(「上」の続き)
私は子供の頃から零戦が好きでした。長じてからは、日本海軍でいえば飛行機は零戦、そして艦艇なら駆逐艦と海防艦が好きになりました。『大空のサムライ』で知られる故・坂井三郎氏の著作に加え、『ルンガ沖夜戦』や『海上護衛戦』を愛読書に加えているのもそのためです。
当時の日本海軍の駆逐艦は、乗員の練度でいえば間違いなく世界最高の水準にあったと思います。日本海軍は日露戦争における日本海海戦のような、仮想敵・米海軍との艦隊決戦を想定し、駆逐艦には米主力艦の土手っ腹に魚雷をぶち込む役目が与えられました。
それも昼間の海戦で1回、さらに夜戦で1回と、2度にわたる魚雷戦です。そのために日本の駆逐艦は予備魚雷を搭載していて、魚雷発射管の全てを使う全線雷撃を2回行えるようにしてありました。他国の駆逐艦なら全線発射を1回行えばもう魚雷が残っていないので雷撃はできません。
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とはいえ、駆逐艦は排水量が1000トンから3000トンといった小型艦で、装甲もないため防御力がゼロに等しく、分厚い装甲の鎧に包まれた敵重巡洋艦(1~2万トン)や戦艦(3~5万トン)の砲弾が命中すれば一発で撃沈される可能性もありました。
実際に米戦闘機の機銃弾が偶然搭載魚雷に命中して大爆発を起こし、一瞬にして轟沈してしまった駆逐艦もあります(◆)。
でもその代わり、搭載している魚雷の破壊力は抜群で、その数発を命中させることで重巡洋艦や戦艦といった敵主力艦を撃沈させることもできました。表現を変えれば、海上を自走する動力を持った魚雷発射管、というのが駆逐艦の本質です。
ただし、確実に命中を期するためには思い切って目標に肉薄しなければなりません。そのために駆逐艦には快足が与えられてはいましたが、危険きわまりない大口径砲弾の雨をものともせずに接近し、必殺の魚雷を放つのです。自らの命と引き換えに、護衛者に囲まれた目指す相手を一刀で仕留めんとする刺客のようなものです。
……ともあれその昼夜を問わぬ肉薄雷撃のために、日本海軍の駆逐艦は血のにじむような猛烈な訓練を文字通り日夜、繰り返してきました。
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ところが、真珠湾奇襲で始まった対米戦争は、日本の雷撃機や爆撃機が米国や英国の戦艦を撃沈するという従来の常識を覆す「事件」からスタートしました。それまでは、航空機が戦艦を沈めることなどできる訳がない、と思われていたのです。
これによって「制空権なくして制海権は成立しない」という新たな法則が確立され、海上の戦いは戦艦同士の叩き合いではなく、航空兵力や航空母艦を中心とする機動部隊が主役を務めることになりました。
こうなると駆逐艦の役割も変わらざるを得ません。敵艦隊に肉薄しなくても、何百キロも遠くから飛んでくる航空機が敵主力艦を始末してくれるのです。
このために海戦は機動部隊同士のぶつかり合いが主流となり、一方で大平洋に散らばる島々に航空基地を設けることで勢力圏を確立する、つまり航空基地の争奪戦が勝敗のカギを握ることになりました(※2)。
そのために駆逐艦に与えられた任務は、島々の航空基地争奪戦に伴い陸軍部隊やその弾薬や食糧を運ぶ輸送船の護衛という思わぬものとなりました。日夜鍛練を重ねてきた敵主力艦への雷撃なんて出番はなく、輸送船を攻撃してくる敵航空機との慣れない戦いです。
やがて鈍足の輸送船が米軍機にどんどん撃沈されるようになると、今度は駆逐艦が自ら陸兵や弾薬を搭載し、その快速を利して敵機の飛ばない夜間に目標地点に到達し、ひそかに陸揚げを行うことになりました。
艦隊決戦の魁たらんとすることを誇りとし、またそのために腕を磨いてきた駆逐艦乗りたちは、この任務を嘆いて「鼠輸送」と自嘲しました。
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しかしこの「鼠輸送」も肉薄雷撃に劣らぬほど高いリスクを伴うものでした。いかに駆逐艦が快速とはいえ、航空機の行動半径は広いですからどうしても昼間にどこかで敵機の攻撃を受けることになります。ところが日本の駆逐艦は上述したように敵戦艦に魚雷を命中させることを主眼として造られていますから、対空戦闘については要領も装備も無きに等しいのです。
あれほど猛訓練を重ね、高い練度の乗員を揃えた駆逐艦が、全く想定されていなかった「鼠輸送」と「対空戦闘」でどんどん消耗していく、という思いもよらぬことになりました。
ときに敵艦隊と遭遇することがあっても、今度は日米の技術力の差が立ちはだかります。レーダーです。日本の駆逐艦乗りは猛訓練を経て超人的な夜間の見張り能力を有していましたが、米艦隊はそれよりも遥かに遠い距離からレーダーで日本艦隊を発見し、先制攻撃をかけてきます。
そうした逆境の中で奇跡のような完勝を収めた海戦を描いたのが『ルンガ沖夜戦』ですが、要するに例外中の例外です。現場からは本務でない「鼠輸送」などで駆逐艦と練度の高い乗員を失っていくことへの不満の声が海軍上層部に届けられます。
その挙げ句にようやく発想の転換が行われ、輸送船の護衛や「鼠輸送」を目的とする駆逐艦が大量に建造されることになりました。
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この新しいタイプの駆逐艦は艦隊決戦に使われることを想定していないので、魚雷発射管は従来の四連装×2基(合計8線)や三連装×3基(合計9線)から思い切って四連装×1基(4線)に減らされ、2回の全線雷撃を可能とする予備魚雷の搭載もなくなりました。
速力も最高27.8ノットと、戦闘艦艇としては鈍重な部類に属する巨大戦艦「大和」並みでしかありません。主砲も12.7cm砲6門を搭載するのが常識だったのを、12.7cm砲3門へと半減。その代わりこの3門は高角砲で、一応の対空火力を持つことになりました。
とはいえそれは従来の日本駆逐艦に比べれば、であって、実際に敵機の空襲を受ければひとたまりもありません。砲撃・雷撃の装備も半減していますから敵艦隊に遭遇すれば御陀仏は必定。……しかしすでに戦争は日本の頽勢が明確になってきた時期であり、技術力・工業力でも圧倒的に米国に負けている現実を前にして贅沢を言ってはいられません。
こうして造られたのが「松」型駆逐艦と「橘」型駆逐艦であり、「松」型駆逐艦の二番艦として就役したのが「竹」でした。
その竣工すなわち誕生日は昭和19年6月16日。一時は赤道を越えて南半球の一角までを勢力圏とし、オーストラリアに空襲を重ねたりしていた日本も、このころになると敗退に次ぐ敗退で、「竹」が戦列に加わってほどなくサイパン島が陥落。ここを有名なB29爆撃機の基地とすることで、米軍は日本本土の大半を空襲圏内に置くことが可能になりました。
同年も秋になると主戦場はフィリピンに移ります。米軍はルソン島南方のレイテ島に大挙上陸し、ここに橋頭堡を築いてルソン島進攻の足掛かりとします。もちろん日本軍はそうはさせじと陸軍を展開させました。
海軍も呼応して決戦を挑みますが、航空兵力の護衛が乏しいため米機動部隊の空襲などによって「大和」の同型艦「武蔵」を含む艦艇多数を失い、敗北を余儀なくされます。これがレイテ沖海戦で、神風特別攻撃隊、いわゆる特攻隊がこの時期に組織され初めて出撃することになります。
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ともあれ、日本海軍がレイテ沖海戦に敗れたことで、レイテ島をめぐる戦いは陸と空の戦闘が中心となります。
航空部隊はまだ日本の占領下にあったマニラ周辺からレイテ方面へと出撃していきますが、問題は陸軍です。陸兵を上陸させればそれでいいというものではなく、戦闘力を維持させるための食糧や弾薬、薬品、装備などを補給し続けてやらないといけません。
しかし制空権はすでに米軍に奪われています。そこでまた「鼠輸送」ということとなり、まさにそれを本務とする「松」型駆逐艦の出番となります。マニラ湾から日本軍の制圧下にあるレイテ島オルモック湾への輸送任務です。
このころになると、ガタルカナル争奪戦で懲りた日本海軍には、従来の民間から徴用した輸送船に比べれば速度の出る一等輸送艦、二等輸送艦といった自前の輸送船が登場しており、「竹」などの「松」型駆逐艦がこれを護衛して輸送任務を行う形となりました。
ところが、マニラからオルモック湾までの距離はガダルカナル島への「鼠輸送」に比べると遥かに長いのです。その長い分だけ敵機の行動圏内を昼間に航行する時間も長くなる訳で、米軍機の空襲で次々に駆逐艦や輸送艦が失われていきます。
レイテ沖海戦を生き延びた従来型の駆逐艦などもこの作戦に投入されていましたが、魚雷発射管の数と最大速力の両面で日本海軍駆逐艦の最優秀艦だった「島風」やルンガ沖夜戦で大功を樹てた歴戦の「長波」がオルモック湾で撃沈されています。
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「竹」もまた最初の輸送任務で米軍機の空襲に遭って護衛していた輸送艦2隻を撃沈され残る1隻も損傷、また「竹」自らも敵機の機銃掃射で被害を受け、乗員にも死傷者が続出しました。
いうまでもなく、無茶な作戦でした。この空襲で大損害を受けた輸送部隊の指揮官である「竹」艦長・宇奈木勁少佐は任務遂行は不可能と判断、いったんマニラに帰投する旨を司令部に打電します。
ところが司令部からの返事は「輸送任務を続行せよ」という非情なものでした。軍隊において命令は絶対です。しかし唯一生き残った輸送艦と「竹」自身の損害に照らし、29歳の指揮官は独断専行でマニラ帰投を決意し、それを行動に移しました。
マニラに入港後、宇奈木少佐は軍刀を携え、いざとなれば自裁する覚悟で司令部に出頭しました。ところが司令部では罰されることもなく、「竹」の生還を喜んでくれました。非情な命令電は司令部のそのまた上級の司令部の強硬意見によるものだったのです。
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宇奈木少佐が無事に「竹」に戻ってみると、「艦長が切腹覚悟で司令部に出頭している」ということで乗員が気魄と覚悟をみなぎらせ、「次は死んでも成功させるんだ」という気持ちでひとつにまとまっていました。
そこは乗員200名内外という小型艦の良さで、駆逐艦には往々にして家族的な雰囲気があり、一水兵にとっても艦長は雲の上の人ではなく、家長のような存在だったそうです。
そして、応急修理を終えた「竹」に再び出撃命令が下されます。輸送艦3隻を「竹」とその同型艦である駆逐艦「桑」が護衛するというもので、揚陸地点は例によってオルモック湾です。その出撃前夜、宇奈木艦長は艦内に大事にとっておいたビールや日本酒を取り出させ、全てみんなで飲み干してしまいました。
無事にマニラに戻って来られるとは思えないから、海に飲ませるより自分たちで飲んでしまおう。……という理由からで、宇奈木艦長自らが艦内各部署に顔を出して別杯を交わして回りました。このとき、負傷してマニラの病院に入院していた乗員も再出撃と聞いて病院を勝手に抜け出し、「竹」に帰艦してきました。
乗員たちの気持ちはそれほど一つにまとまり、高揚していたのです。もちろん、無茶な作戦であることには変わりがなく、乗員もみなそれをわかっていました。現代を生きる私たちには想像することのできない、決死の覚悟というものでしょうか。
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さて、11月30日朝にマニラ湾から出撃した「竹」など輸送部隊は、今回は幸運にも途中で空襲に遭うこともなく、12月2日の夜を待って一気にオルモック湾へと突入しました。輸送艦3隻が揚陸作業にかかり、「竹」と「桑」がそれを護るように湾内を遊弋して警戒にあたります。
ところが、敵に見つからず無事揚陸にかかれた輸送部隊は実は早くから米軍に発見されており、これを迎撃すべく米第七艦隊が最新鋭のサムナー級駆逐艦3隻をオルモック湾へと急行させていたのです。
サムナー級駆逐艦の武装は12.7cm砲6門、40mm機関砲12門、魚雷発射管10門。最大速力は36ノットで、どれをとっても「松」型駆逐艦のかなう相手ではありません。単純な比較でいえば、「竹」と「桑」2隻を合わせても敵駆逐艦1隻に見劣りするほどです。
この米駆逐艦3隻がオルモック湾に侵入してくるのを、湾口寄りを警戒していた「桑」が発見しました。「桑」は発光信号で「竹」に敵発見を伝達するや、見敵必殺とばかりに「竹」の合流を待つことなく単艦で挑みかかります。
しかし、高性能のレーダーを搭載し、武装も充実している米駆逐艦に対してこれはやや無謀ともいえる行動でした。米駆逐艦3隻がレーダー射撃で「桑」へ次々に命中弾を送り込み、集中砲火を浴びた「桑」はたちまち炎上、火だるまのようになってほどなく沈んでいきました。
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このとき米駆逐艦からみて「桑」より遠方にいた「竹」はようやく敵のいる方向に進路をとったところでした。勢いに乗じた米駆逐艦3隻が砲撃を開始します。「竹」も負けずに砲門を開いて応戦しつつ、雷撃の機会をうかがいます。
魚雷は3本しか搭載していませんでしたが、航走中に雷跡が残らないため敵艦がその接近に気付いたときにはもはや回避不能の間合いになっている、という日本海軍が世界に誇った61cm酸素魚雷です。
「竹」はさきの空襲でジャイロコンパスを破壊され、これは応急修理も間に合いませんでした。GPSのある現在ならともかく、当時はこのジャイロコンパスがなければ自艦の位置を正確に把握することはできません。狭い湾内でしかも夜間、暗礁があるかも知れぬ状態での行動には気を使ったそうです。
……この「竹」に関するくだりは下にある『艦長たちの太平洋戦争〈続篇〉』(これまた私の愛読書)に拠って書いています。日本海軍の各種艦艇の艦長だった人へのインタビュー集で、要するに宇奈木艦長が語り手なのですが、
じつはこの進撃の途中で、沈没した「桑」の乗員が海面を泳ぎながら、「"竹"ッ! がんばれ!」と叫ぶ声が聞こえました。すべてを私たち「竹」に託したあの悲愴な叫び声は、いまでも鮮やかに耳底に残っています。
という部分まで読むと、私は何ともたまらない気持ちになって、いつも思わず本を閉じてしまいます。この気持ちばかりはうまく説明できません。毎回しばらくして落ち着いたところでページを開き、先へと読み進みます。
靖国神社の掲示板で「駆逐艦竹会慰霊祭」という文字を最初に目にしたときもそのくだりを思い出して、掲示板を凝視したまましばらく動くことができませんでした。
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オルモック湾に話を戻しますと、1対3という劣勢のなか、米軍の正確なレーダー射撃で被弾しつつも貧弱な火力で反撃しながら、宇奈木艦長は巧みな操艦で「竹」を雷撃の好射点(魚雷発射に適した位置)へ持っていきます。
頃はよしとみた艦長と水雷長の息がピタリと合って、「竹」は手持ちの61cm酸素魚雷3本を全て発射。このうち1本が米駆逐艦の先頭を走っていた「クーパー」の右舷中央部に見事命中し、艦体が真っ二つに折れてわずか36秒で轟沈したそうです。
雷跡が見えなかったからでしょう、残る2隻の米駆逐艦は日本潜水艦の攻撃と勘違いして泡を食って逃走したとのこと。このうち1隻は「竹」の砲撃で小破したそうです。
……特に名前のついていないこの海戦、オルモック湾夜戦ともいうべきこの戦闘が、対米戦争において日本海軍が水上戦闘で米軍艦艇を撃沈した最後のケースとなりました。
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日本海軍の武勲艦といえば空母「瑞鶴」や駆逐艦「雪風」の名前が真っ先に上がりますが、私は真っ先にこの「竹」の名前が浮かびます。
なるほど出番が遅かったため踏んだ場数は少なかったかも知れませんが、29歳の艦長による独断専行、乗員の結束といったドラマ、また貧弱な火力と雷装で格上の新型米駆逐艦3隻を相手に回して奮戦し、見事雷撃を成功させて轟沈1隻・小破1隻の戦果を挙げたこと。
そして、撃沈されて漂流している僚艦「桑」の乗員による「がんばれ!」という叫び声……。
「竹」は終戦まで生き延び、外地からの復員者輸送任務を務めたあと、賠償艦として英国に引き渡されました。
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【※1】ついでにいうと、母方の祖母の実家の血筋をたどっていくと、遠縁ながら桜田門外で井伊直弼を要撃し見事その首級をあげた元水戸藩士たち(&薩摩脱藩者1名)の一人に連なっているそうです。その末裔がどういう経緯か下級幕臣となって「御家人」になった、とでもしておいて下さい(笑)。
【※2】ガダルカナル島をめぐる一連の戦いはその最たるものであり、結果的にこの争奪戦で兵力を消耗したことが日本敗戦の端緒となりました。
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大東亜戦争の戦記モノの中でも、かなーり渋めのお話が好きなのですね。私は潜水艦モノが好きですけど。
魚雷艇もしくは駆逐艦による魚雷攻撃によって、敵戦艦・巡洋艦を沈めるのは、日露戦争以降の日本帝国海軍が得意とし、他国海軍の追随を許さぬ戦術ですよね。他国では魚雷攻撃をする艦等は、せいぜい沿岸警備艦程度の木っ端役としてしか扱われていなかったにも関らず、戦術の妙を常に追求する日本帝国海軍では、海戦における陰の準主役として高く位置づけられていました(なーんて、御家人さんに鸚鵡返ししてどうする?)。
言わずと知れたマッカーサーの蛙跳び、これに対する絶対防衛圏としての日本帝国陸軍将兵の孤島での奮迅(しばしば玉砕という結末となりましたが)、それを支える鼠輸送。
それらを招いた引き金が、日本帝国海軍による真珠湾攻撃、航空機による艦船撃沈に有るとは正に歴史の皮肉です。
実は、私の祖父は、マッカーサーの蛙跳びのほぼ最終段階における比島(ルソン島)における攻防にて戦死しました。
戦死時階級が陸軍兵長だった事、所属部隊名、正確な戦死日時、戦死箇所の特定等々、数年前に靖国神社に問合せて初めて判りました(妻であった祖母は鹿児島に亡くなるまで住み、上京する機会は結局有りませんでした)。
小泉首相、靖国神社へ参拝して頂き、本当に有難う御座いました。祖父に代わり御礼申し上げます。
栃木からひとりで弟さんに会いにこられたおばあさんの話、そして勇敢に戦い戦果を挙げた竹の話。
戦争、それにまつわるさまざまな模様、思いがそれぞれにあるということ、改めて考えさせられました。
先の戦争を戦ったこういう日本人それぞれの行動や思いを、シナやら朝鮮やらケトウやらにわかってもらえなくて大いに結構、とすら言いたくなる(苦笑)。
少なくとも左派やら自称リベラルのごとく訳知り顔で十羽一からげに「軍国主義」だの「無謀」だの「愚行」だのと一言で切り捨てることはわたしにはできません。
一方で、そのカウンターに徹するあまりやはり空虚なオウム返しの薄っぺらいスローガンを叫ぶだけの「ホシュ・アイコク」みたいなのもなんだか。
自分でもっと向き合わねばな、と考えました。
歴史を専門に学んできた人間として、そして米国で働いてきたものとして、改めて歴史と言うのが描くことも、共通の認識を(特に人種を超えて)持つことも難しいと気づいた今日この頃です。
イスラエルの町にミサイルを命中させてイスラエル人を数十名殺したヒズボラの英雄がいるだろうけど、レバノン人の死者が1000人以上出ては威張れない。
やっぱり勝てない戦争はやるべきじゃない。
靖国へ来た目的の一つは、純ちゃんを見に行く為であったので(苦笑
しかしお婆さんが喜んでくれて、本当に良かったですね。
こういった話を聞く度に純ちゃん、いや小泉総理が靖国参拝してくれて本当に良かったと思います。
このお婆さんのような思いを汲んでいると思えば、小泉総理の言うあの戦争で亡くなられた方々の冥福を祈るという言葉も決して演技ではない気がします。
あと駆逐艦竹会慰霊祭と掲示板に書かれているのは自分も見ました。ですがそのような話があったのは初めて知りました。
自分も駆逐艦はお気に入りで、特にあの伝説とも言うべき駆逐艦『雪風』が大好きだったりします。
昨年大和が映画になりましたが、基本的にトラックへ駐留しっぱなしだった同艦よりは雪風や竹の方がよっぽどドラマに満ちた作品になったのではないかと思いますw
搭載していた魚雷も、当時の日本の工業力の最先端を行くような先進性故、維持整備するにもかなりデリケートな物(高圧酸素を使用するので)だったようで、またそれを担っていた殆どが義務教育までしか通えなかった人達がやっていたかと思うとまさに頭が下がる思いです。
敵兵を救助せよ!
――英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長
http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_4794214995.html
こういう話は、なかなか表に出てこないものなので戦後60年、戦中派も年老い記憶が薄れ往く中、関係者が存命中に書籍化されて良かったと思います。
もうチェックされているかもしれませんが、お知らせまで
「竹」に撃沈された米駆逐艦「クーパー」の慰霊調査をしていたダイバーが発見しました。
「Finding KUWA~桑號」
http://www.rthk.org.hk/rthk/tv/kaleidoscopeofideas/20060519.html
上記URLは香港にて編集され、生存者・遺族の証言も交えて構成されたドキュメンタリー番組です。
あ、申し送れました。私、日本側の情報提供者の一人です。縁もゆかりもない、ただの好事家ですが、どういうわけかお手伝いさせていただきました。
現在、続編進行中。来月、アメリカで「クーパー」と「桑」の生存者が60年余の歳月を経て会見します。
もし「竹」の元乗員にお会いすることがありましたら、その旨お伝え下さい。
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