古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

伊勢神宮・外宮-扶余(プヨ)を結ぶ線は平城宮を通る

2011年08月04日 11時11分08秒 | Weblog
前回、前々回では
月読宮-聖武天皇陵-出雲大社
月夜見宮-元明・元正天皇陵-出雲大社であることをみました。
月読宮(つきよみのみや・月讀宮)は内宮(皇大神宮)別宮
月夜見宮(つきよみのみや)は外宮(豊受大神宮)別宮
そこからの思いつくのは、内宮・外宮は男女の《ペア・対》を表わしているのではないか、ということです。
内宮・外宮は夫婦・姉弟・兄妹といった《ペア・対》の思想では、と考えました。ですが、それならば神宮-斎宮の関係でもいいはずです。
また、もし瀧原宮の存在が伊勢神宮に先行しているものとして、瀧原宮に内宮・外宮というものが存在しないならば、内宮・外宮に別れているのは、平城宮が造営されたときかまたはその後のことになるはずです。
そうしますと、高市皇子の大津皇子殺害が関係するのかも、と思えます。
(大津皇子は皇位につく禊のために斎宮の姉を訪れ、その帰りの途上で殺害されたはずです。)

しかし、これ以上考えても進みませんので、一旦中断。

で、伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)から平城京・朱雀門を通ると朝鮮のどこに行くのだろうか、と検討しました。
(以前にもやっていてもおかしくないのですが、覚えがありません)
すると、どうも扶余(プヨ)より南です。
そこで、扶余(プヨ)と伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)を結びました。
すると、明らかに、平城宮を通ります。
写真で、私が平城宮跡とポイントしたところは、グーグルマップでは大極殿となっています。
どちらにしろ、平城宮内を通ることは明らかです。
下にあげた計算ではだいぶ違っています(36.5cm違い)が、扶余(プヨ)の位置があいまいですし、どう位置を取ろうとも、平城宮内を通ることは明らかです。


伊勢神宮・内宮(皇大神宮)-平城京・朱雀門-出雲大社(-武寧王陵)
《写真のように伊勢神宮・内宮(皇大神宮)-武寧王陵(ムリョンワンヌン)とわずかにずれています》

上の線が武寧王陵(ムリョンワンヌン)-伊勢神宮・内宮(皇大神宮)


黄色い線が扶余(プヨ)-伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
赤線の上が武寧王陵-伊勢神宮・内宮(外宮と間違っていたので直しました。23時53分)
下の赤線が出雲大社-伊勢神宮・内宮(皇大神宮)


上の黄線(直しました)が扶余(プヨ)-伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)


こっちの上の赤線が扶余(プヨ)-伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)


いわずもがなですが、扶余(プヨ)は百済最後の都・泗沘があったところです。
武寧王陵(ムリョンワンヌン)、公山城(コンサンソン)のある公州(コンジュ)は、それ以前の百済の都です。

扶余(プヨ)
北緯36度16分38.62秒、東経126度55分04.58秒

伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
北緯34度29分14.00秒、東経136度42分13.31秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342914.00&l=1364213.31

平城宮跡(大極殿跡かも)
北緯34度41分32.29秒、東経135度47分50.37秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344132.29&l=1354750.37

扶余(プヨ)→伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
 Ⅰ99°43′24.75″  Ⅱ285°23′58.87″ Ⅲ910,619.005(m)
扶余(プヨ)→平城宮跡
 Ⅰ99°42′24.79″  Ⅱ284°52′07.08″ Ⅲ824,411.806(m)
平城宮跡→伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)
 Ⅰ105°02′38.30″  Ⅱ285°33′30.69″ Ⅲ86,207.564(m)

824,411.806(m)+ 86,207.564(m)=910619.370(m)・・36.5cm違い

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