1992年から94年にかけて、ジャーナリストの辺見氏がご自身の目で見て、現地の人びとと共に同じものを食べて五感で感じたルポルタージュです。行先は、例えば、チェルノブイリ原発事故後のウクライナ、食べたものは原発で汚染された野菜や水で作られたスープ、国際支援団体から配布された食料は孫に送り、老人らは食べない。「どうせ先が長いのだから」と自爆気味なのが、どこか自分にも通じるところがあり…(父が呆気なく亡くなって以来、「どうせ死ねば終わりだから」と、持ち物に、これまで以上に拘らなくなった。自分の作品に対してまでも…)
筆者が最初に訪れたのは、自分にとっても馴染があるバングラデシュ。結婚披露宴が終わると、残飯業者が「食べ残し」を買い取る。それを安値で貧しい人々に売る。筆者が最初に口にしたのも、人がかじった後がある鶏肉の骨…を食べようとしていた矢先、「ストーーーっプ! その肉には人が噛みついた後があるだろう。」と現地の人に教えられるという、衝撃シーンから始まった! かつて、シェアメイトにバングラデシュの友がいて、その関係で複数の人達と親しくしていた自分には特に、興味を引く始まり方だった。
ワールドビジョン オブ オーストラリアで、チャイルドスポンサーもしていた。社会学を専攻する大学院生だった頃、自分も仕事をしながら学生もやるという、月に1日しか完全休暇がない多忙さだった。1日1ドル、一か月で30ドルの支援。ペットボトルの水、1本分。これなら自分にも無理なく出来る! そう思った。「バングラのお子さんを希望」と述べると、願い通り、当時、8歳のジュエルくんを紹介された。 これで彼が飲み食い、学校へ通えるという。 だが、周囲は賛否両論あり、オーストラリア人の女性は、「貴方が払う月々の30ドルは、支援団体員の給料になるだけ」 また、韓国人は、「税金が安くなるから始めた? 自分もやろう!」と言う人まで登場し、彼らは数か月で無責任に辞めた。期待したほど税金が安くならなかった、とかで。 賛成してくれたのは、シェアメイトと同じ国出身の友人たち。 文通がしたかった自分は、英語で手紙を書き、それをバングラ語に訳してもらい、あの、独特の文字を真似て、清書し、ワールドビジョンへ送った。 2通に1通は返事が本人から来た。時々、「これは、彼の字じゃないね。恐らく職員か、親だろう…」(両親がいるのか、など、個人的な情報は殆ど知らされていなかったが…)
私の話を聴いた、職場のボスは、「それは素晴らしいことだ! 一日一ドルか、よし、冷蔵庫から水を取ってきて、飲んでいいぞ! プレゼントだ!」と後押ししてくれた。4年間、継続していたが、一時帰国することとなり、バングラの友が自分に代わって納めてくれた。 自分がオーストラリアにいたのも、1990年代。 このルポが書かれたのも、同じ頃。感情移入しない訳がない。読み進むにつれ、報道されないことがどれだけ多いのか⁉ 例えば、ソマリア。 筆者が到着した日の数時間前に米兵4人が現地の人に殺され、肉片となり、それを見せつけられ… 爆撃が続く。 マルで今のウクライナやガザ地区だ。だが、当時の自分は湾岸戦争以外、知らずにいた。 ここまで酷い状況だとは知らなかった。湾岸戦争どころじゃなかったのかもしれないと、今更知った。中東には石油がある。ソマリアには…ということなのか…分からない。結局、化学兵器も見つからなかったではないか! 「こうあるべき」という結論があり、そこに当てはまらない「事実」はニュースとして取り上げられず、報道もされないのか… 少しでもメディア論をかじっていれば、誰でも分かっていることだが、ここまでとは… この著書と出逢わなければ、知らなかったことが殆どであった。同時代を生きて来た人間であるのに!
旧ユーゴスラビアのセルビア人による爆撃。どの家にも糾弾が数え切れぬ数、打ち込まれていたり。修道院で、食事にありつけるまでに3時間もの祈り… 「君らの宗教は戦争を止められない。何も救わない!」「たまには美味しい肉や女が欲しいとは思わないのか?」と、やけっぱちに尋ねると、何処にでもいる若者の顔になった、など、著者と修道院僧のやり取りを読んでいて、タブーな宗教に 敢えて触れたとき、大げんかになった実体験と重なったりした。 ただ、自分の場合は安全な国で 安全に暮らしている者同士が会話していたのであって、食うに困る、明日さえ分からないような状況下に居たわけではなく、切羽詰まったものは無かったが。
同じくアフリカの、とある村。本は手元にはなく、村の名前を覚えていないが、200人、2000人と、エイズ感染者が増えていき、その村の半数が感染者という。当時はまだ治療法もなく、感染すれば発症し、死を待つだけ… 両親をエイズで亡くした子供たちが、あちらにも、こちらにも。未婚で赤ちゃんを抱えた少女も。何も、ふしだらだから、ではなく、男性優位社会だから。この一行だけで哀しくなった。活字を追うだけの自分でさえそうだから、目の前で少女たちに会った筆者は尚更だろう。案内人が言った、一言が忘れられない。
「嘆くだけなら、誰にだって出来る。 今から施しを…」
こうして筆者は案内人と共に食べ物を手にし、 集まってきた女性や子供たちへ… 手渡す際、まるで救済者であるかのように 涙を流して拝まれたという。「偽善者だ」 だが、そうするより他に出来ることはなく、食べ物を与える偽修道院のようなことをしてきたという筆者の気持ちも… あぁ、そういえば、自分も、戦時下ではないけれど、アエタ族のコミュニティーで、給食ボランティアをしたな… たったの1日だけ…と、思い出したりした。枯れ木の枯れ枝のように 死を待つだけの少女の写真は… 衝撃的すぎて… 写真一枚だけで あぁ、自分も偽善者なんだよな、これまで何をしても。何もしなくても。 他に言葉がない。
自分が最初にフィリピンへ行こうとした1991年…だったと思う、ピナツボ火山が爆発した。そこで暮らす、アエタ族は、山を下り、文化に触れた。村長はインスタントコーヒーの味を覚えてファンになったという。そのアエタ族のコミュニティーを実際に23年という時を経て、訪問することになろうとは… ピナツボ火山の噴火で、また、選挙で物騒になっていたため、「今は、来ない方がいい」と現地の友人に止められ、予定を中止した、あの日から23年後… スタディツアーで訪れることになるとは… 当時は夢にも思わなかった。アエタ族の家庭にホームスティし、家族と同じものを食べた。訪問初日は、レストランで出た水にも(氷が入っていたから)手をつけなかったし、歯磨きもお湯を沸かして、冷ましてからうがいをしたくらい、念入りだった。 スラム街では、とうとう怪しい露店の食べ物を勧められ、お腹が心配だったが、勇気を出して口にしたっけ…。 運よく、お腹を下すことなく無事に帰国の途に着いた。 だから。 汚染水で作られたスープも飲んでしまう筆者には頭が下がる。 タイトル、もの食う人びと、 筆者も食らう、戦時下では宗教もへったくれもない。食べるものがない、食べられないということが、どういうことか。 朝ドラ、あんぱん、でも描かれたが、この著書を読むと… そんなに遠くではない90年代に… そして今も世界には食べられない人が大勢いる… 何とも言えない気持ちになる。 飽食時代と言われる国も存在している一方で… ただ、最近、日本も現状が悪化してきた。 自分の家庭の食卓でも、それは感じる。
この著書は、斎藤先生が「読むべき本」としてリストアップされていた中にあった。ただの体験記ではなく、報道の空白、倫理のグレーゾーン、そして「生きるとは、食べるとは」という本質的な問いを突きつけてくる。学生のみならず、どの世代にも読んで欲しい。話はそれから… です。