きょうの朝日新聞(かすむリアル)第4回は『森発言 声上げられぬ選手ら』という話題であった。デジタル版では『森氏発言に口閉ざすアスリート 幻になった声明発表』というタイトルになっている。反響がよいようだ。
その要旨は、東京五輪の大会組織委員会長だった森喜朗の「女性蔑視」発言を選手らがおおやけに批判したいと思っても、所属する組織に迷惑がかかると思って、発言できなくなる、あるいは、組織から直接発言するな言われる、というものであった。
私が気になったのは、その反響に、スポーツ選手を責めるものが多いことである。所属先に迷惑かかるから、本音を言わぬというのは、別にスポーツ界にかぎらない。自分たちの問題だ、と受けとめをして欲しかった。
私が現役のとき、会社が不祥事や業務上の失策を起こすと、外部からインタビューを受けても何も話すな、という指示が、会社の上部から降ってきた。私の会社が外資系で個人の発言の自由が認められているのにも かかわらずである。
最近新聞で読んだのだが、生活保護を受けようとすると、離れて暮らす親族に、なぜ、経済支援をしないのか、という通知が行く。そのことを知らされると、親族に迷惑がかかると思い、申請をやめた、という。いわゆる、菅義偉の「自助、共助、それでもだめなら公助」である。じつは、生活保護の前に、親族が経済支援をしなければならないという法律はどこにもない。
「資本主義国」のことを「自由主義国」というのは、社会は個人からできていて、個人は「良心」以外のなにものの束縛をうけないというタテマエからきている。ところが、日本人は帰属先に迷惑がかかるからといって、正しいと思うことさえ、発言できなくなっている。アスリートの問題ではなく、日本社会の問題である。これでは、日本は「自由のない国」である。
自由な発言で帰属先に迷惑がかかるなら、帰属先に不利益をもたらす政府が悪いのである。