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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#319 創刊25周年企画 ②

2014年04月23日 | 1983 年 



昭和36年は投手が主役のシーズンだった。中日の権藤は新人ながら俗に言う「権藤・権藤・雨・権藤」の活躍で35勝。稲尾(西鉄)に至っては42勝の大車輪。別の意味で話題をさらった投手がスタンカ(南海)で巨人との日本シリーズ第4戦1点リードの9回裏、勝利目前で球史に残る「寺田のポロリ事件」でケチが付き一転して南海の優勢ムードに影が差す。二死満塁で四番・エンディ宮本への勝負球を円城寺球審に「ボール」と判定されてスタンカは赤鬼の如く球審に詰め寄るが判定は変わらず試合続行。次の球を右前に運ばれ逆転サヨナラ負け。スタンカはベースカバーに入る際に円城寺球審にタックルをかまして吹っ飛ばすオマケ付。

昭和37年になると長嶋の独壇場だったバットマンレースに一本足打法で遂に開花した王が登場する。その王に加えて柴田や城之内らが台頭しペナントレースを制するかと思いきや優勝したのは阪神だった。阪神の弱点は打線だったが、それを補いカバーしたのが小山・村山らの強力投手陣だった。藤本監督は先発投手ローテーションを開幕から6ヶ月の長丁場を意固地なまでに頑として守り通し栄冠を手にした。パ・リーグでは巨人を追われるように去った水原監督が率いる東映が怪童・尾崎投手の活躍も有って制し、日本シリーズで阪神を倒して日本一に。

この頃からプロ野球界は百花繚乱の時代に入って行く。金田投手(国鉄)はウォルター・ジョンソンが持つ奪三振記録を抜いた。南海には野村克也や韋駄天・広瀬叔功、西鉄には兼任監督の中西太を中心に豊田泰光や稲尾和久が元気に暴れ回り、ミサイル打線が健在の大毎には山内一弘、葛城隆雄、榎本喜八、田宮謙次郎。チームは低迷していたが近鉄には18歳の四番・土井正博が現れた。言わば現在の江川や掛布クラスの選手がゴロゴロしていた時代だった。

昭和38年に入ると東京五輪に向けて日本中が高度経済成長期に突き進んで行く。6月30日に金田投手が広島戦に勝ち通算311勝をあげて別所毅彦が持つ最多勝日本記録を更新した。8月11日の巨人-阪神戦で国友球審の判定に村山投手が「俺は1球に命をかけているんだ」と涙の抗議で退場。大阪球場では野村が第52号本塁打を放ってシーズン最多本塁打記録を達成。オフには山内⇔小山の「世紀のトレード」が実現し激動の一年を締めくくった。

東京五輪が開催された昭和39年になると王がもう手がつけられない大活躍。5月3日の阪神戦で4打席連続本塁打の離れ業。投手では金田が14年連続で20勝以上をマーク。海外ではSF・ジャイアンツのマイナーに留学していた村上雅則投手が大リーグに昇格し9月29日のカブス戦で日本人初勝利をあげて、当時は未だ肩身の狭い思いをしていた在留邦人の大喝采を浴びた。日本シリーズは南海-阪神の御堂筋シリーズだったがスタンカの力投もあって南海に軍配、阪神はまたも日本一に手が届かなかった。

珍事としては広島・白石監督が「王シフト」を考案。コンピューターを駆使して王の打球方向を解析し野手全員を右方向に移動させた。後年の王は変則シフトにお構いなく引っ張り打法に徹したが当初はガラ空きの左方向へ軽打し安打を稼いだ。その結果、本塁打数は減ったが打率は急上昇し江藤(中日)と激しい首位打者争いを繰り広げた。両者のデッドヒートはシーズン終盤まで続いたが首位打者は江藤、王は本塁打と打点の二冠に輝いた。ちなみに東京五輪の置き土産が長嶋と五輪コンパニオン・西村亜希子さんとの婚約だった。

東京五輪が終わると五輪景気の反動で公共料金の一斉値上げが実施されるなど一転して不況の波が襲って来た。そんな昭和40年に彗星の如く現れたのが池永投手だ。下関商から西鉄に入り、いきなり20勝10敗で堂々の新人王に。18歳とは思えぬプレート捌きで先輩選手を巧みに組み敷いた。また「投手は先発だけではない」と言わんばかりに登場したのが宮田(巨人)だ。今で言うセーブをあげる救援専門投手で、いつも試合の終盤になるとマウンドへ。それが8時半近くなので「8時半の男」との異名が。高度経済成長に陰りが見え始めたのを契機に高騰する契約金を抑える為、ドラフト制度を取り入れたのもこの年だった。

やや景気が持ち直してきた昭和41年は投手の快記録が続出した年だった。開幕13連勝という快挙を達成したのは甲府の小天狗・堀内投手(巨人)。5月には佐々木吉郎投手(大洋)が広島戦で史上8人目の完全試合、同じ5月に田中勉投手(西鉄)が南海戦でまたも完全試合を達成。更に翌6月には清俊彦投手(西鉄)が近鉄戦でノーヒットノーラン、その5日後に小山正明投手(大毎)が西鉄戦で通算58試合無四球試合をマークした。

どうにか景気が回復した昭和42年は監督受難の年となった。5月18日に西沢監督(中日)、23日には飯田監督(サンケイ)が相次いで休養に(西沢監督は30日に復帰した)。6月2日に三原監督(大洋)も休養へ。万年最下位の大洋を初優勝へ導いた三原マジックもネタ切れとなりジ・エンド。6月19日には戸倉監督(大毎)が休養に追い込まれてシーズン中にもかかわらず多くの監督のクビが切られた。一連の監督更迭の引き金となったのが前年オフに勃発した西本監督(阪急)の「信任投票事件」だった。

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