「永遠のゼロ」 これは父が予約をして図書館でようやく借りられた本だ。もう期限が来るので今から返却するが…というので、「ちょっと待って! 返却日っていつ?」 「今日まで」 「今、10時だよね。 その本、字の大きさはどれくらい? 435ページ。うーん。 3~4時間頂戴!」
そして父は今にも図書館へ向けて出かけようとしていたのを 「まぁ、午後までに読み終わるなら」と、自分の部屋へ戻っていった。 結果、一時間半の昼食&紅茶休憩はあったにしろ、気がつくと一気読みしていた。 オーストラリアから帰国後、近代史に関する書籍は何百冊も読みあさったが、「永遠のゼロ」は史実を基にした小説。 この本が発表されたのは、2006年で、著者は私に一回りプラス離れているくらい。 いくら史実や資料を読みこんでも、誰もがこんな小説を世に送り出せる訳ではない。しかも戦後生まれの私とたいして年齢も変わらない(いや、ひとまわり以上離れてはいるんだけど…しつこいか) 世代が近い著者の本はとても読みやすく、すーっと本の中へ入っていけた。 『黒い雨』同様、この本が世に送り出されたことに感謝!
子供の頃は信じて疑わなかった、戦後、自分たちが受けた歴史教育や朝日新聞によって植え付けた史観。 加えて我が家では不幸なことに しかも最も多感な自分の思春期に、哀しくも「入試に出るのは朝日新聞…」という宣伝に乗せられ朝日を購読していた。
実際に自分が大学生になってJICA九州国際センターへ研修生としてやってきた中韓以外のアジアの人々から25年以上も前に聞いた話と余りにもかけ離れている違和感と… 「あなたの祖父母に聞いてみるのが一番いい。日本人がいなかったら、自分たちの国はいまも独立出来ていなかった、というのが自分の父や祖父がよく言っていたこと」 マレーシアとブルネイからきた、当時の私より20歳くらい年上の研修生の話に驚いた。 こういった話はフィリピンからきた研修生からも聞いた。 「戦後補償って、あと何年するというのか? すでに50年だ。 更に50年たてば、あと100年だと中韓に言われ続けるだろう。それは間違っている」そう真顔で語ったのは、フィリピン大助教授のアートだった。 今思えば、凄い人達と ひよっこの私は真っ向から交流させて頂いていたことになる。 今月、東京で11年ぶりに会う事になっているフィリピン系オーストラリア人の友人、ブロニカも、彼らから貰った名刺を見せると驚いて叫んだものだった。
「ちょっと、Mayumi! こんな凄い人達と、一体、どこで、どうやって知りあったって言うの!? 私がフィリピンにいても絶対に出会えない人達よ!」 と…。
「原爆を落とされたことで、日本は反省?し、終戦を迎えることが出来た。 アメリカのお陰」 とまではいかずとも、それに近いようなことを小学校では教わった。 そして私が中学2年生の時、朝日が騒ぎたてた「教科書問題」 実際にはそんな事実は無かったのに、文部省が「侵略」を「侵攻」と書き換えさせた」などと新聞が報じ、それを真に受けていた私。 どんどん日本が嫌いになっていった。 愛国心? 当時の自分には無かった。 ジャーナリズムの恐ろしさよ… 本当の意味での愛国心を感じたのは、海外へ出て「パールハーバー」の映画を海外の友人と一緒に見ていたときだった。 「日本が病院を爆撃する」なんて史実と違う映画のシーンを真に受けられ、「それは違うのだ」と必死に弁護している時だった。 或いはワールドカップで日本を応援している時か。 いずれにせよ、「愛国心があるのは 何処の国でも当然で、ごく自然なこと。 根なし草が良しとされるのは一部の日本のマスコミや進歩的文化人くらいなもの」 日本の外にでて、当然のことに ようやく気付かされた。
一部の利用者さんと話していても、終戦当時は小学生だった、という人ほど(つまりは兵隊ではなかった) 違和感を感じることがある。 失礼とは思えど、そんな時は、「本で読むだけなら、私も大方のことは知っています。 私が他の利用者さんに話を聞いていたのは、実際に当時の兵隊さんを知っているから(あるいは体験者だから)です」といって、場を離れる。 だって その方の話はまるで「永遠のゼロ」に登場する記者そのものだからー。
祖父が生前、戦時中のことを語ると、生意気にも 「そんなこといって・・・人種差別はいけない」とまで中・高生だった私は反論したと記憶している。 そんな時、決まって 怒り半分、哀しそうな顔をした祖父。 今なら分かる。 「永遠のゼロ」の中で 「特攻隊はツインタワーに突撃したテロリストと同じ」と新聞記者に言われ、激怒し、「黙れ!」 「分かったような事を言うな!」と叫んだ元日本兵。 あの箇所を読んだ時、私も 心の中では 再び中学生だった当時の自分自身に向かって、今度は あの日本兵と同じ台詞を叫んでいたからだ。 祖父が中学生の私に言いたかったことも、きっと同じだっただろう。 「分かったようなことを言うな!」
祖父が生きている内に読ませたかった、と思った。 是非とも感想を聞いて見たかった。 戦前、戦中、戦後を生きてきた人だから。 その祖父も90歳で亡くなった。 幼い頃から祖父からは多くを学び、自分の祖父でなくても心から尊敬できる人だった。 それが私の孫としての誇り。 その祖父が生きていたら、何といったであろうか。
せめてもの救いは、帰国後、祖父母と 近代史を自分で資料を読み込み学び直すきっかけとなった著書、「台湾論」について、感想を話しあえたことだった。 特に祖母は 当時生後5カ月だった ひ孫ゆうちゃんを抱っこしたいから、と福岡へやってきた。 そんな短い滞在中、興味深げに 「台湾論」を読んでいた。 そして当時、台湾から引き揚げた人達から聞いた体験談を語ってくれた。 勿論、祖母は北鮮からの引きあげ組だったので、その悲惨さと言ったら無かったのだが… 祖母が話好きな人で良かったと思う。 「孫の中でも こんなに熱心に話を聴こうとする子もいれば…ねぇ。 最後に生まれた孫は私の話なんか、一切聞こうとしない」と愚痴っていた。 でも それはね、おばあちゃん。 きっとひとつ屋根の下にいると、いつでも話が聞けると思うからだよ。 特に祖母が逝ってしまう数年前頃になると、私にとっては 毎回の再会が、 声に出しては言えずとも、(もしかしたら これが最後かも…)と思う所もあったから。 でも、何か察するところもあったのか、母も聞いたことが無かった、という話も天国へ旅立つ一年前に聞くことが出来た。 初孫の特権として、祖父母とは最も長い時間を共有することが出来た。 勿論、祖父とも。 祖父が緊急搬送されたと聞き、12月25日クリスマスの日、年明けまで たった一日の休日を利用して、新幹線で往復し、日帰りで熊本にいる祖父を見舞った。 「まゆみちゃんのことは何も心配することはなか。 ただ、たった一日の休みとは…3日は休まんと…身体壊すがね」 これが祖父と交わした最後の会話になった。「できれば祖父母の手記を残しておきたい」、それが二人の生前に出来なかったことが唯一の心残り。
ツインタワーに飛行機が突っ込む場面をイスラム教徒の友人達とアパートで観た。 あの時の激論も忘れられない。 彼らの喜ぶ姿に悪寒が走った。 私が 「あなたたち、ヘンだよ」 というと、一瞬、彼らの表情が固まった。 「嬉しくないのか?」 「罪が無い人が殺されて嬉しい訳が無い」 「日本に原爆を落としたのは何処の国か?」 「憎しみからは憎しみしか生まれない。日本が終わらせたんだから、今の平和がある」 「日本は神の国だと思っていた。神風を忘れたのか。 今の日本人は腑抜けのfarmarだ!」 温和な友人がこれだけ激怒した理由。 それは、「世界はアメリカメディア一辺倒に物事が正しい、正しくないと判断されているじゃないか! パキスタンが攻撃されても誰も米国を批判しない。市民も犠牲になったんだ!」 少なからず当時の私は社会学を専攻する院生で、メディアについてエッセイもプレゼンもした。 だから友人の最後のひとことに はっとさせられた。 あの事件はそんな折に起こった。 なんて密度が濃い出会いと議論が常に用意されていたのだろう。 これらの出会いはすべて20代に起こったことで、その後、日本国内に身を置く自分には こういった出会いは中々巡ってはこない。
それでも読書は何処に居ても出来る。 この小説は、映画も公開予定ではあるし、本の詳細をここに書こうとは思わない。 ただ、一冊の本が 忘れかけた記憶を一気に自分の心に甦させる凄さ。 いつか各国語に翻訳され、海外の友人たちにも紹介出来る日がくることを願ってー。