古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

木花開耶姫神社の位置

2018年08月14日 12時39分44秒 | Weblog
天孫・ニニギノミコトは笠沙の岬で木花開耶姫〈コノハナサクヤビメ〉に出会います。
野母崎・獅子吼岬の近くに木花開耶姫神社が見つかりました。
しかし、野間岬の近くにはなさそうです。
この木花開耶姫神社は興味深い位置にあります。
①高千穂峰-武寧王陵
②竹島-獅子吼岬
③野母崎-藤原宮跡
の三つの直線のほぼ交点にあります。
①高千穂峰-武寧王陵は藤原宮跡と結ぶと直角三角形になっていました。
②竹島-獅子吼岬は《竹島-獅子吼岬-藤原宮跡-インチョン湾》に含まれます。
③野母崎-藤原宮跡は《野母崎-藤原宮跡-竹島-インチョン湾》です。















この全てに藤原宮跡が基点の一つになっています。
いかにも意味がありそうですが、木花開耶姫神社がいつできたのか,というと
http://cluricaune.world.coocan.jp/nippon/2010-12-nagasaki/konohana.html
木花開耶姫神社由来
 木花開耶姫神社は古来より造化の神で霊験あらたかなりとして、広く崇拝されてきたものである。
 雲仙祭祀の御社には男女の性の巨大なシンボルが鎮座ましている。このお社は元禄のころから祀られているもので木花開耶姫神神社に詣でれば御社の右と左に女陰や男根が有って思わずギョッとする。

元禄時代というと、綱吉の時代で、〈1688年から1704年までの期間〉だそうです。
子宝を授かりたい,という願いの神社なのでしょうが、なぜこの位置で、コノハナノサクヤビメが祭神なのでしょうか。
コノハナノサクヤビメはニニギノミコトの間に〈ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生〉みました。
コノハナノサクヤビメは炎に包まれて出産します。
www.kanko-miyazaki.jp/kaido/50story/shinwa/018/
コノハナサクヤヒメは産屋のまわりにみずから火を放ったのです。そして、燃えさかる炎の中で三人の男の子が生まれました。

私は卑弥呼・臺与(とよ)は放火による一酸化炭素中毒で亡くなったものと考えています。しかし、その子孫は生き残っていました。(火中出産したわけではありません)
ということで、私の想像ではコノハナノサクヤビメには卑弥呼・臺与(とよ)が投影されています。

そこで、この木花開耶姫神社の位置には何らかの言い伝えがあり、たまたま元禄時代に,子宝を授かりたいという希望を持つ人が再建したものではないか。
なぜ廃れていたかといえば、藤原京を過小評価する時代に変わっていたからではないでしょうか。

コノハナサクヤビメを祀る神社はたくさんあるそうで、
https://matome.naver.jp/odai/2136263714068465601
木花咲耶姫を祀っている神社は日本全国にあります。
全国の浅間神社では、火中出産の説話から火の神として祀られています。
ただし、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝では、水の神として噴火を鎮めるために富士山に祀られたとしています。
また、木花咲耶姫は、妻の守護神、安産の神、子育ての神、酒の神として信仰を集めています。
九州
都萬神社(つまじんじゃ)
木花神社(きばなじんじゃ)木花咲耶姫が御子を生んだ伝説地は宮崎県には二ヶ所あり、一つが西都市の都萬神社の所在地で、もう一つが宮崎市木花である。
細石神社(さざれいしじんじゃ)
旧名を佐々禮石神社といい、祭神は磐長姫と木花咲耶姫の姉妹二柱。
女狭穂塚(めさほづか) 木花咲耶姫の陵墓!

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