青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

リアルタイムレポート 13

2018-03-31 18:47:32 | 雑記 報告

サクラ、散っちゃいますよ!

インターネットのニュースに、安芸乃島(高田川親方)の話題が載っていました。幕内の「輝」「竜電」に次いで3人の関取「白鷹山」の十両昇進です(三人とも中卒)。

https://www.msn.com/ja-jp/sports/news/中卒“叩き上げ関取”がまたひとり。白鷹山を育てた元安芸乃島の心意気。/ar-AAviHpf?ocid=spartandhp#page=2

二子山(旧・藤島)部屋5人衆の一番上の兄弟子。弟弟子の貴乃花親方に、週刊誌で一方的にボロクソに言われながら、一切反論せず、別の一門に移って、ここまで来ました。角界を永久追放された貴闘力、若くして亡くなった貴ノ浪、弟と絶縁した若ノ花、、、5人衆、皆波乱の人生です。

「正義のヒーロー」「スーパー・スター」「口先だけの改革者」「弟子が暴力を振るい続ける稽古場には滅多に顔を出さず、たまに顔を出すと自分も暴力を振るい、他の部屋の力士(ことに外国人)の失態を見つけると、これ見よがしに司法や政府に訴え(かつ自分の失態は世間の支持と権力でもって握り潰す)」貴乃花親方と、この高田川親方の生き方を、比べてみてほしいです(ことに「立川某」「坂上某」さん)。

貴乃花親方。僕は(若い頃の)貴方も応援していたのですよ! どうか目を覚ましてください。

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サクラの原稿、一週間も前に書き上げ、わざわざ千鳥ヶ淵まで撮影に行って、編集U氏も今回は機敏に行動に移して、すでに3日前に(雑誌で言えば印刷が終わって書店に出荷すれば良い状態の)掲載現物が形になっています。後はボタン?を押して、アップするだけ。

なのに、数日間、据え置かれたままでいます。ポジティブに捉えれば、出来るだけ多くの読者に読まれるために、あえて「4月1日の日曜」まで待機している、というU氏なりの作戦。それとも、(U氏は「それは穿った見方」と言うことでしょうが、笑)権威ある執筆者ご歴々への「忖度」の結果、順番がどんどん後送りになってしまっているのか。

これまでの中国関係の原稿の遅れ(2月初めの話題が未だ掲載されていない)は、僕が思うに、どうやら後者であるらしいのですが、今回に関しては前者だと好意的に解釈しておきましょう(編集U氏もいろいろと苦労しているようなので)。

でも、花が散ってしまうがな、、、(せっかく迅速に準備しているのに)。





≪今回の写真は、ちょっと遊んで、周囲を暈してみました。≫





上2枚:千鳥ヶ淵のサクラ(ソメイヨシノ)2018.3.24








上3枚:中国秦嶺山脈の野性サクラ。蝶はハルカゼアゲハ(アオスジアゲハ属)の一種。2010.4.22

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で、暇つぶしに(実際は決して暇なわけではない、勉強のためにです)、他の新規アップ記事をザッと読んでみたところ、僕の守備範囲の「絶滅危惧種」に関する話題(企業の宣伝のようです)がありました。この手の「絶滅危惧」とか「自然保護」とかの記事を読むたびに、いつも暗澹たる気分になって、落ち込んでしまうのです。

少しでも頷ける内容であってくれることを期待して読んだのですが、やっぱり暗澹たる気持ちになってしまった。いや、言ってることは、個々については正しい(「真実は一つではない」という僕のポリシーに照らして)です。でも一応「正論」だからこそ、逆に危惧を感じてしまいます。

以下、曖昧模糊な観念的な話。具体的には、将来(僕は一応まだ長生きするつもりなので、笑)一つ一つ検証して行くつもりです。とりあえず、漠然と感じたままの抽象的な意見を書き連ねていきます。

僕には、「自然保護」とか「絶滅の危惧」とかを叫ぶこと(およびそれに対しての何らかの実践を行うこと)自体が、結果として「自然破壊」に手を貸しているように思えてならない。なんという臍曲がりな捻くれ者と、自分でも呆れはするのですが、、、。それは、叫んでいる人自身(や企業)の正当性(正義感)を誇示しているに過ぎないのではないかと。

本気で「自然破壊」を食い止めるには、人間の生活を全て「人間が野生生物だった頃」にリセットせねばならない。むろん、車に乗るとか、道路を作るとかは、もってのほかです。それが出来ない人には、「自然保護」を語る資格はない、と思っています。

「完全阻止が無理なことは分かっている、だから我々に出来る範囲で実行するのだ」と言われれば、その通りには違いない、と思います。しかし、根本を正さずして、表面だけ体裁よく塗り替えるのでは、解決には全く繋がらないだけでなく、「自分には基本的な改革に向けての行動はとれないけれど、良くなることを願っているので“それで良いのだ”(自己満足な正義感と自己弁護の正当性の認識)で終わらせてしまう結果を認めることになり、最終的に行きつくところは、「自然保護」にとって、プラスになるどころかマイナスの作用を及ぼすのではないか、と思うのです。

自然(野生生物)が、可愛らしいとか、魅力的だとか、みな思うのでしょうけれど(そのような一面もあるとしても)、深く知れば知るほど、時には人間に対して牙を剥く、複雑で不可解で、ある意味“無限地獄”のような、(アンタッチャブルと言ってもよさそうな)深遠な存在であることが、知れて来るはずです。

大震災の時、日本中の誰もが、「がんばれ東北」とか言って応援していましたね(今でも続いている?)。人と人の繫がり、とか、助け合い、とかのムーブメント。僕には非常に疑問に思え、大きな違和感を覚えます。

1日で1万人以上の人々が亡くなり、さらに多くの人々が理不尽な苦しみにあっている、それらの人々に手を貸すのは、人間として当然の行い、、、、なのでしょうね。それ自体は否定しません。

でも、一歩引いて考えて見たいです。

大震災などのクライシスに限らず、人々の理不尽な苦しみは、いつでも、どこにでも存在します。あるいは身近に、あるいは見知らぬところで、何人もの人が、理不尽な苦しみを負い続けているのです。日々時々日常的に。

地球上の一か所で、一度に、何万人の人が理不尽な災害にあったのが、東日本大震災です。

そのことと、広い地球のどこかで、何万人の人々が理不尽な目にあっている事実、あるいは長い年月のなかで、膨大な数の人々が理不尽な目にあい続けている事実、、、それら世界中に溢れている「膨大な理不尽な事実」には、普段思いもはせることなく(あるいは思ってはいても手を差し伸べることはせず)、「大震災による理不尽」に対しては、まるで義務であるかのように、国民一体となって「みんなで繋がろう」とか言う。

根本的な部分で「お祭り」と何処が違うのでしょう?

メディアから流れてくる「共通の情報」(=空気)に、ただ安易に乗っかり、本質(世界中に普遍的に存在する理不尽な苦しみ)に目を向けることをスルーしているだけのように感じます。

「平和」を、「愛」を、「平等」を、「戦争をなくすること」を願い叫ぶことと、そのために実際に行動する(手を汚す)こととは、意味が全く違と思います。おそらくは不可能であろう「絶対的な平和」を、可能にしようとすること(それぞれの「正義」を信じること)で、戦いが起こるのだと思います。

だから、本気で「世界の平和を目指して」行動を起こすことは、危険極まりない行為なのでしょう。

じゃあ、自分の出来る範囲で、余り力まずに、「私は平和を望んでいる人間だから」「愛があるから」「優しい心を持っているから」と、何かを行っていれば良いのでしょうか?

しかし、そのような「愛」や「善意」を望む善良な市民たちの存在が、全く無意識のうちに、また別の空間に住む人々にとっての「愛」や「平和」対し、破壊を成す要因(自分も原因の一端)となっているという可能性を、考えてみることはないのでしょうか?
 
自分は「愛や平和を望んでいる」から「善人」である。そんな虫のいい話はないと思います。

じゃあ、私たちは何をやれば良いのか? 

「自然保護」に話を戻せば、例えば「車社会」は当然廃止せねばなりません(「銃社会」が当然廃止されねばならぬように)。本気で取り組む気があるのなら、現代社会に存在する「文化」とか「政治」とか 無くしてしまえば良いのです。ちまちまと「カウンター・カルチャー」を装った、その実ポピュリズムの権家のような、自称リベラリストには、反吐が出る思いです。

私たちに何が出来るのでしょう? 道端に落ちているごみを拾うこと。道端に佇んでいる貧しい人々に10円でも良いから恵んであげること。その程度なら、誰もが出来るだろうし、大した自己満足にもならないことでしょう。

お金がなくて首を括ろうとしている人(自己責任というのだろうけれど、自己ではどうにもならないこともある)が相談窓口に行っても、お金をくれるわけじゃない。よく「そんなに困っていたなら首を括る前に何で相談してくれなかったのか」といった話を聞くけれど、なに、その時相談したって、無視をされるのが落ちでしょう。僕ならば、誰かに「金貸してくれ」(あるいは「貸した金を返してくれ」)と言われれば、その時の全財産が100円なら、50円貸し(返し)ます(今、原稿料入ったばかりで、滞納家賃などを支払ったけれど、僕の人生では珍しく、まだ3万円ほどの財産があります、今がチャンスです!)。

道歩いている人1000人いるとすれば、一人10円カンパしてあげれば、首を括らずにすむことが出来るかもしれません(きっと元の木阿弥になってしまう、、、たぶんそうでしょうね、結果として騙されるわけです、でも騙されたっていいじゃないですか、そうでない場合もあるはず)。

話は全く違うけれど、(唐突ですみません)たとえば、存在を否定すべきか否かは別として、ぺんぺん草もゴキブリも「自然の一員」の(元はと言えば)野生生物であるわけで、絶滅危惧との間に、厳格な区別が成されるわけじゃないのです。この話をしだすとややこしくなるので、やめます(言ってみただけ)。

僕がチェックした「現代ビジネス」の「絶滅危惧種」に関する記事について。繰り返し、漠然とした感想にしかならないのだけれど、、、。

絶滅を防ぐには、、、、みんなが「自然・生物に触れよう」これは同意します。「生き物を食べてみよう」これも同意。そのほか、個々の意見にも、おおむね同意するのです。しかし、僕から見れば、どの意見も、何か現実的な手応えを感じない、というか、言っていることはいちいちもっともなのですが、薄っぺらで、何処かの部分で本質から乖離していると感じずにはいられません。

いや、僕の頭が悪い(測ったことないけれどたぶんIQが低い?)だけなのでしょうが、違和感を禁じ得ないのです。

この記事で決定的に欠けているのは、「絶滅とはどういうことか」「絶滅危惧種とはなにか」「種が絶滅することにどのような問題があるのか」といった、本質的な命題に対する検証を、スルーしてしまっていること。

生物の「種」の絶滅は、簡単に起こり得る事ではありません。それが起こる要因(内因+外因)は、極めて多様で複雑なものであるはずです。そして、しばしば「種の絶滅」は、一気に起こります(通常、直前に爆発的な繁栄が見られる)。

「種」をどう捉えるか、という問題もあります。「絶滅危惧種」の多くは、本当に「種」なのか? その多くは、正確には「種」に達していない「種のような存在」に過ぎず、それは、極論すれば、(人為の影響とは左程関りなく)生まれては消えていく、もともと非常にデリケートな存在なのかも知れない。それらの「軽い(見かけ上の)種」と「重い(確立された)種」を、同一概念で捉えることに、問題はないだろうか?

「確立された種」は、そんじょそこらにある外圧では、簡単に絶滅はしないのではないでしょうか? もっとも、地表ごと一気に剥ぎ取られるような、徹底的な外圧が成されれば、そんなことは言ってられないのでしょうけれど。そして、実際にそれ(徹底的な外圧)が、もの凄い勢いで成されているのも事実です。

地球上の生命(人間自身も含む)を守るため、一人一人が出来ることをやろう、という理念は、間違ってはいないと思います。ただし、それだけで終わるならば、自己満足の「正義」でしかありません。そこで終結してしまうことで、マイナスの結果に導きかねないかも知れない。

今や、「出来ない(はずの)こと」を、一人一人が本気で実行すべき時ではないか、とも思うのです。

絶滅の危惧に瀕している日本の蝶としては、オガサワラシジミやギフチョウが、しばしば話題に上がります。僕は、両者に対しての、第一人者のひとりである、と自負しています。

前者のアイデンティティを解き明かすために小笠原に通いだしてから、今年で42年目(15年間訪れていませんが)。31年前、中国に渡った目的は、後者の姉妹種を探索する事でした。

小笠原は、今年、日本返還50周年を迎えます。某機関(某東京大学および個人の自然保護活動家+某東京新聞)が、オガサワラシジミを繁殖して増やし、絶滅から救おう、などと計画しているようです。頼むからやめてほしい、、、。断言します。いろいろな意味で、良いことではないし、長い目で見れば、良い結果も生まれません。

ギフチョウのほうは、この「現代ビジネス」の記事でも、最後のほうに取り上げています。どうやら、企業の宣伝に使われているようです。

「世界各地で、現地の社員自らが出向き植林活動など行っています。日本では毎年5月ごろと11月ごろに、岐阜県郡上市で植樹活動を行います。バスでみんなで出向きます。自然を直に感じることができるので、自分自身も楽しみにしている活動のひとつです。5月にはここで、貴重な固有種のギフチョウを見ることができるんですよ。活動を始めてから少しずつですが、増えているようです」

あー。いやだいやだ、、、

*植林地の遷移途上でギフチョウの(人が目撃出来る)数が増えることは事実で、それ自体を否定するつもりはありませんが。






上:ギフチョウ 長野県白馬村 2005.5.4
下:オナガギフチョウ 中国秦嶺山脈 2010.4.28





オナガギフチョウの棲む中国秦嶺山脈の森林(ピンクの花はマメ科のハナズオウ野生種)。1995.5.3






グリーン・ペペ 小笠原母島 1988年

オガサワラシジミ紹介のついでに、手元にあったルリシジミ類の写真も幾つかついでに。
*そっくりなのに何故属が違うのか?⇒お〇ち〇ち〇の基本形状が異なる。
*全然似てないのに何故同じ属なのか?⇒お〇ち〇ち〇の基本形状が同じ。



オガサワラシジミ(ルリシジミ属)小笠原母島1993.4.23 ←日付要再チェック



スギタニルリシジミ(ルリシジミ属)中国秦嶺山脈 2010.4.26



ルリシジミ(ルリシジミ属)千葉県清澄山 1978.4.23



アリサンルリシジミ(ルリシジミ属)中国香格里拉 2015.7.25



タッパンルリシジミ(タッパンルリシジミ属)中国梅里雪山 2012.7.9



ハワイルリシジミ(タッパンルリシジミ属)ハワイ・オアフ島 1994.4.11



左:タッパンルリシジミ(タッパンルリシジミ属)、奥:スギタニルリシジミ(=広義、ルリシジミ属)、右:アリサンルリシジミ(ルリシジミ属) 中国梅里雪山 2012.7.11



左:サツマシジミ(タッパンルリシジミ属←広義)、右:ヤクシマルリシジミ(ヤクシマルリシジミ属)屋久島 1985.6.3



ヤクシマルリシジミ(ヤクシマルリシジミ属)中国深圳 2016.5.17 Monica Lee撮影



タッパンルリシジミ(タッパンルリシジミ属)中国成都西郊山地 2009.8.4


ルリシジミ(ルリシジミ属)中国梅里雪山 2012.7.9



ルリシジミ(ルリシジミ属)中国大理 2007.7.12
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