ゴエモンのつぶやき

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障害者サッカーW杯で日本代表大健闘 関西セッチ選手ら普及に情熱

2014年12月31日 02時38分43秒 | 障害者の自立

 病気や事故で手足を失った障害者がプレーできるサッカー競技「アンプティサッカー」の普及に情熱をかける選手がいる。11月下旬~12月上旬に開かれた同競技のワールドカップ(W杯)メキシコ大会にも出場した日本代表、川合裕人さん(48)=関西セッチエストレーラス所属。日本代表チームは今回、初めてグループリーグを首位で突破し、決勝トーナメント戦まで進むなど、着実に実力をつけている。川合さんは「障害者であることを忘れてしまうほど迫力あるプレーを、ぜひ見てほしい」と呼びかけている。

 ◆国内チームも

 アンプティサッカーは、手足が不自由な障害者がプレーするサッカーとして海外で考案された。

 通常の障害者スポーツのように専用の器具などは着けず、日常生活やリハビリで使用する「クラッチ」と呼ばれるつえを腕に着けてプレーする。

 試合は7人制。コートは通常のサッカー場の3分の2の面積を使い、試合時間は前後半の計50分。

 国内では平成22年、アンプティサッカー元ブラジル代表の日系3世、エンヒーキ・松茂良・ジーアスさんが義肢を作るため来日したのを機に知られるようになった。

 国内の義肢の装具士などから話題が広がり、国内でもチームが設立され、平成23年には初の公式戦も開催された。

 ◆交通事故乗り越え

 川合さんは小学2年でサッカーを始めたが、21歳でトラック運転手の仕事中に交通事故に遭い、左足を失った。

 その悲劇を乗り越えようと、息子の所属する少年サッカーや、地元の女子フットサルチームで指導者を務め、サッカーの普及に貢献した。

 そんな時、テレビで特集されていたアンプティサッカーの試合を知り、「自分がやりたいのはこれだ」と直感。日本アンプティサッカー協会に電話し、練習に飛び入り参加した。

 クラッチを使った走り方の指導を受け、「スポーツっておもしろい」と、たちまち魅了された。

 43歳で当時国内に唯一あった東京のチーム「FCガサルス」に入団。「この年齢でサッカーができるなんて、夢にも思わなかった」と振り返る。

 ◆猛練習の果てに

 ただし、当時自宅があったのは三重県伊賀市。市内の道の駅のうどん店で働き、新聞配達もこなしながら練習に励む多忙な日々が続いた。

 月3回の練習日には、新聞配達を午前3時半までに終わらせ、4時半に自宅を出発。約7時間かけて練習場のある埼玉県まで車で通った。練習後に帰宅すると、翌日の午前3時になっていたことも。

 次第に「大阪にチームを作り、もっとアンプティサッカーを広めたい」との思いが強まり、関西在住のチーム選手らに呼びかけ、府内に拠点を置くチーム「関西セッチエストレーラス」を結成した。いまも代表と選手を務める。

 ◆挑戦続く

 W杯には、日本代表は2010年アルゼンチン大会から参加。川合さんも2012年のロシア大会から出場している。

 今回のメキシコ大会では、初のグループリーグ突破を果たし、決勝トーナメントに進出した。惜しくも初戦でアンゴラ戦に0-1で敗れたが、念願の決勝トーナメント進出に手応えもつかんでいる。

 川合さんによると、国内のアンプティサッカーのチーム数は増えているが、競技人口は70人程度と、まだマイナーな競技だ。そのため試合数が少ないほか、国内に専用コートも確保できず、置かれた環境は厳しい。

 それでも川合さんは「ブラジルなどのように、もっと普及させて国内でも認知度を高めたい」と意気込みもみせる。

 来年5月には府内で国内大会も計画しており、川合さんは「普及には実際に試合を見てもらうことが大事。ぜひ観戦に訪れてほしい」と話している。

2014.12.30       産経ニュース


【累犯障害者 塀の中の福祉】「パチンコ勧誘」題材に教育プログラム 犯罪の誘惑に負けない心 ...

2014年12月31日 02時33分10秒 | 障害者の自立

「お金を返してくれへんかって、手ぇ出してしまった」。播磨社会復帰促進センター(兵庫県加古川市)の「特化ユニット」で服役し、軽度の知的障害がある20代の男性受刑者は、そう語った。

 男性は3年前、とび職人として勤務していた建設会社の社長らとともに、同僚の男性=当時(29)=を殴って死なせ、傷害致死罪で実刑判決を受けた。

 被害者は同居生活を送る親友。貸していたのは10万円弱だった。酒の勢いがあったとはいえ、社長が「殴りに行くぞ」と号令をかけたとき、断ることはできなかった。

 もし現実は実行犯として利用されたのだとしても、人の命を奪った事実は消えない。男性は、遺族に謝罪の手紙を書き、賠償金を用立てた。どちらも受け取ってもらえていないが、償うという気持ちだけは持ち続けている。

 「あんとき、あの場におらんかったら…」。男性は、絞り出すように後悔の念を口にした。

きっぱり意志伝達

 「断る力」。平成21年に経済評論家の勝間和代氏が書いたベストセラーのタイトルだが、罪を犯した知的障害者にとっては不可欠な能力といえるかもしれない。

 特化ユニットで行われる教育プログラム「社会生活技能訓練」(SST)。対人関係のトラブルを想定した実践訓練の中に「上手に断る」という単元がある。

 「おう、お前暇やろ、パチンコ行こうや。新台出てんって」「さ、誘ってくれて、あ、ありがたいんですが、えーと、パチンコやめようと思ってまして…」

 「お前」と呼ばれた男性受刑者は、実際に友人からの誘いを断りきれずパチンコにのめり込み、金に困って罪を犯した。ほかの受刑者たちの前で、当時と似た状況を再現していたのだ。

「先輩は新台が目的なので、この日だけどうしても用事があると言うのもいいですね」。先輩役を演じた臨床心理士の男性(30)は、断り方の選択肢を多く持つよう勧めた。そして、好意を示しつつきっぱりと意志を伝えることが大切だとも説いた。

訓練は「心の貯金」

 民間の発想と福祉の視点を生かすPFI刑務所に、課題がないわけではない。

 契約上、収容されるのは服役が初めての受刑者に限られている。障害の程度も軽い。精神年齢が4歳7カ月と鑑定された「累犯障害者」の男(37)が入所する可能性は、ないのだ。

 処遇のレベルを一定に保つことも難しい。民間の提案で決まる教育プログラムの内容は、国側が毎年検証し、効果がないと判断すれば見直す。受刑者の入所時期によっては、訓練内容が変わってしまう。

 これらは、刑務行政のかじ取り次第で解決する可能性はあるが、どうにもできない問題もある。大西洋調査官(53)が、悔しさをにじませつつ話した。

 「刑務所から一歩外に出たら、われわれは手を差し伸べられない」

 前掲書「断る力」には「自分の『コーチ』は『自分』しかいない」とあるが、知的障害を抱えた受刑者が出所した後で必要なのは、犯罪の誘惑に負けない心を持たせ続けてくれる「コーチ」の存在だろう。実社会では誰かの助けが必要になるのだ。

 ある民間スタッフは、刑務所で知的障害者が受ける訓練を「心の貯金をためること」とたとえ、「社会で貯金を使い果たせば、また彼らは刑務所に戻ってくる」と危機感を口にした。

 刑務所を出たばかりの累犯障害者は、どこでどんな支援を受けているのか。

2014.12.29       産経ニュース


全盲女性 私も九条の会 70歳 デモには行けないけれど

2014年12月31日 02時25分35秒 | 障害者の自立

 視覚障害者の仲間らとともに、憲法九条の大切さを訴えようと、東京都板橋区の全盲の主婦女性(70)が九条の会を発足させた。衆院選の結果を受け、安倍政権が集団的自衛権の行使容認に向けた法制化を進めようとする中、女性は「私はデモにも集会にも行けない。できることは付き合いがある人と自宅で九条を勉強すること」と、障害者のネットワークを通じ活動の輪を広げようとしている。 

 会の呼び掛け人は鬼塚洋子(きづかひろこ)さん。板橋区の都営三田線西台駅近くに住むため「西台駅前九条の会」を十一月下旬につくった。

 鬼塚さんは第二次世界大戦中の一九四四年十一月、両親が疎開していた埼玉県浦和市(現さいたま市)で生まれた。米軍が浦和市にも焼夷(しょうい)弾を落とし、両親が生まれたばかりの自分を毛布にくるんで逃げたと聞かされた。

 「一つ間違えたら、自分は死んでいた。戦争とはそういうもの」。戦後間もなく憲法九条ができ、「私は憲法の恩恵を受けながら育った世代」と戦争放棄の意義をかみしめてきた。

 もともと目は見えていたが、三年前から網膜色素変性症が進行。昨年十二月、自宅で転び右足首を骨折し、緊急手術を受けた影響から視力を失った。

 「これ以上悪くなりようがない」。気持ちをふっきり、ラジオを聞くようになると、安倍政権が集団的自衛権の解釈改憲を閣議決定したことが気になり、勉強会の発足を決めた。

 「孫が生まれてから九条は大切だという思いが強くなった」「九条が変えられようとしているのはいけない」。自宅マンションで開かれた勉強会で参加者たちと懸念を話し合う。

 メンバーは六十~七十代の七人。鬼塚さんをはじめ、四人が地元の障害者団体の交流などを通じて知り合った視覚障害者だ。二カ月に一度の開催を予定する。

 鬼塚さんは「米国と一緒に集団的自衛権を行使すれば、日本がテロ攻撃を受ける。でも障害者は一人で逃げようもないし、自分で身も守れない」と指摘する。

 最近も行きつけの飲食店などで声をかける。「ほかにも九条を守ることに関心を寄せる人がいる。今後も新たなメンバーを誘いたい」と話す。

 鬼塚さんは「戦後日本が戦争をせずに発展してきたのは九条があったから。勉強を続けることで各メンバーが九条の知識を身に付け、一年後には、それぞれが知人に声をかけて新たな九条の会をつくっていければ」と期待している。

 勉強会に講師として参加した「九条の会」事務局長の小森陽一・東京大大学院教授(61)は「今回の衆院選の結果は、経済政策への支持で、集団的自衛権の解釈改憲を認めた人は少ない。自衛隊の海外での武力行使を認めないよう草の根の世論を高めていきたい」と強調している。

 <九条の会> 2004年6月、作家の大江健三郎さんや哲学者の梅原猛さんら有識者9人が、憲法9条を守り、改憲を阻止しようとして発足。活動の趣旨に賛同して、草の根の市民による団体が次々とでき、現在は約7500の会がある。今年10月には、安倍政権の集団的自衛権の行使容認の閣議決定に抗議して、初の統一活動月間を呼び掛けて、全国で集会や街頭活動が行われた。

「九条の会」事務局長の小森陽一・東京大大学院教授(右端)を講師に招き、勉強会を開いた鬼塚洋子さん(左端)=東京都板橋区で

2014年12月30日     東京新聞


「子育て安心県」へ、県と市町村が協働 「3人以上」いる世帯支援強化

2014年12月31日 02時22分50秒 | 障害者の自立

 少子化が進んでいることを受け、県と市町村は、「みんなで支える子育て安心県」を構築するとの決意を表明した。子育てに伴う経済負担の軽減や子育てと仕事の両立支援などに行政が一丸となって取り組むとともに、地域や職場など社会全体で子育てや子の育ちを支えてもらうよう県民への協力も求めた。

 市長会、町村会と一緒に25日に会見した阿部守一知事は「子育ての負担感や不安感が増大しているなか、市町村と問題意識を共有して支援していこうという、きょうが第一歩」と述べた。具体化のため、県は市町村の担当者らと議論を重ね、子育て支援戦略(2015~17年度)をまとめた。

 経済的な面では主に、子が3人以上いる世帯(多子世帯)への支援を強化。保育料については現行でも、第3子以降を無料にする国の制度があるが、県では上の子が同時に入所しているといった要件をなくす。市町村に対するこの独自支援のために、来年度当初予算に約3億円を要求していく考えだ。

 また、子どもの医療費助成も拡充。負担が大きい入院に関して、従来の小学3年生までから中学卒業までに広げる。障害者の医療費助成では、18歳以下の子どもについて世帯の所得制限を撤廃する方針。

(朝日新聞 2014年12月28日掲載)


振り返る2014年の危機管理 行政の「限界」を知り、自ら備える防災力を

2014年12月31日 02時14分35秒 | 障害者の自立

今年も多くの大規模災害や事故が発生した。

総務省消防庁がまとめている災害情報に掲載された災害・事故の死者を集計すると189人となる。8月に広島市で発生した土砂災害による死者が74人と最多で、次いで御嶽山の噴火が57人(6人行方不明)、2月の豪雪関係が26人と続く。災害別にまとめてみると、台風や前線に伴う大雨に関連した災害による死者が99人で、噴火が57人、豪雪が28人、その他工場の爆発事故が5人となっている。海外では、韓国のフェリー転覆事故やマレーシア航空機の墜落など、人為災害が目立った。そしてエボラ出血熱の感染拡大など、未知の脅威もくすぶっている。

今後の危機に備え、いかに備えを進めるべきか。今年国内で大きな被害をもたらし災害の教訓を振り返ってみたい。

リスクコミュニケーションの不足
広島の土砂災害は、8月20日未明の突発的な豪雨により大規模な土砂災害が発生し、74人が犠牲になった.

行政の「避難勧告の遅れ」が問題視されたが、課題はそれだけではない。広島県は花こう岩が風化してできた、もろくて崩れやすい地質「真砂土(まさど)」が多いことが指摘されており、平成11年6月にも、大雨に伴う土砂災害により、県内の南西部を中心に死者および行方不明者32人、住家の被害が4516棟に及ぶなど、甚大な被害が発生している。県指定の土砂災害危険個所は全国最多の3万1987カ所あり、被害が出た安佐北地区や、安佐南地区も含まれていた。そればかりか、大きな被害が出た一部地域は土砂災害防止法の「警戒区域」にすら指定されていなかった。過去の災害の教訓が街づくりに生かされていなかったことは大きな反省点と言える。

避難勧告の遅れについては、発令基準が曖昧だったとことに加え、未明ということもあり、下手に避難勧告を出せば逆に住民を危険な目に遭わせかねないなど、迷いがあったことが判断を鈍らせた。

内閣府が昨年の伊豆大島の災害を受けて作成した「避難勧告の判断・伝達マニュアル作成ガイドライン案」では、従来の避難所への避難だけでなく、家屋内に留まって安全を確保することも避難行動の1つと明記するとともに、空振りを恐れず早めに避難勧告を出すことや、避難が必要な状況が「夜間・早朝」になる場合でも躊躇することなく発令すること、場合に応じて「避難準備情報」を発令することなどを提案しているが、これらが現場市町村に浸透していなかった。

しかし、これらを可能にするためには、災害発生前からの、住民とのコミュニケーションが不可欠になる。行政の対応に「限界」があることを住民が知ることで、災害発生時にはじめて住民が主体的に考え、行動が起こせるようになる。逆に、住民は、行政が自分たちの生活を守ってくれるなどという甘えを捨てるべきだ。基本は自分たちで必要な情報を入手し、適切な行動をとる。そのために平時から備えをすることが自助である。行政を公助の船と捉えるのではなく、お互いに自分たちの地域を守っていく責務があることを認識した上で、平時から、行政のできること、住民が果たすべき役割を話し合い、備えておくことが重要ではないか。

 未知の脅威への対応

今年2番目に大きな被害を出したのが御嶽山の噴火だった。

9月27日に噴火した御嶽山は、噴火の予知ができず、結果として57人が犠牲になり、依然6人が行方不明のままだ。9月11日には1日80回を超える地震が観測され地震活動が活発になっていたにもかかわらず、それが噴火の前兆とは分析されず、さらに、こうした情報が住民レベルまで届いていなかった。

過去を振り返れば、2000年3月の有珠山噴火では、地震活動が活発化したことから、直前に噴火を予測する緊急火山情報が発表され、これを受け周辺住民の避難が行われたことから1人の犠牲者も出さなかった。2009年2月の浅間山の噴火でも、噴火前に警戒レベルを上げ、これにより道路規制などが行われ噴火被害を最小限に抑えることができ、いずれのケースでも噴火予知は機能した。

しかし、これらの予知はたまたま機能したかもしれないという謙虚さを、行政も、住民も忘れ、自然災害の脅威を軽視してしまっていた。

現在、国内で選定されている110の活火山のうち、常時観測されているのは47のみ。これらの火山は、気象庁が2009年6月に、中長期的な噴火の可能性および社会的影響を踏まえ「火山防災のために監視観測体制の充実等の必要がある火山」として選定したものだ。御嶽山は常時観測の火山に含まれていたが、火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長は、御嶽山の噴火前から「火山の観測ができているからといって、火山噴火予知がすでに確立しているというわけではない」と指摘してきた。山の中でマグマの状況がどうなっているかは、残念ながら現在の科学レベルでは完全に把握できないということだ。

実際、今年3月には箱根山で活発な地震活動が観測されたが噴火に至らなかったし、蔵王などでは、今も地震活動が観測されている。重要なことは、こうした未知の領域があることを行政も住民もそして専門家も正しく認識した上で、平常時から、少しの変化などでも空振りを恐れず伝える「リスクコミュニケーション」だろう。その意味では、広島の土砂災害と同様、行政と住民、そして専門家の平時からの関係が問われている。

我々が経験したことのない災害は噴火だけではない。大火災、エボラ出血熱や強毒性新型インフルエンザなどの感染症、スーパー台風など数を挙げればきりがない。これらに対応するためにも平時からのリスクコミュニケーションが不可欠になる。 

行政の限界を超えた住民力
最後に、公助の限界を理解し、住民が自助を果たした事例として長野県の神城断層地震での住民の対応を紹介したい。

11月22日に発生した「長野県神城断層地震」の住宅被害は全壊77棟、半壊136棟、一部損壊1624棟(12月24日時点長野県発表)におよんでいる。近隣の住民たちが下敷きになった家屋の中から被災者を助け出すことなどにより1人の犠牲者も出さなかったことは「白馬の奇跡」と呼ばれるまで評価されている。

長野県警の発表によると、被害が大きかった白馬村神城(堀之内地区)では、26人が倒壊した民家の下敷きになるなどしたが、全員が救出された。多くが近隣住民の手助けによるものだった。

農村部ということもあり、農機具や山林整備に使う器具を持っている家が多かったことが幸いだったとも言えるが、近隣を知り、普段から助け合う共助ならぬ「近助」が機能した防災のモデルケースであったことは確かだ。

その裏付けとも言えるのが、白馬村が4年前から作成している「災害時住民支え合いマップ」だ。災害時に自力避難が困難な高齢者や障害者の住宅を地図に落とし込み、誰が手助けするかを地域で決めて地域で共有するためのもの。

区より小さな組の単位で地図をつくり、要支援者のいる家屋に赤い〇のマーク、支援する側に青い〇のマークをつけるなど、住民が助け合える仕組みを構築してきた。

ちなみに白馬村は29の行政区に分かれている。地区ごとに「区長」を頂点としたピラミッド型の住民組織が築かれ、86世帯230人の堀之内地区では、地区の下に10世帯ほどを束ねる8人の組長が、さらに組長の下には補佐役もいる。

こうした組織単位で、マップの作成や更新を通じ、 誰がどこにいるか普段から声をかけ合い、何かあったときも 『あの家にはお年寄りがいる』 『あの家には何人住んでいる』と直ぐに分かる仕組みができていた。こうした備えが死者ゼロにつながったと、白馬社会福祉協議会の山岸俊幸事務局長は話す。

災害時住民支え合いマップは、 長野県が2005年にひな形を示し、県か市町村に策定を促してきた。2014年3月末時点で、県内77市町村のうち、66市町村が取り組んでいる。白馬村では目標29地区中、堀之内地区を含む16地区が策定済だ。

一方、被害が大きかった大北地域に限って言えば、公設消防により救出された例はわずか2件にとどまる。

地震が発生した11月22日は、1人が非番で、10時半ぐらいに最初の電話が入った。内容は、被災中心地からは離れた八峰根のロッジで、倒れてきたスキーで手を切ったという軽傷だった。その後、11時ぐらいに被害が最も大きかった白馬村の神城地区から住民が下敷きになっているとの救助要請が入り、救急車が出動。現地に到着すると、地元住民が下敷きになっている現場へ案内し、救出活動にあたった。救出した被災者は、20キロほど離れた大町市内の病院に搬送。代わりに応援の救急車が広域消防本部から駆けつけ、もう1人を救出した。公設消防での救出はこの2件だけだ。

消防の活動が遅かったわけではない。白馬村、小谷地域を管轄する北アルプス広域消防署には、常時緊急出動できる車両が2台しかなく、職員はわずか8人体制。毎日、1人が非番になるため、実質動けるのは7人。1台の救急車あるいは消防車に3人が乗って出動すれば、1人しか残らない。これで、約447平方キロメートル、人口約1万2000人の地域を管轄するわけだから、手の回しようがない。

驚くことに、白馬に次いで被害が大きかった小谷村からは救助要請も入っていないという。小谷村では、家屋の全壊などが比較的に少なかったこともあるが、被災直後から地元消防団が見回りを開始し、危険家屋の住民を避難所に移すなどの活動にあたった。もともと、1軒1軒が離れポツリポツリとたつ山間部では、近所を見回るだけでも限界がある。その意味では、消防団の活動が共助の限界を助ける上では今後も期待されることは間違いない。公助の限界があることを知り、防災に備えたことが白馬、小谷の奇跡を生んだと言えよう。

 住民力におけるこれからの課題

ただし、白馬の事例を、本当に「美談」だけにしていいのかという点については、あえて課題を提起しておきたい。公設消防に限界があるとは言え、住民が危険な地域で救出活動にあたることが、十分な検証がないまま「美談」とされてしまってはならない。現地には、1階がつぶれ、2階が中ぶらりになった建物もある。ちょっとした作業で、建物全体のバランスが崩れ、二次災害に発展することは十分考えられる。

今後の対策として求められることは、当然のことながら、住民による救出活動の負荷をなるべく減らすために、耐震化や家具の転倒防止について、一層推進していく必要があるということ。特に一人暮らしの高齢者などは、費用のかかる耐震化への理解を得ることは難しい。しかし、仮に被災してしまった時に、救出にあたってくれる近所の方までを危険な目にあわせるかもしれないということを認識してもらえば、多少なりとも耐震化への動機付けにはなるかもしれない。「自分はどうなってもいい」という考えは、共助の根底を揺るがす。支援者側だけでなく、要支援者の防災教育が今後は求められる。

一方で、救出する側にもルールが必要だ。勇猛果敢に被災家屋から被災者を助けることは、結果が無事ならば、それほどありがたいことはないが、もし自らが被災すれば、自分を助けようと、さらに多くの人が被災する危険性もある。

例えば、見回りに行く時には必ず2人以上で回る、危険性の判断を十分に行った上で自らの安全性が確保できれば救助にあたる、そうでなければ公設消防の到着を待つ、救出後の搬送先を決めておくなど、あらかじめ対応の心得を持っておくことも重要ではないか。

東日本大震災で甚大な被害を被った岩手県大槌町では、安渡地区が独自の地区防災計画づくりに取り組んでいるが、その中で、老人への避難の説得は15分までにするというルールを検討している。この地区では、駄々をこねる老人を「こすばる老人」と呼んでいるが、東日本大震災では津波警報が発せられても「ここから動きたくない」と、駄々をこねる老人が多く、老人の避難を支援している最中に津波に巻き込まれた消防団員も出てしまった。

来年は阪神・淡路大震災から20年目を迎える。おそらく、あと1つでもマグニチュードの値があがれば、白馬、小谷だけでなく長野市を含めた街は、当時の神戸の姿のように一変していたことを肝に銘じておかなくてはならない。

災害は突然やってくる。今日できることは今日やっておかなければ必ず後悔する。個人でできること、家族でできること、そして隣近所で、地区全体へと弾み車を回していくことが求められる。

リスク対策.com     [2014/12/29]