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ぽかぽか春庭「大徳寺真珠庵」

2018-12-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181218
ぽかぽか春庭日常茶飯事典2018十八番日記京都ほんのり秋色(12)大徳寺真珠庵

 法堂東庭から真珠庵の屋根をのぞむ、


 真珠庵の庭「七五三の庭」伝・村田珠光作庭。こちらも撮影禁止だったので、借り物画像で。


 土佐光起「花鳥図」(画像借り物)


 拝観料2000円とるのに撮影禁止であることに文句を言いながら、真珠庵を出ました。
 神社仏閣の撮影禁止。お寺にはお寺の言い分があることはわかりますが、聴竹居のように、申込書に氏名住所を明記し写真撮影の目的を明らかにした上で身分証明を提出して、、というような措置をとれば、撮影しても問題ないんじゃないかと思いますが。
 京都のお寺は一律禁止のところが多く、方丈の入り口で「撮影禁止」と言われて引き返していった外国人観光客が何組もいました。京都の寺院の撮影禁止は世界のSNSで広がり、観光客が減ることもあるかもしれません。日本の各地を訪れる外国人観光客も、SNSなどで撮影した写真をUPするのを楽しみにしています。

 ハンさんは、御朱印帳あつめが目的なので、写真が獲れなくてもそれほど気にしていません。でも、ちゃっちゃと、お庭の前で「センセー、シャッター押してください」と、記念写真を撮っていました。周囲にだれもいないので、だれかが映り込むこともなかったし、中国に帰国したあとの思い出として、方丈庭園を背景にしたいいショットだったと思います。「センセー、もう1枚」と言われてカメラを構えたら、見回りの係員に「撮影禁止!」と叱られました。世紀の大犯罪のごとく。

 「目でみるだけで、心に思い出をとどめて」なんて言われると、心にとどまりにくい忘れん坊さんに生まれた悲哀がひしひしと身に沁みます。
 あとで写真を見れば、いろいろなことが思い出せるのに。

<きょうの出会い>
 ハンさんの娘シンちゃんは、大徳寺茶所(休憩所)で待っているはず。
 庭園に興味がないシンちゃんは、茶道会のあと、休憩所で待っていることを選びました。庭を見るより本を読んでいるほうが楽しいからですって。今夢中になっているのは、中国語に翻訳されている日本の小説。東野圭吾が今の一番のお気に入り。中国ですごい人気だそうです。

 茶所にいたシンちゃんは、お坊さんと会話していました。中国への留学経験があるお坊さん、中国語が堪能です。お坊さんは、札幌から観光に来ているという若い女性には日本語で、シンちゃんには中国語で、折り紙を折りながら「禅の心」を説いています。

 お坊さんは、大徳寺塔頭のひとつ黄梅院の副住職さん、長田玄渉師でした。黄梅院は、秋の特別公開中ですが、28日は非公開日で、茶所にいる人への説法をなさっていたのです。説法といっても、むずかしい禅の話ではなく、シンちゃんにも理解できるよう、お話しくださったようす。

 お話をうかがっているうちに、札幌の女性、シンちゃん、長田師の共通の「大好き」が『夏目友人帳』だということがわかり、大いに盛り上がりました。長田師は漫画を全巻所有していて、アニメ版も好きとのこと。シンちゃんは、中国で放映されていたアニメから「夏目ファン」になったそうで、漫画は、もう少し日本語がわかるようになったら、日本語版を買いたい、と話していました。
 『夏目友人帳』
 いじめられっこの男の子夏目貴志と妖怪のお話です。両親とも幼い頃になくなり、妖怪が目に見えるため、親戚やクラスメートから気味悪いウソツキとして扱われてきた貴志が、妖怪との出会いのひとつひとつの事件の中で成長していきます。
 
 「夏目友人帳」の話から、妖怪についての話題になって、ゲゲゲの鬼太郎の話がでました。と、長田師は「私の叔母は、水木しげるの奥さんです」とおっしゃる。「ゲゲゲの女房」の作者武良布枝さんは、長田師のお母さんの妹なんですって。長田師が「夏目友人帳」をお好きなのも納得です。私は「ゲゲゲの女房、見てました!」と、ミーハー発言。

 長田師のお名前で検索すると、ひとつヒット。司馬遼太郎の街道シリーズで挿絵を担当していた須田剋太さんの絵に描かれた場所をたずねる旅を続けている方のブログに、大徳寺三門で長田玄渉さんとお話しした、ということが書かれていました。2015年11月11日のこと。

 長田師とのお話がはずみ、大徳寺を出たときは3時すぎ。長田師は、わざわざ黄梅院に戻り、『夏目友人帳第1巻』を持ってきて、シンちゃんにプレゼントしてくださいました。シンちゃん大感激。長田師、シンちゃんハンさんといっしょに記念写真を撮りました。長田おっしょさん、ありがとうございました。

 おひる前に大徳寺門前に着いたとき、私が精進料理でランチをしようと考えていた「大徳寺一久」。3時では、店も閉まっていました。ご主人に話をうかがうと「予約受付をした方にだけ、昼御膳を出しています」とのこと。娘さんが中国留学したことがある、とのことで、ハンさんシンちゃんと話がはずんでいました。これもご縁だろうと、一久で大徳寺納豆を買いました。


 付近の食べ物屋さんは、ランチタイムを終えて、夜まで開かないところがほとんど。
 ただ一軒開いていたうどん屋さんでニシンそばを食べました。

<きょうの京ごはん>


 ハンさんがホテルに4時半に来て、論文のチェック開始。査読1回目が終わっています。
 1度目の査読で、査読者からの注文をチェック。読みにくい字、ピンクペンで書き入れてある「要訂正」の膨大なこと。ワード作成論文なのですから、校正書き込み機能を使えば、わかりやすいのに、手書きの書きなぐり文字、よほどアナログな査読者とみえます。

 要訂正の部分を読んでいくと、日本語学にも日本語教育にも語学教育、教育学にすらまったく関わりのない教授が査読者であることがわかってきました
 たとえば。教育用語として説明不要の語だ、と私もハンさんも思った「反転教育」や「MOOC(Massive Open Online Course )ムーク」という語についても「脚注が必要」と査読者はみなしています。

 査読に通すことが重要ですから、日本語教育関係者ならわかる用語でも、ひとつひとつ脚注をつけたり、略語の解説をいれたりして、ハンさんが「すぐ終わるから、夜からチェックしても大丈夫」と、言っていた予想に反して、夜遅くまでかかりました。

 私がこれまでに提出した査読が必要な論文は、日本語教育関連の紀要が多かったので、たいていはすんなり査読が通り、こんな苦労をしたことはありませんでした。「大学紀要」と言っても、いろいろたいへんなんだなあと思いましたが、ハンさんがこれから「業績」を積んで准教授から教授になるためには論文の数が必要。昇進に必要な業績は、主に学会での発表本数と査読論文の本数。

 1994年に、はじめて中国に単身赴任した私は、日本語を専攻する大学生だったハンさんと出会いました。日本語をどんどん上達させ、ハンさんは、曲折を経て日本語教師になりました。言うのもおこがましいことながら、いわば、藍より出でて藍より青い「私の一番弟子」。
 もっとも、私の教え子、国費留学生たちは、みな「藍より青し」です。国を代表する頭脳として日本の文科省から給費奨学金を得ている人たちです。私のような藍染のなかでも「かめ覗(のぞき」と呼ばれる一番薄い色あいのものに教わっても、学べる人はどんどん学んでいきます。

 非常勤講師のまま変わらなかった私とことなり、中国の有力大学で、ハンさんは専任講師、準教授とキャリアを積んできました。偉くなった今でも、私を「センセー」と呼び、大切に思ってくれています。
 私も、しがない非常勤講師の年月のなか、「センセーのような日本語教師になりたい」と言ってくれた人とのおつきあいは、ほんとうに得難い友情だと思っています。

 10月31日に、長楽館のアフタヌーンティにハンさんしんちゃんを招待し、いっしょにお茶するのを楽しみにして、10月28日は別れました。

<つづく>
コメント (2)
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