ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

相模原殺傷3年、福祉施設の防犯強化6割 静岡の教授ら全国調査

2019年06月26日 12時59分35秒 | 障害者の自立

 相模原市の障害者施設殺傷事件から3年となるのを前に、静岡県立大短期大学部の佐々木隆志教授らでつくる研究グループが全国の社会福祉法人に実施した調査で、回答した280法人計410施設のうち6割近くが事件後に防犯対策を強化したことが24日、分かった。障害者関連施設に絞ると、約7割が対策を強化した。  740法人に無記名アンケートを送付し、回収率は38%。防犯対策を強化したのは242施設で、うち防犯カメラを新設または増設したとする回答が最多で約6割。次いで、警備会社との契約や刺股を用意した施設が目立ち、窓鍵の付け替え、フェンスの補修などもあった。全施設の整備費の合計額は約4億6千万円に上った。  一方、施設利用者や保護者のケアに関する質問では、7割近くの施設が「特別な支援や説明会などを実施していない」と回答。「実施した」と答えた施設は、保護者会を開催して防犯対策について説明するなどの対応を取ったという。夜勤職員や警備員を増員した施設はほとんどなかった。  佐々木教授は「ソフト面よりもハード面の対策が目立ったことが興味深い。施設の人手不足が原因で、防犯カメラ設置などハード面の対策に頼らざるを得なかったのではないか」と指摘。事件で起訴された植松聖被告が元職員だった点から「事件を防ぐためには職員の倫理観を高める取り組みも重要」と訴えた。

2019/6/25        静岡新聞NEWS


ADHDの元教員で自閉っ子の母親が気付いたこと

2019年06月26日 11時54分52秒 | 障害者の自立

 私が教員だったころに勤務していた地域では、給食費がまだ現金で集められており、クラス担任が管理していた。あるとき、私の数え間違いにより、全校の教員を招集してお金を数え直さなければいけない事態に陥った。多忙な教員たちの時間を奪ってしまった、その原因が自分であると判明したあの瞬間の、背筋がゾッと凍るような思いは今も忘れられない。そういうケアレスミスがしょっちゅうだった。

「できる自分像」に憧れ「助けて」と言えなかった

 さて、私には自閉症のある息子がいる。現在小学2年生で特別支援級に在籍している。

 教員をしていた私は、職業柄多少なりとも発達障害についての知識があり、彼の特性には割と早い段階で気が付いていた。そして、2歳で診断を受けたときにも、不安はもちろんあったのだが、「なんでうちの子が!?」といった絶望感のようなものはなかった。これまでに一緒に学んだ、個性豊かな子どもたちの輝きを知っていたからである。

 息子との日々を過ごすまで、私はなかなか人に「手伝って」「助けて」ということができなかった。今振り返って思えば、「できる自分像」みたいなものに憧れていたからかもしれない。または、仕事をバリバリすることで、人様から認められたかったのかもしれない。いずれにせよ、できないことは恥であるような気がしていた。教壇に立って、子どもたちに「失敗してもいいんだよ。」と言いながら、自分自身にはそんなふうに思えないという矛盾を抱えていた。

 

 しかし、息子と共に過ごし、療育施設での障害を抱える子どもたちとの出会いを通して、そんな自分の価値観は変わっていった。子どもたちと過ごす中で、何かができることとその人の幸福感は、必ずしもイコールではないと感じるようになったのだ。

 できないことがあってもいい。必要なのは、「人と比べてできないことを嘆くこと」ではなく、その人に合った「工夫」を見つけ、前進していくことなのだ。急な予定変更が苦手な息子が、手順表を使うように。私が数え間違い防止のために、ダブルチェックをお願いするようになったように。

障害を開示して職場復帰

 産前の職場では度重なる失敗で同僚の教員から信頼を失い、うつ状態で産休に入った。そんな私にとって、育休から復職することは恐怖でしかなかった。

 しかし、息子との日々のおかげで、できないだらけの自分を隠さずにもう一度やってみようと思えるようになった。そして復職後、職場の教員たちにも、子どもたちにも自分の苦手なことについて伝えて、様々な場面で助けてもらいながら教員として最後の1年を過ごすことができた。

 毎日記名したポーチに貴重品を入れて首からぶら下げ、自分なりに工夫を重ねながら働いた。その年、充実した日々を過ごせたのは、もちろん周囲の理解があってのことだったが、自分ができない自分を責めるのでなく、どうやって工夫すればよいかを考えるようになったことも、大きかったのではないかと思う。その1年でたくさんの方から自信をもらった私は「得意を追求して仕事をしていきたい」と考えるようになり、退職してフリーランスになった。

 

 教員生活の中で出会った子どもたちには、一人ひとりとの思い出があるが、その中でもひときわ印象に残っているのは、ある年に受け持ったクラスの男の子だ。

 彼は、他害や飛び出しといった行動はなく、45分の授業を着席で過ごすことができた。しかし学習について、こちらが言っていることの理解が難しい場面もあった。意欲的に発表してくれる場面もあったが、会話のやり取りが成立していないことも。

 彼が心の底から「わかった!」「楽しい!」と思って学べた時間が、いったいどのくらいあっただろう。個別の課題を作成したこともあったが、自分の力不足で、毎時間そのように課題を調整し、フォローしていくということができなかった。45分の授業を1日4コマ、5コマ……。理解の難しい授業の中で、そこに居続けることに、彼の貴重な人生の時間が費やされた。私にできることがもっとあったはずだという思いが、今も残っている。

一人も見捨てない教育『学び合い』

 そんな思いを抱える中で出会ったのが、『学び合い』というインクルーシブ教育だ。これに関した書籍は現在50冊以上が出版されている。そのうちの一つを読み、障害の有無にかかわらずみんなが一緒に学べるという内容を読んだとき、私ができたはずのことが、ここにあるのかもしれないと感じた。そして、退職後すぐに、この教育を提唱している上越教育大学の西川純教授の研究室を訪問した。

 私が知りたいのはただ一点。「みんなで一緒に学べる」というのは、本当に「みんな」なのか、重度の障害を持つ子どもたちも含まれているのか、ということだった。

 この授業は、教員は課題を提示するのみで、子ども同士が教え合って課題達成を目指す。ルールは一つだけある。「一人も見捨てないで」課題達成を目指すというものだ。すなわち、障害のある子も、勉強が苦手な子も、「全員で」ということがポイントになる。障害のある子どもにとって、その課題のハードルが高すぎる場合にも、子どもたちが主体的に検討し、絶妙な設定の課題を考え出し、教員に提案したという事例を教えてもらった。

 

 この教育は、弱者だけにメリットがあるわけでない。ビジネスシーンで取り上げられることの多い、「2・6・2の法則」がある。集団は上位層2割、中間層6割、下位層2割で構成されるという論だ。仮に下位層の2割がいなくなったとしても、残った集団の中でまた2・6・2という構成になる。つまり、障害のある人を切り捨てるような社会は、次の弱者も切り捨てる可能性があるということだ。

 トカゲのしっぽきりは永遠に終わらない。「いつ自分が切られるかわからない、そんな社会で、あなたは安心して暮らせますか?」ということなのだと思う。一人を切る集団は、その次の一人も切る集団となり得る。「一人も見捨てない」を目指すことは、みんなにとって安心な場所であることを意味するのだ。

 さらに、障害を含め、世の中にはいろいろな人がいて、自分の当たり前はその人にとっての当たり前ではないということ、その中で折り合いをつけていくことを子どものうちから知ることが、全ての人にとってのメリットとなる。そうやって学んでいく中で、子どもたちは仲間を作ることができる。一人ひとりの違いを知ることができる。それこそが社会に出た時、子どもたちの生きる力につながっていく。

本当に必要な教育とは何か?

 昨年4月に就学した息子の、初めての授業参観の日。参観した特別支援学級での、滞りなく進む授業に、私は一人がくぜんとした。その日は五つある特別支援学級の合同授業で、その場には複数の教員、介助員がいた。子どもたち全員で図工の制作を始めることになったが、驚くほどに子ども同士の交流がなかった。

 子どもたちはみんな何かあれば教員や介助員に声をかけていた。私の息子は気分が乗らなかったのか、隅の方にたたずんでいた。そして、そこに声をかけにくる子どもも、一人もいなかった。彼はついにその1時間、クラスの子どもたちと一度も関わることがなかった。視線を交わすことすらなかった。

 誤解のないように補足すると、息子は毎日登校するのを楽しみにしているし、特別支援学級での教育に日々尽力しておられる先生方には感謝の気持ちしかない。しかし、子どもたちが社会に出て生きていく上で本当に必要な教育ってなんだろうと考えさせられる時間となった。

みんなにとって心地よい場所とは

 文部科学省の「特別支援教育資料(2019年度)」によると、全国の地域の小中学校の中に併設されている「特別支援学級」の在籍者数は、64947人。障害を持つ子どもだけが集まる「特別支援学校」の在籍者数は、幼稚部から高等部まで含めると、141944人。

 特別支援教育についての周知や、発達障害に関する情報の広がりとともに、適切な支援を子どもに受けさせたいと願う保護者も多いだろう。それは、「彼がこのクラスで費やした時間に、もっと彼に適した場所、教育を提供する道があったのではないか」という、自分の思いとも重なるように思う。

  しかし、「彼に適した場所」とは一体どんな場所なのだろう、とも考える。

 それは、区切られた特別な場所ではなく、みんなにとって心地良い、みんなの場所であるべきではないだろうか。いろんな人がいるこの社会で、子どもたちは生きていくのだから、いろんな人がいる環境で、みんなで知恵を絞って工夫をしていくことが、社会に出たときに役立つ教育と言えるのではないかと思う。

 先に述べた、ある年のクラスの児童を巡り私が抱えていた課題、つまり「どうしたら彼がもっと充実した時間を過ごすことができるのか」という課題は、私一人で抱えるのでなく、クラスみんなで考えれば良いのだ。

 子ども30人に対し、カリスマ教師でもない私一人ができることなんて知れている。しかし、子どもたち一人ひとりに力を借りれば、チームとしてなし得ることは無限に広がる。

ダイバーシティーを進める町工場

 企業は共生社会をどのように捉えているのだろうか。

 神奈川県小田原市にある川田製作所を訪ねた。社員19人のうち、障害者6人、高齢者6人、外国人3人が働き、経済産業省が2017年度のダイバーシティーに力を入れて経営する企業100選に選ばれた町工場だ。性別、年齢、性格、学歴、価値観、国籍など多様性を受け入れて人材活用することで生産性を高めることを目指すダイバーシティー経営を実践している。障害者雇用は30年前に始めたという。

 そこで、障害者雇用で働く、勤続4年目の社員に、話を聞かせてもらった。数を数えたり、数字を書いたりすることが難しいという。当初製品を数える場面でミスが重なり、彼にとっても大きなストレスだった。そこで副社長が現場のスタッフを交えて一緒に考案したのが、製品のカウントにカウンターを使うというアイデアだった。これで数の間違いはなくなり、ストレスは軽減された。そこにとどまらず、健常者の職員も「それ使いたい!」と言って同じ方法で取り組み、業務の改善につながったという。

 副社長は、以下のように教えてくれた。

 「そういった困難さを抱える人たちが職場にいてくれることは、むしろ会社に良い影響を与えていることが多いんです。そつなく業務をこなす人たちが10人いる職場では、それなりに数値が出せると思います。しかし、課題を抱える10人が前者と同じ数字を出すためには、コミュニケーションを取って協力し合わなければならないですよね。そうやってチームワークで数字を達成したとき、後者は全員が活躍し、一人ひとりが輝いている組織になる。そしてその輝きが時間とともに高まり、結果的に数字の上でも前者を上回る組織になっていくのだと考えています」

共生社会はみんなにとってワクワクの世界

 以前、乙武洋匡さんに会ったことがある。彼は、これまで障害だったものも、テクノロジーの力によって軽やかに乗り越えられるようになるだろう、と話してくれた。そして、昨年11月に期間限定でオープンした、寝たきりや難病などで外出することが困難な人たちがリモートでロボットを操作して接客するカフェ「DAWN ver.β」について教えてくれた。そんなふうに、創造性を持って、みんなで知恵を出し合えば、あっと驚くような素敵な工夫や発明も、これからどんどん生まれていくんじゃないかなと思う。

 障害の有無によって人を分けて社会を形成するということは、無限の可能性を置き去りにする行為なんじゃないかと思う。

 「分ける」から「まぜる」へ。

 多様な人がどのように生きているのかを知り、つながることで、私たちは思いも寄らない化学反応が起こせるのだと思う。きれいごとでなく、道徳的観点からでもなく、みんなにとってメリットのある、一人も見捨てない社会。それは、誰にとっても、過ごしやすい場所を意味している。

 みんながごちゃまぜに生きていく、そんな共生の道は、わくわくした未来につながっている気がしている。

雨野千晴(あめの・ちはる)
ライター、講師、漫画家
 1981年生まれ。北海道出身、神奈川県在住。元小学校教員。自閉症・児者親の会会員。36歳の時にADHD不注意優勢型の診断を受ける。うっかりな自分を楽しむ「うっかり女子会」(120人参加)のfacebookグループを運営。障害の有無に関わらずみんな違ってみんないいを体感できるお祭りイベント「あつぎごちゃまぜフェス」実行委員長。ブログ 「うっかり女子でもちゃっかり生きる

 

雨野千晴 ライター、講師、漫画家


津田塾大学でPINGUINC.編集長が講義を実施 学生のダイバーシティへの認識が変わる機会に

2019年06月26日 11時42分40秒 | 障害者の自立

~障害者雇用の現場から、ダイバーシティをビジネス視点で考える~

障害者の就労支援を中心にソーシャルビジネスを展開する株式会社ゼネラルパートナーズ(本社:東京都中央区、代表取締役社長:進藤均)は、2019年5月14日(火)に津田塾大学にて講義を行いました。総合政策学部で開講されている「ダイバーシティ社会論」の中で、「障害者とともに生きる社会」をテーマとする全3回の講義のうち1回を担当しました。
当日は“ダイバーシティをビジネス視点で考えるメディア”「PINGUINC.(https://www.pinguinc.jp/)」の編集長である佐藤が登壇。障害者雇用の現場事例の紹介を中心に、受講学生も今後社会に出て働くという視点を交えながら、ダイバーシティ&インクルージョンについて学生とともに考えました。
 
講義実施の背景・当日の様子
「ダイバーシティ社会論」 開かれた社会について学び、受講者自身が直面する問題を考える 津田塾大学総合政策学部で開講されている「ダイバーシティ社会論」は3年生以上を対象とし、ダイバーシティに開かれた公正な社会の実現を求める思想、運動、政策的取り組み、ならびに講義受講者自身が市民として直面する現下の課題について学ぶことを目的としています。2019年度は、全16回の講義のうち3回において「障害者とともに生きる社会」をテーマとし、障害者を取り巻く社会の動き、障害者の社会運動、障害学、障害者雇用のあり方と課題などについて取り上げています。
ゼネラルパートナーズは2003年の創業当時より障害者雇用支援事業を展開し、障害者雇用専門の人材紹介サービスや就労移行支援事業所の運営を行ってきました。近年ではしいたけ生産を行う継続支援A型事業所「アスタネ」の運営を通した精神障害者雇用の新たなモデル創出や、渋谷区と連携した超短時間雇用の取組に力を入れています。このような経験から、「障害者とともに生きる社会」をテーマとする講義のうち1回を担当することが決まりました。
ダイバーシティ&インクルージョンは“社会的弱者を雇用してあげる”取り組みではない 「障害のある友達は周囲にいますか?いましたか?」というPINGUINC.編集長・佐藤の問いかけから、講義は開始しました。障害者は人口の約7.4%いると言われており(※1)、佐藤、田中、鈴木、高橋という四大名字の方の合計数とほぼ同じ人数が日本で生活しています。「四大名字をもつ友達がいる人」に、ほとんどの人は当てはまると思いますが、「障害のある友達や知人がいる人」にはどれくらいの人が当てはまるでしょうか。
このように同じ国内に存在していても、“社会から見えなくなる人達”がいると知ることから始め、その後障害者雇用支援事業を展開し始めた理由や、アスタネおよび超短時間雇用の事例を紹介。またダイバーシティ&インクルージョンはビジネス上の重要課題であり、社会的弱者を“雇用してあげる”取り組みではなく労働力や資金の確保にあたり必須の取組であることなどをお伝えしました。これらの話について、これから社会に出て働いていく学生と共に考えを深める場となりました。
※1:内閣府「平成30年版障害者白書 参考資料 障害者の状況」参照   https://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/h30hakusho/zenbun/siryo_02.html
津田塾大学 伊藤るり教授からのコメント
アスタネは日本版「人生、ここにあり」 精神障害者の個性を活かした活躍が経営体の抜本的改善に
障害者雇用をサポートする社会的企業の現場がどのようなものかをうかがう貴重な機会となりました。特に「アスタネ」が当初の大赤字を乗り越え、精神疾患をもつ社員の過去の就労歴やスキルを掘り起こして、そこから新しい活躍の場所を作り出し、仕事へのモチベーションとともに経営体としてのパフォーマンスも抜本的に改善させたというストーリーは、学生たちに非常に大きな感銘を残したと思います。個人的には、好きなイタリア映画のひとつ、「人生、ここにあり」(原題はSi può fareで「やればできる」の意)を思い出しました。この映画は、バザリア法(1978年)を背景として、精神障害をもつ人びとが一般社会の中で生きていけるよう協同組合を起こし、個々の能力を活かしながら、床のタイル張り事業で成功するという実話に基づいていますが、「アスタネ」はその日本版だと思いました。
 
<伊藤るり教授/プロフィール> 1954年生。フランス社会科学高等学院社会学専攻博士課程修了(社会学博士)。一橋大学大学院社会学研究科教授を経て、2018年度より津田塾大学総合政策学部教授。専門は国際社会学、国際移民とグローバリゼーションのジェンダー分析。主要編著に『国際移動と〈連鎖するジェンダー〉―再生産領域のグローバル化』(共編著、作品社、2008年)、『モダンガールと植民地的近代―東アジアにおける帝国・資本・ジェンダー』(共編著、岩波書店、2010年)、『ジェンダー研究を継承する』(共編著、人文書院、2017年)など。
 

≪株式会社ゼネラルパートナーズについて≫ 障害者専門の人材紹介会社として、2003年に設立。その後、「就職・転職サイト」「障害別の教育・研修事業」「就労困難な障害者による農業生産事業」など、幅広い事業を展開している。2016年10月には障害者アスリートなど、支援の対象もさらに広げており、これまで就職や転職を実現した障害者の数は5000人以上に及ぶ。「誰もが自分らしくワクワクする人生」というビジョンのもと、今後は障害者に限らず、不登校、ひきこもり、LGBTなど様々な不自由を抱える方々のサポートへ、ビジネスの領域を広げていく。
会社名 :株式会社ゼネラルパートナーズ 本社所在地 :〒104-0031 東京都中央区京橋2-4-12 京橋第一生命ビル3F 代表者 :代表取締役社長 進藤 均 設立日   :2003年 4月 業務内容 :障害者専門の人材紹介事業、求人情報事業、教育・研修事業、農業生産事業、調査・研究機関 など

本件に関するお問合わせ先
株式会社ゼネラルパートナーズ 〒104-0031 東京都中央区京橋2-4-12 京橋第一生命ビル3F 広報担当:山田 TEL:03-3270-5500 / FAX:03-3270-6600 Mail:media-pr@generalpartners.co.jp
*PR Tableにて、日々の出来事や創業秘話、社員の仕事への想いなど、ゼネラルパートナーズにまつわる「ストーリー」を更新中!
 https://www.pr-table.com/generalpartners

障害超えるハーモニー 松前でチャリティー音楽会

2019年06月26日 11時21分44秒 | 障害者の自立

 障害の有無を超えて歌や演奏を楽しむチャリティーイベントが22日、松前町筒井の松前総合文化センターであり、子どもからお年寄りまで約300人が触れ合った。

 障害者の外出する楽しさを増やしたいと、21年前から車いすで生活する同町昌農内の長井牧子さん(56)と夫の博明さん(54)が結婚した2005年から仲間の協力で開催。今回も新たなボランティアが運営に加わるなど支援の輪が広がっているという。

 ステージでは、和太鼓やシンセサイザーによるヒーリング音楽、子ども向けの歌などが次々と披露された。長井さん夫妻は「マッキー&ヒロ」として、軽妙なトークを交えながらマンドリン演奏に合わせて昭和の名曲や人気歌謡曲などを歌った。

 牧子さんは「子どもたちの楽しんでいる様子が伝わってきてすごく良かった」と笑顔。博明さんは「一緒に楽しみながら障害者のことを知ってもらえるよう、もっといろいろな人に来てもらいたい」と話した。

マンドリン演奏に合わせて歌声を披露する長井さん夫妻(右)ら    ステージでは、和太鼓やシンセサイザーによるヒーリング音楽

2019年6月25日(火)(愛媛新聞)


7年後に発覚した双極性障害 それでも家族が壊れなかった理由

2019年06月26日 11時05分27秒 | 障害者の自立

 仕事にやりがいを感じ、帰宅が深夜になることが当たり前だったのに、突然起き上がれなくなり、「うつ病」と診断される。そして7年後 実は「双極性障害」(双極症)と分かる――。「病気になったばかりのころ、同じ病気の人が書いた闘病記を必死に探しました」。そう振り返る海空るりさんが、今年、自身の闘病記を一冊の本にまとめました。ひどい時は、ネットで本を買いまくり、1000万円のクルーズ旅行を予約したり、1億円の家を買おうとしたりしたことも。それでも、夫と小学生の子ども2人の家族が崩壊せず、「寛解」にたどり着きました。適切な治療や福祉サービスなどソーシャルリソースの存在と、それを知るための人間同士のネットワークの大切さについて考えます。

ワーカーホリックがある日突然起きられなくなった

 自宅を訪ねると、海空さんと夫が出迎えてくれました。ともに40代。子どもはお稽古ごとで外出中でした。大きなテーブルを囲み、2005年の発症前後の生活から振り返ってくれました。
 「2003年に結婚しましたが、ほとんど新婚生活というものがなかったですね」
 海空さんがこう言うと、夫もこう付け加えました。
 「付き合っていたころから、ワーカーホリックだったからな」
 海空さんが取り組んできた活動が社会的に評価され、大学勤務という希望の職種・職場に就けたところでした。深夜に帰宅ということが多くなり、結婚後も夫は「相変わらずやっているな」と思っていたところでした。
 ところが、希望の職場で働き始めてから1年後、海空さんは異変に気付きました。
 「ある日突然起きられなくなって、定時に職場に行けなくなったんです」
 まもなくして全く職場に行くことができなくなりました。夫が、嫌がる海空さんを病院に連れて行くと、「うつ病」と診断されました。
 休職し、治療を始めますが、処方薬の効果があり、不調がうそだったかのように朝早くに目が覚め、「もう治ったんだ」と思ってしまうほどでした。それでも、家事はできても、パソコンで作業をしたり、外出するのに化粧をしたりすることはできないままでした。
 「私は仕事を始めるとアクセルを踏みっぱなしにして、ブレーキをかけられなくなり、みずからを過労に追い込んでしまう」(著書抜粋)
 こう考え、発症から半年後に退職したそうです。

「もう治ったんだ」と思って、家事は出来てもパソコンで作業をしたり、外出するのに化粧をしたりすることはできなかったという海空さん(画像はイメージです)            

「もう治ったんだ」と思って、家事は出来てもパソコンで作業をしたり、外出するのに化粧をしたりすることはできなかったという海空さん(画像はイメージです)

出典:pixta                            

「心の風邪」という言葉が持つイメージ

 症状が落ち着くと、それまで仕事一辺倒で考えてこなかったことを考えるように。
 「子どもが欲しい」
 仕事を辞め、子育てをする時間的余裕があると考えたからです。医師には服薬中でもあり、「今は勧められない」と言われました。服薬による胎児への影響や服薬を休止して体調が崩れた際に抗うつ薬が使えないこと、体調が良くなっても1年は服薬を続けた方がいいことなどの説明を受けたそうです。
 「心の風邪」
 こういう表現をよく聞くことがありますが、海空さんも、この言葉がイメージさせるように、軽い病気という認識だったそうです。退職後、1カ月後に妊娠。医師に告げるとすぐ断薬となり、「もう、うつは治ったんだ」と理解していたそうです。
 妊娠中からフリーランスで仕事を再開し、2007年に出産後も育児に、仕事に「絶好調」でした。ところが、出産から8カ月後、また動けなくなったそうです。著書でこう反省しています。
 「今、考えると、躁転していたのだろう。出産後、すぐに医師に診察してもらい、私の様子を診てもらえばよかったのに、妊娠・授乳中は薬を飲んでいなかったので、病院からは足が遠のいていたし、調子がよかったのでもう治ったかと思い込み、受診しなかった」(著書抜粋)

出産から8カ月後、再び動けなくなった(画像はイメージです)            

出産から8カ月後、再び動けなくなった(画像はイメージです)

出典:pixta                            

元気なのは躁転だった

 海空さんが、双極性障害と診断されるきっかけとなったのは、東日本大震災での避難生活でした。
 震災は、2人目の子どもを出産してから1カ月後のことでした。家で仕事をしていた夫と、産後ヘルパーと一緒にマンションの外に駆け出しました。1週間してもドラッグストアに粉ミルクが並ばない。「子どもが餓死するのでは……」と不安になり、神奈川県から西日本の地方都市に子ども2人を連れて避難生活を始めました。
 そこで海空さんのアグレッシブな面が顔をのぞかせます。自分の避難生活先で、ある自治体関係者から「福島県などから県外避難した人たちには必要な支援物資が届いていないのではないか」という話を聞きました。それをきっかけに、近所にちらしを配って支援物資を集め、自治体に寄付する活動を始めました。
 その後、家賃の負担が重くなり、2カ月で夫のいる自宅に戻ると、その1カ月後、また動けなくなったそうです。
 下の子どもを遠方に住む夫の母親に一時的に預かってもらい、寝込んでから1年経ったころ、海空さんの母親に大学病院での診察を勧められました。2泊3日の検査を受けると、「双極性障害」だと分かったそうです。2012年夏、「うつ病」と最初に診断されてから7年が経っていました。
 双極性障害は、躁状態とうつ状態を繰り返す病気で、躁状態は病気の認識がない場合があり、うつ病と間違われることがあると言われています。治療法も違います。
 海空さんも新たな治療が始まりましたが、躁状態のときには「家族に迷惑をかけた」と、今振り返っています。
 例えば、本をネット販売で購読しまくり、1人1000万円もする豪華クルーズ船旅行の見積もりを送ってもらい、1億円以上する家の購入手続きを始め、夫がキャンセルに走り、謝罪して回りました。
 このように、夫にとっては躁状態のときの方が大変だったそうです。ただ、こういうことの繰り返しから適切に薬を服薬していないことに気付いた夫が、医師と相談し、正しく服薬することに注意をするようになると、まもなくしてこのようなことがなくなってきたそうです。
 「うつ状態のときは寝ていることの方が多いですが、躁状態になるとやり散らかすので大変でした」(海空さん)

家族関係にひびが入らなかった理由

 働き盛り世代の家族が、うつ病や双極性障害を発症すると、家族関係にひびが入ってしまうことがあります。海空さん夫婦は、そこをどう乗り越えてきたのでしょうか。
 夫はこう振り返ります。
 「いくつかのファクターがあると思います。もし、ひどいうつ状態や躁状態に対応すると言っても、サラリーマンだと時間が割けないですよね。我が家は私が起業していて、フリーランスのような状態だったので、対処する時間と環境がありました」
 そしてもう一つはこう言います。
 「僕の人格が出来ていたのかな(笑)。僕は楽観的な人間なので、絶対なんとかなると考えるとともに、がんばりすぎないようにしていました」
 こう話すと、海空さんからも笑い声が漏れます。
 海空さんが「子どもがいたことが大きいのかな」と言うと、夫は「面倒くさいから、子どもを連れて別れようという発想はなかったですね」と返します。
 家族がバラバラにならなかったのはなぜか?
 夫はこう言います。
 「俺がこれだけ働いているのに妻は寝ているとか、公平さを考え出す人がいますが、僕は比較する発想はなかったです」
 また、海空さんの場合、正しい診断まで時間がかかり、それまでの間には、個人の判断で断薬してしまうことが度々ありましたが、その後、正しい診断と適切な服薬により治療効果が出ていたことも背景にあったそうです。

海空さんの夫は「絶対なんとかなると考えるとともに、がんばりすぎないようにしていました」と振り返る            

海空さんの夫は「絶対なんとかなると考えるとともに、がんばりすぎないようにしていました」と振り返る

出典:pixta                            

ソーシャルリソースをどれだけ持っているか

 夫や2人の母親の支えも大きかった海空さんですが、社会的なサポートも欠かせなかったと振り返ります。
 「赤ちゃんが泣いても、起き上がれませんでした。無認可保育園に午後5時まで預けられたので助かりました」
 夫もこう言います。
 「子育てが好きなので苦にならなかったです。保育園に迎えに行くと、子どもが僕のことを『ママ』と呼んでいました」。
 加えて、「ヘルパーさんの存在も大きかったです」と海空さんは指摘します。
 家事支援サービスです。自治体によって制度が違い、独居の高齢者の人向けに行う自治体もあれば、障害者の人向けにも行う自治体があります。また、夫が居ると家事支援サービスの対象外になる自治体も少なくありません。海空さんの場合、最初は産後支援のためのヘルパーの制度を利用し、その後は障害者支援のためのヘルパーに切り替えたそうです。
 「寝たきりになると、私も子どもも食べることができない状態になります。部屋はぐちゃぐちゃですが、食事や洗濯を手伝ってもらいました」
 そして、子どもの入浴。
 そこは保育園の友だちのママが助けてくれたこともあったそうです。
 夫はこう振り返ります。
 「これからの時代は、ソーシャルリソースをどれだけ持てるかでしょう」
 海空さんもこう言います。
 「障害年金の制度やヘルパー派遣の制度を知ったのは、ツイッターを利用した患者同士の情報のやりとりからでした」  「病院の中には、ソーシャルワーカーと接点がなかったり、患者会がなかったりして、十分な情報が得られないこともあります」
 だからこそ、患者や家族が手にとって読みやすい厚さの本『うつ時々、躁 私自身を取り戻す』(岩波ブックレット)を執筆しました。そこには、11のポイントについて、アドバイスがまとめられています。
① 主治医を見つける ② 病歴をまとめる ③ 薬物療法を受ける ④ 生活リズムを整える ⑤ 病気について学ぶ ⑥ 躁うつのコントロール ⑦ 心理社会的治療を受ける ⑧ 補完代替療法を受ける ⑨ 家族の協力を得る ⑩ 福祉サービスを活用する ⑪ 同病患者との交流

体調崩す前の小さなサイン見逃さないで

 今、夫婦が心がけているのは、再発しないためにどうするかという点です。
 勝手な断薬はしないことはもちろんですが、がんばりすぎないことにも気をつけています。
 「元気になると元の自分が出てしまいます。自分のマネジメントが大切です。だから、がんばり方を変えました。1日3時間だけ活動するとか。今はスマホのカレンダーで予定を入れていい日といけない日を作るなど、可視化する工夫をしています」
 夫もこうアドバイスします。
 「外に出すぎていると、翌日動けなくなります。体調を崩す前の小さなサインを周囲の人、観察力のある人が見逃さないことだと思います」

海風るりさんの闘病をつづった本は、自身の経験から読みやすいページ数におさめたという。            

海風るりさんの闘病をつづった本は、自身の経験から読みやすいページ数におさめたという。

うつ時々,躁 - 岩波書店

突然にうつ,そして七年後には「双極性障害」だとの診断.子育ての悩み,寛解に向けての日々を綴る.

インタビューを終えて

 私が海空さんと知り合ったのは、まさに最初にうつ病と診断される前のワーカーホリックと言われるころでした。手がけていた大学での仕事も、ビッグピクチャーがあり、研究者だけでなく、様々な人たちが学び合い、社会を動かしていこうというミッションを掲げていたことを思い出します。
 医療分野の取材経験から、うつ病は再発を繰り返すことがあり、双極性障害は新しい薬が出てきたものの早期に診断しにくい病気というイメージがありました。ただ、ここ数年は、リワークと言われる復職支援のプログラムに取り組む医療機関なども増え、再休職にならないように注意する企業もでてきています。
 2000年代前半は、「患者学」的な研究をする人が社会で注目され始めた時代です。医療者も、患者から学ぶとともに、患者やその家族も先輩患者やその家族から学ぶ、という動きです。その一つが「闘病記」であり、「闘病記文庫」を病院内に設置する動きでした。
 もちろん、治療法は変わるし、生存率や寛解率などのデータも新薬の登場で変わっていきます。また、ケアへの考え方も変わってきています。自分と同じ病気、同じような家庭環境の患者が、どのように闘病生活をして、どのような経過をたどったのか。海空さんが、それを知りたくなった気持ちは、多くの病気の患者に共通するでしょう。
 本が売れなくなり、まず、インターネットで情報を探す時代。使い方によっては便利なブログやSNSの書き込みですが、非科学的な情報もあふれています。その見分け方は十分注意が求められます。
 海空さんは、著書の最後に「患者の心得」として、11項目を挙げ、アドバイスをしています。11番目が「同病患者との交流」として、患者会への参加を挙げています。病気のことだけでなく、生活も含め、経験者やその家族、行政機関や医療機関の関係者らによる情報が集まっているからです。
 治療だけでなく、生活支援も含めた患者や家族のためのポータルサイト、情報サービスがあったらいいな、と痛感しました。もちろん、あらゆる疾患について、ワンストップで身近で必要な情報が得られるためのものです。
 あらためて海空さん夫婦を訪ねると、夫はこう話してくれました。
 「もし、妻がシングルマザーで病気を発症したら、住む部屋さえ借りられなかったでしょう。貸す側は、『お金は大丈夫?』『後見人は?』と考えるからです。妻のような病気に対して、タブー視しない人たちが周囲にいて手を差し伸べてくれたことが大きかったと思います」

【多様性を考える関連記事一覧】 インクルーシブ、ダイバーシティー……。多様性を認め合う社会を様々な側面から光を当て、考えています。障害を持つ子どもがいる家族が抱えるインクルーシブ教育以外の世界も知っていただければと思います。
◆ADHDの元教員・自閉っ子の母親が気付いたこと 社会の人々たちの心の中に「障害者ヘイト」がどこかに存在するのではないだろうか。
◆障がいって言うけれど…若い世代の叫び 人はみな少しずつ違う。だからこそ個性が生まれる。障がいを抱えるきょうだいや子どもを持つ若い世代の本音はどこに?
◆#インクルーシブ教育のいま 障害のある子とない子が、同じ教室で学ぶ「インクルーシブ教育」。多様性の高い社会をつくる上で、とても重要です。進めていく上で、どんな課題があるのでしょうか?皆さんと考えるため、現状を報告します。
◆映画「いろとりどりの親子」からのメッセージ 愛があるから世話をするだけでなく、世話をするからこそ愛するようになる。ドキュメンタリー映画は2019年3月から
 
「自主上映」への素材提供が始まりました。