Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 738 大沢親分

2022年05月04日 | 1977 年 



「左翼ゴロ」…三遊間のド真ん中を抜く快打を放った打者が一塁でアウトになる。別にその打者が走らなかったのでも転んだのでもない。こんな馬鹿な話があるだろうか。ごくたまに「右翼ゴロ」ならある。しかし「左翼ゴロ」とはもはや世界記録といってよいだろう。そのとてつもないことをしでかした男こそ、現日ハム監督の大沢啓二である。

酒盛りの名残は生温かい一升瓶
「チームプレーなんて必要ない。秀でた個人プレーの集積が一番のチームプレーなんだ」現代でこのような発言をする監督はまずいない。日本ハムの監督である大沢啓二もチームプレーこそ勝つ為の必須条件だと今は言っている。そう、 " 今は " である。だが大沢の過去を追跡すると相手に勝つ為にチームプレーが本当に一番大切なものなのか、もっと大事なのは個人の天才的な勘ではないのかと考えてしまう。日本の野球史上、最も天才的な勘の持ち主は大沢だと思っている。世間では長嶋茂雄こそ天才だという声もあろうが個人的には大沢だと確信している。何しろ大沢は本場のアメリカ大リーグにも存在しない世界記録を持っているのだから。

昭和29年10月3日、神宮球場での東京六大学リーグ・東大対立大戦に大沢は出場していた。当時の立大野球部はサムライ揃いだった。余談になるがそのサムライぶりを紹介しよう。あの長嶋茂雄が1年生だった立教大学野球部合宿所は当然禁酒だ。だが上級生は隠れて酒盛りをしていた。一升瓶を片手に飲み会が始まる。深夜まで酒盛りが続けば生理現象として小便がしたくなる。だがいちいち便所に行くのも面倒になり、空になった一升瓶に用を足すようになる。一升瓶がいっぱいになると4年生が「おい長嶋、これを捨ててこい」、「ハイ、わかりました」と1年生の長嶋は生温かい一升瓶を抱えて便所に向かう。そんなサムライだらけの集団では個人プレーの集積がチームプレーだった。


三遊間を抜けたらそこに左翼手が…
話を試合に戻そう。立大が4対0とリードした4回表、東大の攻撃で先頭の五番・脇村春夫選手は立大・杉浦忠投手から死球を受け出塁、続く六番・坂上浩選手は三振、七番・南原晃選手は中飛に倒れた。そして原田靖男選手が左打席に入った。原田は投手で打率は低くバットを短く握っていた。これを見た立大左翼手の大沢は「チョコンと軽打する気だな」と勘を働かせて前進守備を敷いた。それも遊撃手の僅か15m程後方という極端な前進守備だった。大沢は「今日の杉浦はカーブよりシュートが決まっている。原田にもシュートで攻めるに違いない。原田の打力を考えれば前に守っても頭を越される心配はないだろう」と考えた。理屈を言えばキリがないが大沢の直感だった。

原田はボールカウント2-2から杉浦が投じた5球目のシュートを打った。打球は山田一夫三塁手と伊藤秀司遊撃手の間をライナーで抜いた。ワンバウンドして跳ね上がった所に大沢が待ち構えていた。捕球した大沢はすぐさま一塁に送球し、原田は一塁ベース2m手前でアウトになった。封殺狙いで二塁に送球していたら恐らくアウトにはできなかったであろう。大沢は迷わず一塁に送球した。何故か。大沢はこう言っている。「内野ゴロの場合、打者走者は一直線で一塁ベースを駆け抜ける。だが打球が外野まで達すると二塁を窺う為に一塁ベース手前で右に膨らむように走る。つまり一塁ベースに到達するまで余分に時間がかかり、その分アウトにできる可能性が高まる」と。

公式記録員がつけた記録は「左翼ゴロ」であった。大リーグ100年の歴史を見ても、大正14年秋以来の半世紀以上に渡る東京六大学野球の球跡を調査しても、そして42年間の日本プロ野球史を紐解いても「左翼ゴロ」という記録は唯一、大沢啓二しかいないのである。原田が打席に入った時に一塁でアウトにできると発想することが大沢の凄味である。自分の所に打球が飛んでくると想定して待ち構えるのは野球選手なら当たり前のことだ。だが飛んできたゴロを捕球して一塁でアウトにしようと考える選手は皆無だろう。この大沢を除いて。何という勘の鋭さ、何という細やかな計算、この2つが重なり合って世界記録は生まれたのだ。


遊撃手のすぐ後方、個性的な守備あり
今のプロ野球選手は個人的なアクの強さがない。チームプレーは大切だ。だがチームプレーに徹するあまり、個性が無くなってしまった。私は考えるのだ、もし大沢が今のプロ野球でプレーしていたとしたらどんなに楽しいかと。若い読者は若き日の大沢のプレーを知らないので教えてあげよう。昭和34年10月27日、後楽園球場での巨人対南海の日本シリーズ第3戦。2対2の同点で9回裏一死二三塁、巨人が一打サヨナラの場面だった。九番・藤田投手の代打に森選手が起用されボールカウント2-2から杉浦投手が投じた5球目を打った。バットの芯で捉えた打球は遊撃手の広瀬選手が差し出したグローブの僅か1m上をライナーで越えて行った。

サヨナラだ。巨人ベンチも球場内の巨人ファンも勝利を確信した。だが次の瞬間、一同は驚愕の光景を目にする。何と打球が落ちる筈である場所に大沢がいたのである。そう、あの神宮球場の東大戦と同じく大沢は極端な前進守備を敷いていたのである。広瀬の後方10数mの地上30cmの所で拝み取り。虚を突かれた三塁走者の広岡選手は一瞬遅れてタッチアップして本塁に向かったが憤死しサヨナラ勝ちとはならなかった。この時、広岡はスライディングせずに本塁突入をしてアウトになったが、この無抵抗とも言えるプレーも物議を醸すことになった。試合は延長戦に突入し10回表に寺田選手が勝ち越し打を放ち南海が勝利し日本一に王手を掛けた。

この日の大沢は中堅手だった。普段の定位置から捕球した場所までの距離は約30~40m。定位置近辺への平凡な飛球でも追いつくことはできずサヨナラ負けになる。余程の自信がなければ出来ない芸当だ。今のプロ野球界には福本豊(阪急)、高田繁(巨人)、広瀬叔功(南海)など守備の名人級がいるが、大沢のような異色な選手は見当たらない。大沢はまさに個性的な守備と言える。だから私は大沢の存在を今更ながら稀有で素晴らしいと思えるのだ。今も昔もプロ野球の世界で名外野手と呼ばれる選手は多い。だがこの先二度と現れない感性の持ち主だったと言えるのがこの大沢でないだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« # 737 優良助っ人 | トップ | # 739 悲願の初優勝へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

1977 年 」カテゴリの最新記事