前回の主題だった江沢民の一件ですが、党中央が「『江沢民文選』に学べ」にゴーサインを出したためにその動きが急速に広がりつつあります。全人代常務委員長の呉邦国が同委にて「学べ」運動を展開すると表明し、人民解放軍も総政治部が「学べ」指令を下達しました。
また、党中央によるゴーサインとなった「中共中央の『江沢民文選』学習に関する決定」、それに最高意思決定機関である党中央政治局常務委員会の全メンバーが揃った前で胡錦涛が行った「学べ」演説が出版されることになりました。いつもの小冊子かと思います。
http://news.xinhuanet.com/politics/2006-08/16/content_4969335.htm
http://www.chinamil.com.cn/site1/xwpdxw/2006-08/16/content_556350.htm
http://www.chinamil.com.cn/site1/xwpdxw/2006-08/16/content_556362.htm
http://www.chinamil.com.cn/site1/xwpdxw/2006-08/16/content_556385.htm
何やらみるみるうちに潮が満ちてくるというか引いていくというか、いかに「科学的発展観」「調和社会」の枠内でやろうと試みても、『江沢民文選』を錦の御旗みたいにここまで持ち上げてしまっては、胡錦涛を利することにはならないでしょう。
今後、党中央の決定を受けて「学べ」運動が全国各地に広がっていくのでしょうが、末端にいけばいくほど拡大解釈されて、貪官汚吏それに従来型改革の既得権益層にとっての恰好の口実になりそうな気がします。
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……ああ今回はそういう血なまぐさい話題にするつもりではありませんでした。一昨日の靖国神社参拝に関する余談と、それと脈絡がありそうな無さそうな話です。
要するに雑談なのですが、私自身としてはそういう気軽なものでなく、ちょっと真面目に臨んでいるので雑談で片付けたくない気分があります。
閑話休題。
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8月15日の午前7時半近くでしたか、私が地下鉄で九段下に着いて、改札を抜けたあたりでのことでした。このあと階段でワンフロア登ってから、通路をいちばん奥まで歩いて向かって右側が靖国神社の最寄りである1番出口です。
最初にその階段を上ろうとしたところで後ろから声をかけられました。振り返ると片手に杖を持ったお婆さんでした。ごく自然な和服姿で、腰の曲がった姿勢で立っています。
昔の田舎のお婆さんはみんなそうでしたけど、最近の東京ではこう腰の曲がったお年寄りはあまり見かけなくなったなあ……と失礼なことを思いつつ用件を聞くと、お婆さんは階段の方を指差して、
「あの、外に出るのはこちらでよろしいんでしょうか」
と私に尋ねました。はいそうですよ、とまず答えたのですが、九段下の駅というのは地上を走る靖国通りの坂道(九段坂)の上下に出口があります。しかも念入りに道路の右側と左側にそれぞれ出口が設けられています。
ですから間違えるととんでもない方向に出てしまう場合があるのです。坂の上なら靖国神社(右側出口)や武道館方面(左側出口)ですが、坂の下はもう神保町まで歩いてすぐの場所です。……いや、番地でいえば実際に神田神保町三丁目にあたります。
そこで一応どちらに行かれるんですかと聞いてみると、皆さん予想通りの展開でしょうが「靖国神社」とのことでした(笑)。それなら私も同じですから一緒に行きましょう、ということで、お婆さんの介添えをするようにゆっくりと階段を上って通路を歩いていきました。
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お婆さんには北関東の訛りがあって、尋ねてみると栃木県から朝一番で上京してきたとのことでした。私は同じ北関東でも海沿いの茨城県日立市の出身です(※1)。出がけに空を仰いだら曇天だったのと、九段下で下車する人がやけに多かったので、まさか小泉参拝で大混雑?……と嫌な予感がしてやや不機嫌になっていたのですが、お婆さんの方言につい和んでしまいました。
普段はせわしく歩いている私にとっては、そのお婆さんに合わせて歩くとひどくのんびりとしたペースで、1番出口まで随分時間をかけました。お歳を尋ねると86歳ということで驚きました。壮健なのと栃木から一人ではるばる出てきたことの両方にびっくりです。
お婆さんによると、靖国神社は初めてではないものの、今までは親戚が付き添って連れていってくれていたそうです。でも今回は都合で自分だけが上京することになり、家族に乗り換えなどを間違えないよう丹念にメモしてもらい(私も見せてもらいました)、それでもわからなければ人に聞け、と言われて送り出されたとのこと。で、九段下の改札を出たところでわからなくなったので人に聞いた、その相手が私だったという訳です。
北関東の方ですね、いや言葉でわかります。私は生まれが茨城で……などと話しているうちに互いに打ち解けてきました。そこで職業病というか悪い癖が出て不躾ながら尋ねてみると、フィリピンで弟さんを亡くされたそうです。それがルソン島なのかレイテ島なのか、海軍か陸軍か、歩兵か戦闘機乗りか、といった立ち入った話も実は聞きたかったのですが、それはさすがに慎みました。
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通路を歩き終えて右手に折れて、長いエスカレーターを2つ乗り終えるとようやく地上です。蝉時雨に迎えられて出てみると地面には雨の跡がありありと残っていて、見上げればやはり曇天。……どころか今にもまた降り出してきそうな空模様です。
その空にヘリが数機飛んでいるのが見えました。靖国神社の入口も去年と違って物々しい警備態勢。先刻の嫌な予感が再び頭をもたげます。だいたい大鳥居に吸い込まれていく人の数が去年とは段違いに多いのです。混雑というほどではないのですが、人の流れのようなものができていました。
その人の流れが「参拝」というひとつの明確な意思を伴って歩いていくことをふと思って、一瞬、戦慄するような感覚にとらわれました。出店が並ぶお正月や「みたままつり」なら、わかります。でも今日は、8月15日なのです。
それにしても、この時間にしては参拝客が多過ぎました。せっかく静かにお参りしたかったのに。……と私はちょっと憂鬱な気分になったのですが、お婆さんには別の感慨があったようで、ちょっと足を止めて大鳥居の方を望むような風情をみせたあと、私に向かってひとまとまりのことを口にしました。正確に記憶していないのですが、
「私のように身内を戦争で亡くした者は、弟に会いに来るような心積もりで出てくるから靖国神社にお参りすることは当たり前のように思っている。でも何の縁もゆかりもないような若い人たちがこんなに朝早くからたくさん来ているとは思わなかったから、とてもうれしい」
と、大体そういう内容で、聞かされた私は胸をつかれるような思いがしました。
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「もう大丈夫ですよ。私はゆっくり行きますから、気にしないで先に行って下さい。御親切にありがとうございました」
と言われて、大鳥居のところで私はお婆さんと別れました。付き添ってあげた方がいいような気もしたのですが、そうすることでせっかく栃木からひとりで上京してきたお婆さんの気持ちを乱してしまっては、と遠慮したのです。何か大切な時間を過ごすことができたような気がして、こちらこそありがとうございました、と最後にお礼を言いました。
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ひとりになった私は、いつものペースでさっさと歩いていきました。報道陣と警官で混み合う道路際を抜けて第二鳥居をくぐり、大手水舎で手と口を浄めると、もう神門の前です。
このあたりは警官や報道関係者が慌ただしい雰囲気で行き来しています。それを尻目に私は一礼して神門をくぐり、続いて参道を左から横切るので一礼して、道の右側に出ました。そこに掲示板があるからです。
私は仕事の関係で月に2回か3回は近くを通るので、そのたびに靖国神社に立ち寄ります。まず参拝してから遊就館で海軍カレー&海軍コーヒーそして零戦、という愉悦のひとときを過ごすのですが、参拝の前に必ずこの掲示板をのぞいていくようにしています。
掲示板には××家結婚式とか奉納相撲、また当時の所属部隊ごとの集まりや慰霊祭などが日付とともに書かれています。「神雷部隊」など耳慣れた名前に出会うと、掲示板にも一礼したくなります。……で、先月から気付いていたのですが、その掲示板には8月15日の催しとして「駆逐艦竹会慰霊祭」と書かれていました。
駆逐艦「竹」と聞くと、私は何か平静でいられないような気持ちになります。
(「下」に続く)
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