の三角関係。バイの賢三はイブの女性モデル、ルル・ド・ラ・ファレーズ とも一時期恋愛関係になり、人間関係はもつれる。イブ・サンローランの映画ほか、ココ・シャネルの伝記に基づく映画やグッチのお家騒動など、ファッション業界はエピソードに富み、映画もいろいろ作られていますが、パリコレクションの3人+その恋人3人の人間模様も、映画にしたらいいと思う。ピエールカルダンの映画は、そんなドロドロじゃなくほんとにファッションを追いかけてるので、私的には「どろどろしてこそのファッション業界でしょがっ」とそんなに見る気なし。

 スタイル画とドレス
 

 




 賢三は、グザビエへの愛の証としてバスティーユ に、グザビエの日本趣味を生かす数奇屋造りの大邸宅を建設します。広大な日本庭園には竹林や桜。池には緋鯉。流水プール、ゲストルーム、カラオケルームも完備する。部屋にはアンティーク家具や美術品。贅をつくした家の建設には7年もかかり、完成したのは1989年。建築の借財も原因となったのか、「ケンゾー」の経営は悪化し、しかも1990年にグザビエは死去。翌年には賢三の母親がなくなる。1993年、ケンゾーの全株式は、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンによる買いしめとなりました。

 1993年、宝塚の衣装を担当。
 
 
 LVMHアルノー会長との確執を経て、賢三は1999年に株式会社ケンゾーから追われる。1999年に完全撤退してから2年間は株式会社ケンゾーからファッションに関わってはならない、というアルノ―からの厳命を受けて、賢三は布地ではなくキャンバスを相手にする。
  
71歳の自画像

 2004年、アテネオリンピックの日本選手団ユニフォームをデザイン。
 賛否両論だったというこのユニフォームを私はまったく覚えていませんでした。かたっ苦しいユニフォームが多かった従来のものと比べ、パジャマっぽい気楽さがいいと思います。自分自身の制作部門はなくなっていたので、制作はユニクロ。2009年にバスティーユの自宅売却。

 急性膵炎に罹患後、回復し病み上がりの身ながら、2016年株式会社セブン&アイ・ホールディングスにデザイナーとして迎えられ「セットプルミエ バイ ケンゾータカダ(SEPT PREMIÈRES by Kenzo Takada)」を一年間限定で発表。
 2019年、宮本亜門演出のオペラ『蝶々夫人』の衣装を担当。
 2020年1月にはラグジュアリーホームウエア&ライフスタイルブランド「K三」を立ち上げるなど、復活を果たそうとしたが、22年にコロナ罹患により死去。
 
 ケンゾーの衣装展示。
 
 

  

  

 

 

 ファッションの展示ですから、なかなかおしゃれな女性の観覧者が多いなか、いつものTシャツ(娘が抽選で当てた賞品のトムとジェリー柄)と色落ちしたパンツ。


 オペラシティの中の大戸屋で、娘は爆弾丼、私はチキンサラダ定食。ひさしぶりの大戸屋で、私が「これ、まだ使えますか」と店員さんにたずねた紙のポイントカードは、とっくの昔に廃止されたみたいでした。そりゃそうだよね。よれよれのポイントカード、おしゃれにほど遠し。
  
<つづく>
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