東日本大震災から1年が過ぎて以降も東北の仮設住宅で見守り活動を続けているNPO法人「阪神高齢者障害者支援ネットワーク」(神戸市西区)。その理事長で看護師の黒田裕子さんは、17年前の阪神大震災から1日も休むことなく、被災者に寄り添う。
宮城県気仙沼市の面瀬中学校のグラウンドには、153戸の仮設住宅が並ぶ。黒田さんをはじめ支援ネットワークのメンバーは、この集会所で寝泊まりして、24時間の看護にあたる。
黒田さんはNPOの活動資金をまかなうため、複数の大学や専門学校の非常勤講師をかけもちしながら、月に数回、夜行バスで気仙沼に通う。
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1995年1月17日。阪神大震災が起きた日から、1日に長くても3時間ほどしか寝ていない。電気は付けっぱなしだ。「真っ暗になると、あの日助けられなかった声が、はっきりと聞こえてくるから」
当時は宝塚市立病院の副総婦長から異動し、市の老健施設の設立準備室に勤務していた。
揺れがおさまって、市役所へ向かう道すがら。「助けて」。子どもの叫び声が聞こえた。「でもここで立ち止まったら、多くの人を救えない」。先を急いだ。
いまも夜中に暗い部屋で聞こえるのは、その声だ。あの日の避難所で、きれいに泥も取れず、満足に送り出せなかった47人の遺体の顔も暗闇にはっきりと浮かぶ。
震災から約半年後、辞表を出した。あこがれの「総婦長」の椅子は目前に見えていたが、「今しか出来ないことを、今しよう」と決めた。1800人が暮らす神戸市西区の西神第7仮設住宅の敷地にテントを張り、常駐の看護を始めた。
何度訪ねても不在の部屋があった。何かがおかしい。中に入ると、男性はミイラ化していた。「私が見守る仮設では、孤独死を出さない」。そう決意した。
ローラー作戦で全戸を訪ねた。「戸をどれくらい開いたか」「声のトーンは」。チェックリストを作り、訪問の頻度を決めた。
いまも神戸の復興住宅に拠点を置き、見守り看護を続けている。トルコ、台湾、スマトラ、ハイチなど、海外の被災地でもノウハウを教えてきた。
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東日本大震災の被災地でも、孤独死寸前の状況に直面した。
昨年4月、気仙沼市。民生委員の依頼で、独居の70代の男性を訪ねた。玄関を開けると、尿のにおいが立ちこめていた。こたつに横たわっていた男性の足は、象のように腫れ上がっていた。末期の肺がんだった。
これを機に、気仙沼の避難所での看護を始めた。
おせち料理のない正月に、妻を亡くしたことに改めて気付かされ、酒量が増えた70代の男性。「悲しい」と漏らすその男性の部屋をたびたび訪問し、集会所に誘い出す。狭い仮設での介護にいらだち、母に厳しくあたってしまう男性もいる。時間をかけて話に耳を傾ける。
今後、仮設住宅から人が少しずつ減ってゆく。「取り残される不安から、部屋に閉じこもり、うつ病やアルコール依存症を引き起こす恐れもある」と危惧する。
「震災で助かった命を、絶対に落としてはいけない」。これからも、阪神と東北の被災者と向き合い続ける。
仮設住宅の集会所で被災者に声をかける黒田裕子さん(左)=宮城県気仙沼市
朝日新聞 - 2012年03月26日