H's monologue

動き始めた未来の地図は君の中にある

使命の道に怖れなく どれほどの闇が覆い尽くそうと
信じた道を歩こう

ヒヨドリ

2018-01-28 | 写真

メジロを見慣れていると,ヒヨドリは大きく見えて可愛げがないなぁといつも思っていた。
しかしじっくり見てみると胸元の羽根の模様なんかオシャレだし,格好いいなとちょっと見直したぞ。


K-1, smc PENTAX-DA* 300mm F4 [ISO400, F 5.6, 1/40, -0/3 EV]

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正常ということ その2

2018-01-27 | 身体診察

 健診での診察に関してもう一つ悩んだこと。70代(だったと思う)で過去に結構な喫煙歴のある男性。簡単に聴診すませれば「ハイ異常なし」と済ませるところなんだが,ひょっとしてそうかな~と思って,肺底部で深呼吸してもらって注意深く聴くと,吸気終末でほんの少しだけパラパラ・・とfine cracklesを聴取。やっぱりな~と思う。がしかし,いざ健診表の呼吸音の記入欄に(1.所見なし,2.所見あり)のどっちに○をつけるかで悩む。所見としては,ないわけではないがさりとて,これは異常!というほどではない。考えれば考える程わからなくなる。もちろん患者さんに確認しても,労作時も含めて息切れなどの自覚症状なし。念のため胸部X線も見てみたが所見なし。う~んと悩んだあげくに所見なしに○をつけた。”経営的には”所見ありにして,それこそCTまで検査してもらうといいのかも?しれないが,さすがにそれはアカンやろと思いますし。

どこまでが「正常」か,というのはやっぱり難しい。ま,どんな検査でもどこをカットオフにするかが問題になるので同じことですけど。


写真は ジョウビタキのメス(かなり前に撮ったもの)

K-7 smc PENTAX-DA* 50-135mm F2.8 [ISO200, F4, 1/2000, 0 EV]

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オレンジ食堂の常連さん

2018-01-23 | 写真

毎年この時期に,リビングの外にある紫陽花の枝に刺したミカンにやってくるお客さん。
珍しくつがいでやってきたときの写真。でも現金なもので,梅があちこちで咲くようになると,パッタリ寄りつかなくなります。それまでは,毎日「オレンジ食堂」開店中です。






おっと風で襟足が・・・(羽の一本一本が見える・・このレンズの描写はいつも惚れ惚れします)


K-1, smc PENTAX-DA* 300mm F4 [ISO400, -0/3 EV] 一部トリミング
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正常範囲ということ

2018-01-20 | 身体診察

久しぶりの当番で1時間ほど健康診断(の内科診察)のお手伝いをしたときのこと。
問診票を確認して簡単な内科診察をするのだが,真面目に全員に聴診することって普段の再診外来では,あまりないので意外にこれが楽しかった。聴診の前の診察でも例えば,お,この方はear lobe creaseがある,あれ若い男性なのに随分手が荒れてるな~,あ,調理師さんでしたか,なるほど〜・・とか,薬指の爪だけ妙に欠けてますね~,噛む癖があるんですかね?・・実は子供のころからです・・・あ,やっぱり・・とか,この男性も若いのに手が赤くて荒れてるな~,え?あなたも調理師さん・・などなど,結構新鮮な驚きがあった。加えて10人ほどだったけど,気合い入れて心音を続けて聴くことになって面白い。(ま,たまにやるからでしょ・・これが何十人になったら大変だんだからなんて叱られそうだけど)むかしある先生(徳田先生だったかな・・)に,サパイラが教育回診をしたときに,レジデント達に「君らが全く異常所見なしと思う患者のところに連れて行け。所見を指摘してやるから」と言ったとか。たしかに健診の患者さんをざっと診察しただけでも,何かしらの所見はあるもんだ,と今なら言える気がする。ただしそれを異常ととるかどうかは別問題だが。
 健診で診察する方々は,普段内科外来で診察している患者さんと比較すると,断然年齢層が若い。一部では有名なのだが(笑),私は自称「右脚ブロックマニア」で,2音の分裂がどれくらい聴こえるかがすご~く気になるタチなんですね。若い人では2音の呼吸性分裂はよく聴こえても,高齢者になると分裂が聞こえなくなる。その日は心電図であらかじめ完全右脚ブロックとわかっている方が2名おられた。気合いいれて聴診したが,お二方とも2音の呼吸性分裂は認識できなかった。一方で,若い方ではちゃんと生理的な呼吸性分裂が聴こえた。ま,当たり前といえば当たり前なんだが,ここでふと疑問。高齢になるに従って2音の分裂は聴こえにくくなるが,いったい聴こえにくくなるのは何歳くらいからなんだろう?沢山聴診で聴いていれば何となくわかるかもしれない。興味を持ってやると面白いかな・・・なんて考えました。
 聴診でもう一つ,1音も難しいな~とつくづく思う。今日も,お一人の完全右脚ブロックの方が,2音の分裂は聴こえなかったが,1音がちょっと幅広く聴こえる。よ〜く聴いてみると分裂しているように聴こえた。座位でしかもしっかり膜型を押し付けても聴こえるので4音ではない。完全右脚ブロックのためでいいんだろうか,あるいは大動脈駆出音? たぶんいずれにしても異常とまでとらなくていいんだろうなぁ・・と思うが悩ましい。おそらく少し心音が聴けるようになったからこそ感じることで,以前ならいずれも簡単に「異常なし」としていただろうと思う。
聴診は本当に奥が深い。
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On Bedside Teaching  ベッドサイド教育について(全訳)

2018-01-12 | 臨床研修

On Bedside Teaching ベッドサイド教育について
Michael A. LaCombe


 アテンディング・ラウンドで病歴聴取と身体診察に重点をおいたベッドサイド教育が実際に行われていたのは,1960年代には75%であったが,現在では16%に満たなくなってしまった。この減少の一因は,テクノロジーや画像検査,検体検査が大幅に進歩したことや,患者ケアにおいて私達がこれらに大きく依存してしまったことにある。しかし教育者側もベッドサイド教育が行われなくなった責任を負うべきである。このような風潮を元に戻すためには,ベッドサイド教育の妨げになっていて解決すべき,実在するあるいは目に見えない障壁を認識する必要がある。そして,かつて私達のメンターがそうしてくれたように,私達が効果的なベッドサイド教育者になるには,自分自身の身体診察のスキルを磨く必要があるだろう。私達は,学生やレジデント達(訳注1)に対して優しく接する方法,よりうまく患者とコミュニケーションを取る方法,目の前にいる患者に関連して倫理やプロフェッショナリズムを教える手法を学ぶ必要がある。
(Ann Intern Med 1997;126:217-220)
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 しばらく前に,アメリカ北東部にある大きな大学のメディカル・センターに招かれた時のことである。私はその大学の教員に,そこでの臨床医学教育はベッドサイドで行われているのかと聞いた。明らかに不愉快そうな様子がみてとれた。そこでは”すべての”教育がベッドサイドで行われている,とのことだった。英国式の伝統に基づいて教えている。他にどんなやり方があるというのだ?といわんばかりに彼らは一斉にうなづいた。云々。
 翌朝,私はチーフレジデントに導かれて迷路のような建物と廊下を通って,学生やレジデント達で埋まったカンファレンスルームに案内された。チーフレジデントは丁寧な口調で,その朝「症例」を提示する予定の,緊張した様子の若い医学生を紹介した。彼女はすぐに患者の病歴を読み上げはじめた。
「ベッドサイドに行きませんか?」私は言った。
「もちろん」チーフレジデントは答えて,私達みんなを廊下に連れ出した。そこで私達は立ち止まり,朝食や薬を載せたカートをよけながら,学生はもう一度プレゼンを始めた。私は再度それをさえぎった。
「私が言いたいのは・・・本当のベッドサイドなんだが・・」
「あ,了解しました。」チーフレジデントは答えて,ただちに長い廊下を歩いて患者の病室へと私達を導いた。病室のドアの前に立ち止まり,彼らは”ドアノブ・プレゼンテーション”を始めそうになったが,それをさえぎって私はそのまま部屋の中に入った。そして患者と家族に自己紹介をすると,学生達に向かって一緒においでと手招きをした。
 それは,彼らにとって全く異質な経験であったらしい。たとえ心の中を読めなかったとしても,彼らの表情から間違いなく不安を読み取ることができた。
「部屋から出るように家族に言わないのだろうか?」
「患者の社会歴を,私たちは患者の前で話しあっていいのだろうか?」
「彼はみんなの前で,自分に恥をかかせるんじゃないだろうか?」
 私達はぐるりとベッドを取り囲んだ。たしか全部で17名いたように思う。プレゼン担当の学生は,ベッドをはさんで私のちょうど反対側に立っていた。私は,彼女に続けるようにというしぐさをした。慌てふためいて,彼女はインデックスカードの束を引っ張りだして,それを読み上げはじめた。私はベッドの反対側にまわって,そっと彼女からカードを取り上げてこう言った。
「こんなものはいりませんよ。覚えているだけでいいから話してごらん。」
彼女の目を見つめて,微笑んで,そして頷いた。彼女がすこしリラックスしたのが分かった。彼女は始めた。
 90分後,私達は教育回診を終えた。そこではテリー爪があり,クモ状血管腫,眼球結膜の黄疸があった。学生達は,すぐにそれを見つけ出して指摘できた。時計のリズムに合わせられるような低い音の心室性ギャロップは少し難しかった。しかし誰も格好をつけたりしなかった。一人ひとりがその音を正しく認識できるまで聴いた。その頃には,みんな楽しんでおり,おどおどしていなかった。手掌皮溝の色素沈着をじっくりと観察した。それは道路地図の上を横切って,道筋を示す主要高速道路のように目立っていた。誰かがアステリキシスがないか,すすんで確かめてくれた。別の誰かは肝性口臭がないか,3人目が少しばかり生化学について話してくれた。4人目は,自信たっぷりにヘモクロマトーシスの遺伝についておさらいをしてくれた。
 終わるころには,ティッシュの箱の裏側や,何人かの手のひらの上や,実は打ち明けると,ベッドのシーツの上にまで略図や生化学の代謝経路などが書かれた。患者はニコニコ笑い,家族は感謝の気持ちを表してくれた。学生達はその場を立ち去ろうとしなかった。
 廊下に出て,次の”症例”に向かおうとしたとき,私の方を向いてチーフレジデントが恥ずかしそうに訊ねた。
「先生,これが昔のやり方なのでしょうか?」
そう,そのとおり。そうだった。
そのむかし30年前は,教育の75%はベッドサイドで行われていた(1)。これがかつて私達がやっていたような,まさにそのやり方だった。1978年までには,それが16%にまで減ってしまった(2)。おそらく現在ではもっと少ないだろう。
 たった今,現時点では,たとえ国内全体が本当にそうだったとしても”われわれの”施設ではベッドサイド教育が基本だと,誰もが急いで付け加えるだろう。しかし実際に目を向けてレジデント達に確かめてみれば,もちろん彼らに非はないのだが,大部分の”ベッドサイド”教育は,単なる”廊下で行われる”教育であったり,”ドアノブ”教育だったり,さらに単にカンファレンスルームで行われる患者を中心にした教育でしかないことが分かるだろう。
 なぜそうなのか?
 そう,私達はレジデント達を責めることもできるかもしれない。それは簡単だ。そして,いくつかの点では彼らにも責任がある。最近,彼らはテクノロジーに夢中になっており,画像や検査所見を見たがり,黒板にきっちりかかれた長い鑑別診断のリストを教えてもらいたがる。ドーナツとコーヒーを手にカンファレンスルームのテーブルの周りにゆったりと座って,早朝の意識が薄れつつあるのを隠すことに慣れている。
 しかし,責任のほとんどは私達の方にある。教員にとっては,レクチャー形式の教育の方が,自分達が一番よく知っていることであり,多くの場合は自分達が知っているすべてである。加えて,カンファレンスルームという安全圏にいれば,私達は落ち着いていられる。
 そこでは焦点をずらすことができるかもしれないし,ディスカッションを誘導することもできる。話題を自分の専門知識の領域に向かわせることもできる。そこには,私達に「私は知りません」という恥ずかしい答えを強いる質問をする患者や家族はいない。
 同じように,無知に対する教授の恐れ,自分自身の専門分野外の医学的問題に対する恐れ,前日の夜にあらかじめ読んでおくことができないまれな疾患概念について,長く話しつづけることが難しいことに対する恐れもある。そして教員の身体診察に関する力不足もある。
 私達は,ベッドサイド教育に対して目に見えない障壁を作っている。すなわち,本人やその家族の前で患者の社会歴を話すことがプライバシーの侵害になるとか,患者の家族がその場にいあわせること自体がベッドサイド教育の妨げになると考えていることである。しかし,デリケートな問題を慎重に取り扱うなら,社会歴を私達に話してくれる患者が,どうして恥ずかしがるというのだろう。そして最近の家族達は,医師はもはや患者に関心を持ってなどいないだろうと思っているので,彼らが愛する患者が教育のために話題の中心になることに対して,反対する家族がいるだろうか?教育回診のときに,患者が検査や画像検査を受ける必要があって不在だという言い逃れがある。それを克服するのは簡単なことだ。患者が病棟を離れる検査が,あなたの教育回診とぶつからないように,あらかじめレジデントに確認させておけばよい。回診の時に確実に患者がその場にいるように,行われる看護処置をリストアップしておくこと。特にナースを回診に参加するように招くのも賢いやり方である。最後に,予定した時間にあなた方が訪問するということを患者に知らせておくこと。患者がこの種の注目をあびることを大いに喜ぶ人であれば,回診のときには,必ずその場にいてくれるだろう。
 ベッドサイドで教育を行う明らかな利点は,病歴聴取や身体診察のスキルを身につけられることである。臨床倫理はベッドサイドでこそちゃんと教えることができる。しかしそれ以外にも,あまり目立たないが努力に値する見返りがある。ベッドサイドでは,医学的な俗語(medical jagon)を使わせないようすべきだ。今の時代は,レジデントは患者のことを俗語で,まるでそんなフレーズがかっこいいかのように ”汚いボール,列車事故,昨夜のヒット,gomers(訳注2)”などとしばしば言う。軽蔑的な表現はやめさせること。レジデントは,患者に接する時には座ったままでいないように学ぶべきである。それは行儀が悪いことであり,何よりも大切なことは,患者のベッドに少なくとも許可なしに,決して座るべきではないと学ぶ。患者のことをファーストネームで呼んではならない。まず患者に対して敬意を払うことを始めに学ぶ。ベッドサイドでは,レジデント達は,疾患をある人間に起きている病(やまい)としてみるところから始める。言い換えれば,プロフェッショナルであることを学ぶ。そして,コミュニケーションを学ぶ。
 おそらく最も大切なことは,ベッドサイド教育が過去との素晴らしいつながりを育むことである。レジデントは子供が自分の両親を観察するように,あなたのことを注意深くみている。あなたが患者にどのように接しているのか,あなたがどう観察するのか,彼らはじっと見ている。そしてあなたの診断能力,他の人に対してどのように敬意を払っているのかを理解する。すなわち,あなたの患者に向かう姿勢,患者への手当てを感じとるのだ。学生達はあなた自身の尊厳,あなたの医学に対して抱き,彼らを教えることに対する愛情について目の当たりにしている。彼らはあなたとつながり,心が触れ合い,そしてメンタリングが始まる。
 こうして行おうとする教育は,楽しさに満ちたものになる。少し前のことだが,レジデントが”原因不明のリウマチ性心疾患”の症例を私にプレゼンしたことがあった。私がどう診断するのかを見せながら,同時に彼らを楽しませようと考えて,私はあえて視診と触診だけで診察してみせようと言った。(そんな自信があったのは,その若い女性には明らかな蝶形紅斑があって手と指は冷たく,病衣の上からでもかなりはっきりと右室拍動が見えていたからからである。)右室拍動と肺動脈閉鎖音を学生達に触らせたあと,患者の胸骨左縁第2肋間を指差して自分の聴診器をそこにおき,もしここで聴診すれば大きく明瞭にS-2-P(2音の肺動脈成分)が聴こえるはずで,もしかするとGraham Steell雑音も聴こえるかもしれないと説明した。しかし実際には聴診せずに,聴診器をポケットにしまって,さらに触診を続けた。心尖部に拡張期スリルが触れるのが分かった(あるのを確認してかなりほっとしたが)ので,それがちょうど猫がゴロゴロいうような感じだと説明し,全員に心尖部を手で触らせて,一人ひとりその所見を確認させた。
 「ちょうどこの真下で,大きな僧帽弁拡張期ランブルが聴こえるはずだ」と私は言うと,もう一度聴診器を当ててみせた。しかし,またもや聴診はしなかった。触診では僧帽弁開放音(OS) を感じることはできなかったものの,それが聴こえるかもしれない部位を指し示した。こうして3度目も聴診せずに学生たちを煙に巻いたのである。この時点で,私の横にいた若い女子学生は我慢できなくなった。自分の聴診器をつかむや,患者の心尖部に聴診器を押し当てて,私の方を申し訳なさそうに見上げた。
「もう待ってられなくなったんです」彼女はそう説明した。
 ベッドサイドでの教育に患者はどんな反応を示すかって?彼らは喜んでくれる。彼らは注目されることが好きだし,ベッドサイドでの気の利いた会話を楽しみ,ついには医師達が自分に興味を示してくれて,自分と意思疎通ができるのだと分かってくれる。そして,あわてて医師がその場を立ち去ろうとしないので,医師に質問をすることができる。こうして,ベッドサイドで患者はあなた方の施設にとって2番めに主要な目的が,すなわち学生の教育であることを知るのである。ベッドサイド教育に関わることによって彼ら患者は,もはや学生の実験のため籠の中に入れられた動物ではなく当事者となる。患者の恐れは取り除かれ,不安は和らぐ。患者は自分自身の病いについて深く学び,精神神経免疫学でいうところの,癒やしが始まるのだ。
 ベッドサイド教育は,他のいかなる教育と同様,一見すると平易そうに見える。これは言い換えれば,実は思いのほか難しく,おそらくあらゆる教育の中で最も難しい。よくありがちなのはベッドサイドでの教育と呼べる代物ではなく,恐怖と不安に満ちて身をよじらせて唇を噛むような状況である。そこでは学生たちはポケベルを切って,厳しく責め立てられる拷問から逃げ出したいと願っている。そうなると,あなたが学生たちにどんなに学ばせたいと望んでも,学生は何も学ばないだろう。
 このようなベッドサイド教育を成し遂げるためには,私達にはやるべき準備があり,従うべきルールがある。ベッドサイドの教育者は,優れた病歴聴取の能力を持っていなければならず,典型的な身体診察で診断できる医師 (diagnostician)でなければならない。これらのスキルを,あなたはあらためて,さもなくば初めて学びなおすべきである。そしてそれを実践しなければならない。まずはSchneidermanの身体診察と医療面接に関する素晴らしい注釈付き参考文献から始めよ(4)。身体診断の教育に関する最近の論文を見直すこと。患者にフォーカスを当てずに講義中心の教育をしてもうまくいかないことに特に注意せよ(5, 6)。レジデントに毎週”身体診断ラウンド”を毎週行わせて,一緒に参加しなさい。身体診断は役に立ち正確だと,あなた自身が納得すること(7-12)。その分野でもっともよい教科書を参考にしなさい(13-20)。興味をひく心雑音がある患者を見つけるのによい方法として,エコー検査を上手に使いなさい。最後に,あなた自身の地平線を広げなさい。すなわち,”ベッドサイド”は単に病院の入院患者のみに当てはまるのではない。外来や老健施設はベッドサイド教育を行うのに,非常によい場所である (21, 22).。
 ベッドサイドの教育者は基礎医学に関して,網羅的ではなくてもよいが,しっかりした基礎が必要である。最近では,とりわけ分子生物学についてである。少し勉強しておくこと。少なくともどんな質問をすべきかが分かる程度には学ぶこと。残りはレジデント達があなたに教えてくれるだろう。彼らに教わることを恥ずかしがるな。結局のところ学習は双方向性であることがわかるだろう。
 そして,もしどこかの研修プログラムに招かれるときには,ベッドサイドでの教育をプランしなさい。どの施設であれヘモクロマトーシスや感染性心内膜炎,Wegener肉芽腫症などがその施設のどこかに1例はいる。診ることを予想して自信を持てるように。常に準備しておくこと。
 新しいレジデントのチームに対しても準備をしておきなさい。最初の患者を彼らとベッドサイドに診にゆく前には,いくつかの基本的なルールを設定しておきなさい。レジデント達に次のようなことを周知させること。ベッドサイドで行われるどんな鑑別診断,診断検査、病態生理学に関して議論をするときにも,あらかじめ,目の前の患者に理解させておくべきことがある。それは,これから行われる議論は教育のためだけであって,必ずしもその患者の状況に関連しているとは限らないこと,そして患者はいつでも話を遮って質問できるということである。患者に不安を与える可能性がある議論やデリケートな問題については,後で話し合うことができる。
 自分のレジデントチームと患者の部屋に入る時には,必ず自己紹介をして,そのあとざっとあなたのチームについて紹介しなさい。そしてこの回診が,教育のためであり診断や治療目的ではないことを強調しておくこと。臨床的な問題や診断名を話題にするかもしれないが,それはその患者とは何の関係もないことを繰り返し説明しておく。これらすべての説明にもかかわらず,何か心配なことや疑わしいことがあれば,私達に対して気軽に話してほしいと患者にうながして,質問にはその場で答えるべきである。
 もし患者の家族が部屋にいたら,まず最初に患者に,家族がその場にいて欲しいか,次いで家族本人にそのままいたいかどうかを訊ねなさい。教育回診において家族が席を外さなければならない理由などほとんどない。複雑な問題をレジデントから家族に説明させて,質問に答えさせなさい。これはコミュニケーション教育の一環である。とは言っても,患者は大部分の,あるいはすべての質問をあなたに向けるかもしれない。なぜならあなたは教授だから。しかし,あなたはその場に教育のためにいるのであって,その場を管理するためにいるのではない。すべての質問を学生に振りなさい。必要なら優しく後で訂正しなさい。
 レジデントが答えられない質問をするのは避けること。「私は今何を考えていると思う?」という質問はすべきでない。単にあなた自身の知識をひけらかすだけの質問は避けなさい。してしまったときにはすぐに誤ちを認めて謝罪して,その質問に対する答えを自分で言うこと。
 患者が話す病歴は変わりうるものだということ,つまり今日明らかになったことが,これまで記録されたことに必ずしも一致しないこと,そしてそんなことは普通にあることであり,そのせいで誰かが恥ずべきことでもないということを教えなさい。
 ベッドサイド教育の目的のひとつがコミュニケーションであることを彼らに気づかせること。言い換えると,患者に病歴をさらに詳しく話す機会を与え,またその病歴が正しいかを患者自身が確かめるために,レジデントや主治医に質問することを受け入れさせることである。
 次の大原則をレジデントに強調しておくこと。それは,患者も含めて,誰もがベッドサイド回診のあとで良い気分にならなければ,その回診はうまくいったと言えないことである。
 最も重要と思われることは,患者の担当医に恥ずかしい思いをさせるつもりはないと,学生達を安心させることである。自分は決して誰にも恥ずかしい思いはさせないと彼らに話しておきなさい。たいてい患者を担当しているのはプレゼンをする学生なので,どんな症例が提示されているにせよ,理論的な質問をすることはないと,はっきり明言しておきなさい。担当の学生(学生医師)の無知をさらすことほど,患者や学生を嫌な気分にさせることはないのである。その場があなたのお遊びではないことを伝えて学生に安心させなさい。そしてこれに関連するが,他の医師達の言い争いも許してはならない。
 シニア・メンバーがすでに答えられなかった質問を,決して若いメンバーにしてはならない。覚えておくこと。誰にも恥ずかしい思いをさせないように。あなたは,その回診を餌に飢えたサメたちの狂乱の場にはしたくないはずだ。学生たちはけしかけられればすぐにそれに反応できる。彼らは競争していて,一歩先んじたり,隣人を傷つけるような方法について,すでによく訓練されている。ベッドサイド教育を楽しく,学びの場にするためには,そうはさせないように。同様に,人を出し抜こうとする態度も抑えること。もしチーフレジデントが,蝶形紅斑の鑑別診断を挙げるのに手間取ったとしても,学生がその答えを口走ったりさせないこと。それもまた互いに学び合うことだと主張する人がいるかもしれない。しかし,これもまた”水中の血”でありサメはすぐに寄ってきて,あなたの教育回診を台無しにするかもしれない。それは望まないだろう。
 プロフェッショナリズムについて教えなさい。優しく。学生たちが自分自身に誇りを持てるように,お互いに尊重するように,そして患者に敬意を払うようにさせること。チューインガムを噛ませない。手にコーヒーカップを持って参加させない。壁にもたれかからない。ベッドサイド・テーブルの角に腰掛けない。病める人の前に前日のパジャマ姿を見せたりしないこと。プロフェッショナルであることを教えなさい。そしてあなたがその場にいるときに,互いに教え合うことを教えなさい。
 観察することを教えなさい。Oslerは教えた。Albright(訳注3)も教えた。MorganとEngel(訳注4)も教えた。だからあなたも教えるのだ。病歴のプレゼンが終わって身体診察を始める前に,誰かにあらかじめ3つの所見を列記させなさい。その学生が,皮疹や眼瞼下垂や手術痕を捜しているあいだ,他の学生たちの目をよくみること。突然,生き生きとして,観察の重要性に気づき,そして次は自分の番であることを思い知るだろう。全員を窓の方に向けさせて,ベッドのそばの床頭台にあるものを列挙させ,患者や患者さんの部屋の様子を描写させなさい。それらを「分析」させなさい。それは,そこにないものが何なのか,そこから何を知ることができるかを言わせることなのだ。
 いつ「私は知らない」というべきかを学びなさい。いつ口のきけない農夫のふりをすればよいか,いつソクラテスの虻(訳注5)の役を演ずべきかを知りなさい。そうすることによって,学生はただ単に講義を聴くだけでなく,自ら教え,学び,自分で発見できるようになるのだ。
 もしこれらのことをすべて行ったなら,ベッドサイド回診はぎすぎすした雰囲気ではなく楽しいものになる。そうすれば,カンファレンスルームにいる学生すべて,あなた達23人すべてをベッドサイドに連れていくことだって可能である。学生達から学ぶことが沢山あることに,あなたは気づくだろう。それは患者からも同様である。あなたは伝統に満たされ,過去からの遺産を自らに取り込むことになるだろう。そして朝,急いで仕事に出かけると,すぐにベッドサイドに駆けつけようとしている自分自身に気づくだろう。


参考文献
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<訳注>
1)レジデント=housestaffの訳について
housestaffとは,米国で1年目のインターンと2年目以降のレジデントを含めた研修中の医師を指す。専門研修(fellowship)に入る前の,内科であれば卒後3年目までを指すので日本の初期研修医とは厳密には異なる。「研修医」とすると,何となくニュアンスが違うような気がして「レジデント」とした。

2)gomer : Get out of my emergency roomの略。
[名](俗)(老齢や慢性病,医者の命令に従わないなどの理由で)治療するだけむだのような患者,やっかい者の患者
(プログレッシブ英和中辞典より)
 オリジナルの出典は,The House of God(Samuel Shem, 1978) という小説。この小説はRoy Baschというインターン(PGY1)が,Man's Best Hostpital(MBH)というユダヤ系の教育病院で研修を始めて,同僚のインターン達とともにFat Manというシニアレジデントから色んな教えを受け,経験を積んでゆく1年をシニカルなユーモアで描いたもの。Harverd Medical Schoolの卒業生である著者の体験に基づくとされている。医学を扱った小説の中では古典とも呼べるほど有名。ちなみに私は大学5年のときに『Postgraduate Medicine』という雑誌でこの小説が紹介されているのを見て,たまたま交換留学で渡米した友人に頼んで入手した。その数年後,米国に短期留学中にペーパーバックをみつけて再度読み直したのだが,当時出会ったレジデント達に聴くと大抵みんな読んでいた。さらに数年後,東海大学総合内科にいた頃に,米国,英国,ドイツなどから来た医学生に聞いてみても大抵知っていた。それほど有名なようである(世界で200万部売れているらしい)。ただし翻訳されていないため,日本ではほとんど知られていない。この小説の中で,Fat manが,ERに運ばれてきては入退院を繰り返す患者(多くは高齢者)のことを指してGOMER(女性形は GOMERER)と呼んでいた。今回の翻訳に際してあらためて調べてみて,上記のようにすでに辞書にも収載されていることを知って驚いた。

3)Albright:Fuller Albright(1900−1969)
カルシウム代謝で多くの功績がある臨床内分泌学の巨人。MGHで素晴らしい教育者としても尊敬を集めた。

4)Morgan and Engel
(William L. Morgan Jr and George GL. Engel)
この二人が誰なのか,長い間謎だった。疑問が氷解したのは,サパイラの翻訳中のことであった。第29章文献の中で,Rochester大学の教授であったこの二人が書いた教科書「The Clinical Approach to the Patient(WB Saunders, 1969)」が紹介されているのを発見した。この本についての説明文で,サパイラは次のように絶賛している。
「若い医師に必要な臨床とコミュニケーションのスキルの解説と強調において,本書に並ぶものはない」
 非常に古い本だがネットで探せば今でも入手可能(私は海外の古本屋から$30位で購入した)。医学生が初めて患者の元に行き,自己紹介から始まって医療面接,身体診察,そしてカルテ記載までをどのようにするかについて,非常にわかりやすく詳細に記載してある。内容は普遍的なので,そのまま現在に通用しそうな素晴らしい本である。

5)ソクラテスの虻(アブ)
ソクラテスは,アテネを素性がよく図体は大きいのだが,かえって鈍いところがある名馬にたとえた。「虻」は馬にとって迷惑な存在だが,それによって馬は寝込まずにすむ。つまりアテネの市民に対してうっとうしがられても道徳的に正しく生きることを説教する自分を,馬にまとわりつく虻に例えたとされる。ここでは学生やレジデントに,必要な時にお小言をいうべき存在として「ソクラテスの虻」と表現しているのだろう。


<翻訳:須藤 博   2018年1月>
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