きょう、「路上飲み」について、教育評論家の尾木直樹がブログで、玉川徹や山口真由がテレビ朝日の『羽鳥慎一モーニングショー』でコメントしていた。
尾木直樹の批判は、メディアがあたかも若者の多くが路上飲みをしているかの誤解を与える報道をしているということ、報道のあり方に関する批判で、路上飲みそのものに関するものではない。テレビは現状の事実を報道するのでなく、絵になるものを事前に予測して映像をとっており、ステレオタイプ的な偏見に基づいて事実を捏造しているというのである。
これに対して、『羽鳥慎一モーニングショー』のコメントは、新型コロナのまん延にもとづく私的制限が若者の路上飲みを増加させているとし、若者が我慢の限界に達していることに、同情の弁を述べるものである。
尾木と『羽鳥慎一モーニングショー』のコメントは全くすれ違うというか、あるいは反対の方向ともいえる。
尾木は東京都の調査のデータをもとにしており、一部の若者しか路上飲みをしていないという尾木の主張はまちがいないだろう。
《今年に入って『路上飲み・公園飲み』をしたことが『ある』は〈7.4%〉。【よくしてる】はわずかに〈3.1%〉。約8割の人は『経験はないし、今後もやらない』》
そのうえで、一部の若者の路上飲みをもとに、私的権利の抑制が我慢の限界に達していると、『羽鳥慎一モーニングショー』のコメンテーターが同情の弁を述べたことの是非について考えたい。
自分が私的権利の抑制をもはや我慢できないというのは、表現の自由に属し、言うのは勝手である。しかし、一部の若者をだしに使って、同情しているフリをして、自分の不満を言うのは、メディアのコメンテーターとして情けない。それに、アナウンス効果で、それなら自分も路上飲みをしようかという若者が現れるかもしれない。
私は老人だから、飲みたければ、家で飲めばよいと思ってしまう。そして、お酒を飲むことは浪費であると思う。また、新型コロナで楽しみがないから酔っぱらいたいとなると、アルコール依存症になる危険もある。
酔っぱらわなければ生きていけないのでは不幸である。若者がそうであってはいけない。私の兄の妻はキッチンドリンカーになって、家庭が崩壊し、本人も死んでしまった。兄も悪いと思うが、妻も酒に走らず、権威的な兄と争うべきだったと思う。
いまの日本は閉塞感がある。若者に限らず、声を挙げたいというのはわかる。あの右翼の育鵬社の中学公民教科書にさえ、「表現の自由」が書かれ、「インタネットやデモ行進」での意思表示が書かれている。自分の私的権利を訴えることは当然の権利の主張であるが、それは「路上飲み」につながらない。
「路上飲み」によらないでも、マスクしたままで、人間と人間とが心を通わすことができる。孤立していないことを確認するに、酒などいらない。正面切って思想や政治的意思を表示すればよい。酒がなければ本音を吐けないのはオカシイ。
「路上飲み」は、袴をはいてや振袖を着て成人式に参加して騒いだりするのと同じく、既成社会に対する若者の反発である。しかし、その権威に対する反抗を、もっと政治的意識をもって、現実の自民党・公明党を叩き潰すことに向けられないか、と思う。