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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 587 男たちの収支決算 ➋

2019年06月12日 | 1985 年 



3年間の大赤字を一気に解消した " サンデー兆治 " 株は今や特定銘柄
奇跡の復活を果たした村田投手(ロッテ)にとって1985年のシーズンは生涯忘れられない年となったに違いない。「実はオールスターまでに1勝も出来なかったらユニフォームを脱ぐつもりだった。今ごろ職探しをしてたかもね(村田)」と今となってはジョーク交じりの笑い話に。村田投手から " 村田氏 " になっていたかもしれないピンチから脱したのは4月14日の対西武戦だった。今季初先発した村田は西武打線相手に155球を投げ抜き2失点ながら完投勝利で復活した。主治医のジョーブ博士から「君の右肘はまだベイビーだ。もしもあと1球でパーフェクトゲームを達成できる場面でも球数が100球を超えたらマウンドを降りなさい」と忠告を受けていた。それを無視しての復活勝利だった。

しかしその代償は直ぐに現れた。試合後から3日間は右肘の張りが取れず球を投げられなかった。幸いなことに大事には至らず、中6日の間隔があれば投げられる目途が立った。また復活勝利はこれまで頑固一徹だった村田の考え方も変えた。「以前なら点を取られると頭に血がカァッと昇ってムキになって墓穴を掘ることが多かったけど今は冷静に最少失点に抑えようと思うようになった。少しは大人になったのかな。気づくのが少々遅かった気もするけどね(笑)」と。この1勝で村田は速球派短気型から軟投派我慢型へ方向転換した。35歳という年齢から考えても力投一辺倒では通用しなくなりつつあり、今回の方向転換はまさに怪我の功名であった。

その後の村田は毎週日曜日にマウンドへ上がり7連勝をマークした。どんなに頑張っても中6日の間隔が必須で日曜日ごとに勝ち星を重ねる村田はいつからか " サンデー兆治 " と呼ばれるようになる。稲尾監督が命名したサンデー兆治を村田自身も「良い呼び名だよね、気に入ってるよ」と満足げ。ところがこの呼び名が定着し始めると村田は「いつまでも週1回の登板じゃ情けない。早く中4日くらいで投げられるようにならないと本当の完全復活にはならない」と複雑な表情も見せる。なにせチビっ子のファンからも「頑張れサンデー兆治」と応援コールが起きるなど、売れっ子芸能人並みのモテようだ。結局、6月12日(水)の南海戦からサンデー兆治とはサヨナラしたが連勝は自己最高の『11』まで伸ばした。

連勝は7月14日の西武戦で5回途中6失点で降板し途切れた。しかしその後もコンスタントに勝ち続けて今季は17勝5敗で見事にカムバック賞に輝いた。これで父親の威厳も回復した。昭和57年5月17日の近鉄戦で右肘痛を発症し、以降はマウンドから遠ざかり息子にとっては毎日家にいるパパはプロ野球のスター選手ではなかったが周りの声で自分の父親の凄さを改めて認識したようだ。ただ村田にとっての心残りは二度目のファン投票で選ばれたオールスター戦で思い描いていたような活躍を見せられなかった事。とはいえ今季の村田の収支決算はプラスばかり。「今年はプラスだらけだって?この3年間はマイナスばかりだったからトータルすればトントンじゃないの(村田)」と控え目。念願の200勝まであと27勝。村田の視線は既に来季に向けられている。



前半、酷使に耐えたのは何の為だったのか…公傷か否かで球団と対立
12月6日の契約更改の席を蹴って報道陣の前に姿を現した遠藤投手(大洋)は「僕の怪我は公傷とは明確に認められませんでした。必死にプレーした結果がこれですよ。これじゃあ野球選手は怪我を恐れるあまり思い切ったプレーでファンにアピールすることも出来なくなる」と主張した。このコメントには怪我をした経緯を説明する必要がある。8月11日の広島戦の7回裏、走者を一・二塁に置いて長嶋選手の打球は一・二塁間へ。一塁手の田代選手が飛び出して捕球しベースカバーに入った遠藤にトス。何の変哲もないプレーだったが一塁ベースカバーに入った遠藤が右足大腿屈筋挫傷で全治10日の怪我をしてしまった。

それでも遠藤は8月23日の中日戦に再度先発するが僅か10球を投げて同じ箇所を痛めて降板した。話は契約更改の日に戻る。「球団が公傷と認めない理由は怪我は僕の体調管理に問題があるからと言うんです。野球選手として当たり前のプレーをして怪我をするのは選手に問題があると」と遠藤は口を尖らせる。球団の提示額は現状維持。今季の遠藤は前半戦は7連勝や6試合連続完投などチームに貢献したが後半戦は怪我の影響もあって尻つぼみで1年をトータルすると現状維持が精一杯で年俸アップは厳しいと判断した。しかし遠藤は納得しない。遠藤の言い分は8月11日の怪我はその試合だけのプレーが原因ではなく、その試合までに蓄積された疲労が原因であると主張する。

7月9日の広島戦に遠藤は中3日で先発し延長10回・134球も投げたが味方の拙攻で惜しくもドロー。次の登板は中4日で中日戦(仙台)。真夏を思わせる東北遠征は炎天下のデーゲームだったが138球を投げて11勝目をあげた。「バテました・・疲れました(遠藤)」マウンドを降りた遠藤に勝者の面影は微塵も見られなかった。更に中3日で巨人戦に先発。遠征帰りでまだ疲労が残る身体にムチ打って投げたが5回・6失点で降板した。これで自身の連勝も「7」でストップしてしまった。オールスター戦を前にした前半戦の終盤に何故こんな登板過多とも思える酷使を強いられたのか?そこには近藤監督のオールスター戦までに借金をゼロにしておきたいという思惑があった。

投手陣に最大の弱点がある大洋にとって最後の切り札が遠藤。傍から見たら無謀としか思えないローテーションは結果を残したい新監督としての思惑と、遠藤自身の何としても史上初となる3年連続最多勝を獲りたいという思惑が合致した所産だ。その結果、大洋は28勝29敗5分けとほぼ勝率5割でペナントレースを折り返すことが出来た。しかしその代償は大きかった。8月11日の怪我にはこうした伏線があったのだ。10月14日のヤクルト戦で遠藤は14勝目をあげて小松投手(中日)と北別府投手(広島)と肩を並べハーラーダービーのトップに立った。しかしこのヤクルト戦の前も中3日で中日戦に先発して延長13回・今季最多の169球を投げており遠藤の右肘は限界を越えていた。

たて続けての中3日登板、8月11日の右足大腿屈筋挫傷の遠因とも言える7月9日の広島戦も中3日で延長戦ドロー。味方の援護もなく孤軍奮闘で投げ抜いた後の疲労感は心身ともに想像を絶するものだったに違いない。14勝目をあげた後も遠藤は「チャンスがあればこれからもドンドン投げる」と意欲を見せ、近藤監督も最多勝獲得へ協力を惜しまないと援護を表明したが、とうとう遠藤の右肘はパンクした。前半戦は新監督の星勘定。後半戦は遠藤自身の最多勝への執念が異常とも言える登板過多を生んだ。公傷の解釈を巡って遠藤と球団側の溝は大きく今年中の契約更改は難しく越年は必至である。両者の対立は収まりそうもないが、ただ一つ遠藤の奮闘がなかったら大洋の4位は有り得なかった事だけは確かである。



悪夢の8連敗が爽やか男を信念の男に変えた。収支は大黒字!
日ハム・高田新監督にとってこんなに長く辛い1年はなかったに違いない。前年最下位球団を引き受けたとはいえ、想像を超えた苦しみだったろう。開幕のロッテ戦こそ勝利したものの、2戦目からドン底の8連敗。現役時代から午後10時には寝てしまう男が深夜2時、3時まで寝つけなかった。この11日間が高田監督が抱く監督像なるものを決定づけたのではないだろうか。4月28日のロッテ戦では打撃不振の柏原選手を四番から外して一番に置いた。「気分転換もあるが一番の方が積極的になるだろう(高田)」と判断したからだ。しかしこの試合でも4打数無安打に終わったことで遂に翌29日から柏原をスタメンから外す決断を下した。

チームの主砲をベンチに下げるのは生易しいことではない。柏原の打撃不振は数年前からだが植村前監督も大沢元監督も決断できなかった。後に「高田監督は1年生ながら大したもんだ。今までの監督には出来なかった決断で勇気がいっただろう」と小島球団代表を唸らせたのがこの柏原の処遇だった。高田監督の厳しい決断には続きがある。スタメンこそ外れた柏原だったが途中出場して717試合連続出場の記録は続いたが遂に5月10日の西武戦で途切れた。足掛け7年かけて広島の衣笠選手に次ぐ現役選手最多記録だったが「1点差ゲームで使うチャンスが無かったから仕方ない(高田)」と個人記録よりチームの勝利を優先した。これを機に高田監督と柏原の亀裂は決定的となり「監督は何を考えているか分からない(柏原)」とトレード志願へと繋がっていく。

結局、柏原は阪神と金銭トレードが成立して移籍したが小島代表は「交換トレードは成立せず戦力ダウンにはなるが監督にはいい勉強となった筈」と高田監督を責めることはなかった。高田監督は今回の一連の動きについて「大前提として選手を好き嫌いで起用するわけない。監督も選手も誰だって試合に勝ちたい。勝つ為に力のある選手を使うのは当たり前。柏原も最初から外したわけではなく、起用し続けても結果を出せないから外しただけ(高田)」と信念で動いていた。良い例が古屋選手だ。古屋も足掛け6年で646試合連続出場を続けていたが8月14日の南海戦で右足かかとを痛め、以降の3試合はスタメンから外れて代打として途中出場していた。

そして8月18日の近鉄戦、3対4とリードされた9回裏一死の場面で柏原が四球で歩き打者は二村選手。もし柏原が倒れていたら古屋を代打に送る予定だった。二村が打席に入ると古屋がネクストバッターズサークルで素振りを繰り返していた。結果は二村がサヨナラ本塁打を放ちゲームセット。古屋の連続出場は途切れた。本塁打はともかくゲッツーを考えたら二村の場面で古屋を代打に出すべきだろうが高田監督はチームの勝利を優先した。監督として至極当然の采配だった。レギュラーを外された選手が反発するのは高田監督が人心掌握が出来ていないのでは、との声があるがそれは違う。無風状態だったレギュラー争いに選手が甘えていたに過ぎない。そこにメスを入れた高田監督はなかなかの人物だ。

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