自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

凧揚げに想う、、、

2008年01月18日 13時16分38秒 | コラム
 散歩の途中で、珍しくというか、久しぶりに凧揚げに興じる親子に出会った。かっては子どもの正月の遊びといえば、凧揚げ、独楽回しと相場が決まっていたのだが、最近の子供たちにはその時間も広場も奪われてしまったのかも知れない。それとこの出会いによって、数十年前に読んだ、雷雨の時に凧揚げをし、雷が電気であることを証明した,B.フランクリンの伝記本の挿絵、そして、30年程前の自分に対する警告の詩が忽然と甦ってきた、、、。

 寒風を背に、凧揚げに興じ、
 少年の日の夢をはせた日々は
 遠くへ去ってしまった、、、。

 しかし、なお手元に残る感触は
 ともすれば現実に流され
 妥協しようとする自己を牽制するごとく
 丘の向こうに見えた世界を
 疲れることを知らず追い求めた世界を
 まぶたの裏に再現する。

 少年の日々は戻らずとも
 少年の日の心は今甦る
 身はこの地に留まりて、這い蹲って生きようとも
 心は空天高く飛翔する[龍]と共にありたい。

 高度経済成長の為には『閑と遊び』は不道徳なものとして排斥されたのかも知れない。その為に『遊んでないで勉強しろ、閑があったら仕事しろ!』となってしまったのだろう。ニュースや記事が伝える、おぞましい事件が絶えないどころか増え続ける現状をどう考えたらいいのであろうか、、、。

 『よく学び、よく遊べ!』は昔からの格言だが、いっぱい勉強し、いっぱい遊べと考えられるが、勉強し過ぎもダメ、遊び過ぎもダメ、で適切な必要な学びと遊びが大切だと考えるべきであろう、、、。遊びを知らない超秀才児と学びをしない超遊び人が拡大再生産されてきたのが高度経済成長期の教育行政の結末だろう。

 遊びと閑の延長上に真の学びがあるのだし、『よく(適切に)遊び、しかる後よく学べ!』をこれからの指針とすべきであろう。杉並区和田中の試みは、メディア向けの話題性はあるが、遊びを知らない秀才児作りにならぬかとの心配がある。

 鳥になりたい、大空を飛びたいとの願いが現実となった今でも、凧揚げは人間に大きな教訓を与えてくれている。竹と紙と糸で作った玩具に過ぎないが、己の分身と考えた時に、凧を空転高く舞揚げる手法は、自己の願い、目標を現実のものにする為と共通するものがある。凧揚げでは、風に向かう角度、糸の引き具合、つまり良い風を捉え糸を伸ばす、風向きが変わっての落下を防ぐために、糸をたくり寄せることが必要だし、人間に置き換えると、常に向上心を持ち、物事には逃げ腰にならず常に真っ正面から取り組む、そして自分に対する厳しさである。この国には『稔れば稔るほど、頭を垂れる、稲穂かな』との警世の句がある。