青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

朝と夜の狭間で~My Sentimental Journey   2012.12.15

2012-12-15 10:55:42 | 雑記 報告

  

次回からは僕自身の手で更新していく、と宣言していたのですが、なかなかその(やり方を勉強する)チャンスがありません。そこで、今年最後のアップを、あや子さんの手を煩わせて行うことにしました。それとともに、幾人かの方から指摘のあった、個人的な遣り取りに関する部分を、あや子さんの判断で整理削除してもらいました。来年こそは、自分自身の手でブログの更新が出来るよう、努力をいたします。ということで、もう一度(今日と明日)だけ、あや子さんの手をお借りして、2012年最後のブログを更新することにします。

選挙ですね。僕は早々と投票を済ませて来ました。駅前に不在者投票所があり、当日に指定の投票所に行くよりも便利なため、どうやら皆そこで投票しちゃってるのですね(笑)。それでも僕が真面目に投票に行くのは、前回の都知事戦に次いで2回目です。都知事は、前回同様ドクター(前回は泡沫候補扱いだったのが今回は主要立候補者の一員として処遇されているようです)。衆議院のほうは小沢さんのところに。

さっき、街を歩いていたら、維新と未来の街頭演説カーが相次いで通っていきました。「市民のための政を」。どうも、全ての政党が、バカの一つ覚えのように同じ事を言っている。労力の無駄遣いではないかと思うのですが、、、。もっとはっきりと意見を訴えなくては。維新と未来は、“立ち位置”は、ほぼ同じなのだと思う。背中合わせに立っていて、向いている方向が違っている、そんな気がします。方向というのは、内と外。内は維新のほか、自民公民、それから民主も本来は“外向き”なんでしょうが、野田さんは“内”ですね。このあいだの新聞で、野田さんが「日本は島国、失敗出来ない」とか言っているのを読みましたが、まさに日本人の典型的志向、僕の志向の対極に位置しています。

石原橋下も、僕とは考えの基盤が正反対なんですけれど、“暴走”というところが好ましいですね。その“普通ではない”所が、嫌いではありません。そこへ行くと、安倍野田は、普通さ(庶民にとっての集団保身に繋がる“安全さ”?)を売りに市民の共感を得るという、一番嫌なタイプ。

未来大地は、外向きだと思います。もちろん究極の外向きは、共産社民であって、未来の立ち位置は全く異なりますが、何か漠然とだけれど、似た方向を見つめているように感じます。宗男に鳩山さん(邦夫ではなく由起夫)。「友愛」いいじゃあないですか!

どこの政党にしろ「原発必要」と言い切ってしまえば、“空気”から外れてしまう。自民にしろ維新にしろ、(「不要」という建前と「必要」という本音をミックスして)曖昧に表現しているわけで、共産社民未来の「絶対不要」とは根本的に異なるにも関わらず、市民の意識には同じように映ってしまうのです。

「原発不要」の理由は、もちろんその危険性にあります。でも、それ以前に大きな問題があります。なぜそのことを強くアピールしないのか、と歯がゆく思うのですが、それ(以下に記す意見)を言ってしまうと、一般市民の共感を得られなくなってしまう。

自民は「不要」とは言い切らない。そして「不要かも知れないが無くなると困る」と。無くなって困る筆頭は「恩恵を受けている企業や政治家」でしょうが、それを言わずに「一般市民の生活」が困る、と強調します。僕に言わせれば、一般市民も大企業や政治家も、等しく恩恵を受けているのです。

先日、電気代を支払いに行ったら、溜まっていた3ヶ月分の計3500円を一度に支払わされました。3500円は僕にとって大痛手、14日の年金受領日までのほぼ全財産です(それまで100円バーガー一個でやり過ごさねばならない)。でも、多くの人にとって、月1000円余の電気使用量というのは、トンでもなく安い料金なのだそうですね。月の電気代が万単位かかる、それが普通だと言うのですが、僕には信じられない。まあ、暖房や暖房を入れたり、テレビを見たりしているとそれぐらいかかるのでしょうが、なんと贅沢な、と思ってしまいます。一般家庭でも、暖房だの冷房だの、その他なんだかんだと電力を使いすぎ。本来、原子力発電なんてなくとも、充分に生活できるはずです(安倍さんたちや、彼らに投票する国民の多くの人たちには出来ないのでしょうが)。

「内」「外」と言いましたが、表現を変えると、「自分たち(家族、仲間、国民など)の幸せを願う」のか、「皆(枠外に置かれた人々を含む不特定多数の人々)の幸せを願う」のか、と言うことでしょう。どちらが正しいのかは分からない。冷静に考えれば、後者の実現は不可能なような気がします。でも僕は、「枠内」に拘泥(それが無意識的であっても、いや、無意識的だからこそ)している人たちに、限りない嫌悪感を覚えるのです。

コメント
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