H's monologue

動き始めた未来の地図は君の中にある

使命の道に怖れなく どれほどの闇が覆い尽くそうと
信じた道を歩こう

9月 1年後のご挨拶

2020-09-28 | 内科医のカレンダー


 山田源造(仮名)さんは,85歳の男性で地元の和菓子屋を営んでいる方である。息子さんが跡を継いで,すでに引退されて久しい。優しそうなお嫁さんに付き添われて車椅子で通院して来られるのが常だった。

 そもそも源造さんが通院するようになったきっかけは,数年前に原因不明の見当識障害,不明熱,消化管出血などで入院したことだった。その時はあらゆる検査をしても診断を確定できなかった。副腎不全,リウマチ性多発筋痛症(PMR)や側頭動脈炎が鑑別に上がっていたが,血液検査や浅側頭動脈生検などいずれもこれといった決めてに欠けて診断に苦慮した。結果的には試験的に(最後の苦し紛れ?で)少量ステロイドを試みたところ,劇的に状態が回復したため,一応「PMR」という名目でステロイドを漸減してこれまでに至っていた。

 源造さんは,がっしりした体格で丸顔の人懐っこい方だが,ときおり昔は相当頑固だったんだろうなと思わせる雰囲気を醸し出していた。ある日の予約外来でのことである。飛び込みの紹介患者が重なって,源造さんを診察室に呼び入れたのは予約時間を大幅に遅れてのことだった。部屋に入ってきた目つきを見た瞬間,相当腹を立てているのがわかった。しかも,それをぐっと抑えているのが見て取れた。診察室に入ってきて開口一番,

「先生,ちょっと言わせて貰ってもいいかな・・」

付き添っていたお嫁さんがあわてて「お義父さん,そんなこと言わなくても・・」という制止も聞かずに続けた。

「先生,俺はあんまり言いたかぁないけど,ひどくないか。こんなに長いこと待たされちゃあ,ほんと具合悪くなっちまう・・」

その時は,たまたま予定外の紹介患者さんが続いたこと,その方々がちょっと時間がかかるケースだったこと,でも遅くなったことは弁解の余地がない,本当に申し訳ないと何度も丁重にお詫びした。そうすると「なるほど分かった。もうこんなことは言わないよ。失礼な言い方ですまなかった」そう言うと,いつもの人懐っこい源造さんに戻ったのだった。その日を境に,どんなに予約の時間からずれ込んでも,不満の言葉を仰ることはなかった。

ステロイドも問題なく減量できて,ずっと安定して経過していたが,ある年の9月のこと。重症の肺炎に腎不全を併発して入院となった。さらに呼吸状態が悪化して気管挿管,呼吸管理となってしまった。幸いなことに,その後の肺炎の治療が奏功し,ウイーニングにも成功して5日目には抜管することができた。その日は,朝から意識は覚醒していたので抜管はできると判断して,午後の早い時間に抜管することにしたのだった。

「源造さん,わかりますか〜。これからこの管を抜きますからね,抜いたらすぐにゴホンと大きな咳をして下さいね〜」

耳元に大きな声で話しかけながら抜管した。抜管直後に,咽頭の唾液や喀痰の吸引をして「はい,咳して〜!声を出してみて下さい!」と呼びかけたところ,源造さんは,私に向かっていきなりこう言った。

「いやあ〜・・先生がいてくれて本当に助かったよ。本当によかったよかった・・」

予想もしない無防備なタイミングでその言葉を繰り返されて,思わず泣きそうになってしまった。これでまた元気になりましょうね〜,リハビリ頑張りましょうね・・・と返事をするのが精一杯だった。

 さて,やっと抜管に成功したその日の夜のことである。自宅に当直の先生から電話が入った。源造さんの意識が急に低下して右上下肢の麻痺が出現したとのこと。緊急で行ったCTでは脳神経外科の先生にも確認してもらい,early CT signを認め,おそらく左MCAあるいはIC閉塞の脳梗塞が疑わしいとのことだった。しかし当直医と脳神経外科医師の判断では多臓器不全合併の高齢者であり,かなり状況は厳しくそれ以上の治療は難しいとの判断から保存的にみることになった。翌日息子さんと面談して,あらためてかなり厳しい状況であることにつき詳しく説明した。ご家族の間で協議されて,今後さらに呼吸状態が悪化したときでも気管挿管はしない方針となった。

その後,一時全身状態は持ち直したものの,さらに肺炎を2回繰り返し徐々に状態が悪化していった。それから程なくして源造さんは逝ってしまった。亡くなったのは深夜帯で,当直の先生がお見送りをしてくれた。自分自身にとっては源造さんに直接お別れをすることができなかったのは心残りだった。

 

源造さんが亡くなって1年余が過ぎたころのことである。当院では患者向けの医療講演会を定期的に開いており,地元のタウン紙に宣伝の小さな記事が毎月掲載されることになっている。その月は私が担当することになり,宣伝記事が顔写真入りで掲載された。

それからしばらくしてからのこと,息子さんご夫妻が突然外来に訪ねてきてくれた。何でもそのタウン紙の記事を見て家族で私のことが話題になったそうである。そしてその直後の夜,息子さんがおっしゃるには夢に源造さんが出てきたという。曰く,

「先生のところに挨拶も行かずに,お前,オレに恥をかかせるなよ・・・」

と息子さんに話しかけたそうである。それで亡くなった夜に会えなかったし,ちょうど一周忌がすぎたことだし・・・と自慢の美味しいお菓子を持って,わざわざご夫妻で挨拶に来て下さったのであった。源造さんが亡くなった後に,奥様も脳出血になりリハビリで転院した病院で進行胃癌が発見され,そのまま緩和病棟に移って源造さんが亡くなった半年後に後を追うように亡くなったそうである。そんなことを話された後,今まで挨拶に来なかったことを丁寧に詫びられて,逆にこちらが恐縮することしきりだった。

息子さんが帰り際にこんなことを教えてくれた。2ヶ月ごとの外来日から帰宅すると,源造さんは口癖のようにいつも

「あの先生はいい先生だ。俺はいい先生にあたった。」とおっしゃっていたそうである。

 初回入院時に診断や治療に本当に苦しんだこと,その後肺炎を繰り返したときのこと,さらに脳梗塞を起こしたときのこと,いずれの治療も大変だった記憶があるが,むしろ外来でのちょっとしたやり取りのことが印象に残っている。がっしりした体格で車椅子に乗って,いつも人懐っこい丸顔で「先生よぅ・・」と話しかけてきた患者さんのことを,今でもたまに思い出す。本当に忘れ得ぬ患者さんのお一人である。そして患者さんが亡くなるという「残念な結果であったとしても」感謝の言葉をいただける医師というのは幸せな職業だなとつくづく思う。

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 このカテゴリーで示す症例記録は,私の実際の経験(過去のある時期)に基づいていますが患者さんの個人情報が分からないように,一部変更を加えています。また記載した治療などは当時の医療であり,最新の正しい医療であることは保証しません。あくまでも思考過程を振り返る目的であることをご理解の上お読み下さい。(一般の方を読者の対象とは考えておりません)今回は思考過程の振り返りでもありません。記録に残しておきたいという意味での覚え書きです。

 

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