被災地の復興を願って、テレビでいろいろな標語が流れる。
標語だから素晴らしい。その通りだと思う。
連休を利用してボランティアに精を出す人がたくさんいるという。
自分ができる範囲で、なにか役に立ちたいという強い気持ちの表れだろうと思う。
今の自分にできることは、友人のつてを頼ってなにか送ることしかできないが、
身体を使うボランティアは、崇高な感覚を目覚めさせてくれる。
一方では、政府や行政のなかで、それぞれの立場の人が、遅々として進まない対策にイライラしながら、喧嘩しながら、一生懸命やっているだろうと想像する。
今朝の報道では、
放射能汚染された校庭の砂の廃棄場所が決まらずに、そのまま校庭に置き去りになっている映像が流れた。
校庭には1時間しかいられない学校は、もともと無理がある。そんな環境で児童生徒を学ばせるのは、逆立ちしても納得できないだろう。
誰だって、無理だと判断することをやらせることは、どこで、どのように決まったのか不思議で仕方ない。
決まったとしても、政府としてなんとかならないか、と思う。
削り取った校庭の砂は、「危険」だから削り取ったわけだろうに、
「危険な砂」を捨てる際、「危険な砂ではない」と説明して住民の理解を得ようとしている。
これだって、はなから無理な注文だろう。
報道では分からないが、校庭の砂だけが汚染されているような印象を持ってしまうが、
校庭の砂が汚染されているなら、あたり一面汚染されているだろうにと思う。
気がついてみれば、
最初から、「直ちに悪影響を及ぼさない」だの「水が手に入らない人は飲んでも影響はない」だのと、
難しい説明ばかりが目立つ。
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