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古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

持衰再考、倭の持衰は女性である

2007年02月09日 23時12分47秒 | Weblog
日本と朝鮮を結ぶ直線と直角三角形を考えながら、ある一点で迷っていました。
それは、どうも「天皇の二面性」というべきものではないか、と思い至りました。それが「魏志倭人伝」の持衰の記述につながりそうな気がします。

まだまとまっていないのですが、持衰について、少し考え方が変わりましたので、とりあえず書いておきます。

一応の結論としては『「魏志倭人伝」に記述されている持衰は、卑弥呼のことではないか。時の流れを逆にした陳寿は、ここでも男女を逆にしたのではないか。それが天皇の性格として残っているのではないか』というものです。

2005年4月8日「持衰と架空の存在」
2005年4月16日「永井俊哉氏のトラックバックに感謝して」では、
持衰を架空の存在である、としました。

「記・紀」は「魏志倭人伝」の間違いどおりに書かれている、というのが私の考え方です。
そして、聖徳太子が架空の存在ならば、持衰も架空の存在だと考えました。
持衰が架空の存在だから、架空の聖徳太子が発明された、と考えたのです。
稗田阿禮も紫式部も架空の存在だと考えました。

しかし、聖徳太子も稗田阿禮も紫式部にもモデルがいることがわかってきました。
ただ正反対のモデルのために、まるで架空の存在かのように思い込んでいました。
正反対の人物を創造した、という風に言えば、架空の存在といってもあながち間違いではありません。
聖徳太子、稗田阿禮、紫式部のモデルは彼等とは真逆になっていたのです。

天皇になれなかった聖徳太子や光源氏のモデルの一人は天皇になれなかった藤原不比等です。(聖徳太子にも光源氏にも、まだ他にモデルはいるはずです。)
聖徳太子は聖ですが、不比等は悪です。

日本書紀は不比等主導による編纂です。ですが、信じられないかもしれませんが、不比等は自らを悪と規定したことになります。
(蘇我馬子と聖徳太子の「国史」の編纂とされているのは620年(推古天皇28年)で、日本書紀の編纂のちょうど100年前です。これは偶然ではありません。不比等が書紀の編纂を100年前に移動させたのです。
 ただし、もう一人のモデルが国史を編纂していた可能性はあります。そして、もう一つの可能性は、もう一人のモデルの国史を消すために、ちょうど100年後に不比等は書紀の編纂を完成させたのかもしれません。)
(また、文武天皇を殺したのは不比等です。蘇我馬子の崇峻天皇殺害の話に変化しています。706年→592年。114=19×6の変化)
≪2006-03-03藤原不比等は文武天皇を殺害したのではないか≫
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/aa446de08fc5df0fce17cd837c4cb0dc

また、稗田阿禮も不比等がモデルです。
稗田阿禮という名前の意味するところは、一つには、身分の高くない出身ということでしょう。(もう一つの意味は卑日可豊・卑弥呼の卑は日であり、豊である、ということです。2005/3/23。)
ですから、逆に、不比等はもっとも高貴な血統だと自ら主張しているのです。(ですから、臣下としての藤原鎌足の子供ではありません。鎌足のモデルは天智天皇と不比等です。)

また、「源氏物語」の本当の作者は女性の紫式部ではなく、男性(たち)です。

さてそうすると、持衰にもモデルがいなくてはならなかったのです。
今までは、そのモデルが見当たりませんでした。
架空説に引っ張られたために、見つけることができませんでした。


さて、そこで『永井俊哉ドットコム』
「天皇のスケープゴート的起源」
http://www.nagaitosiya.com/a/mikado.html

「なぜ天皇は日本国民統合の象徴なのか」
http://www.nagaitosiya.com/b/mikado.html

≪天皇の起源がスケープゴートだったということは意外であろう。例えば極東軍事裁判がそうであるように、多くの人が天皇のスケープゴートにされてきたのだから。しかし黎明期における天皇は、未開社会における酋長と同じで、スケープゴートの色彩が強い。皇祖天照大神を卑弥呼に比定し、そのスケープゴート的起源を明らかにしたい。≫
≪2. 持衰としての天皇
≪『魏志倭人伝』は、当時の倭には、持衰(じさい)と呼ばれるスケープゴートがいたことを教えてくれる。≫
≪ところで歴代の天皇はほとんどが男である。なぜ天皇の祖先である天照大神は女性であったのだろうか。≫

私と考え方の違う所があります。そこで、ややこしくなりますので、引用は少なくさせていただきました。(台与・トヨも卑弥呼とよばれていたと私は考えています)

永井俊哉氏の「天皇のスケープゴート的起源」を、以前読ませていただいたときには、まだ私の導くべき結論が見えていませんでした。
今、やっとわかりました。
私の説は、大雑把に言って『「魏志倭人伝」は逆になっている部分が多い。特に時の流れの逆転が卑弥呼復活を預言したものになった。方位は逆になっている他に、90度間違っている部分がある。』というものです。

持衰も逆になっていたのです。
「婦人を近づけず」という記述から、持衰は「男」であるということは自明であると考えられていました。
しかし、ここでも陳寿は、勘違いをしたのです。
さて、永井氏の論説では
「持衰はスケープゴートである」
「天皇の起源はスケープゴートである」
「天皇の祖先である天照大神は女性である」

これらは全部正しいと考えます。(ひらめいてしまったものですから、永井氏の意図することを伝えていない恐れがあります。『永井俊哉ドットコム』に直接あたってください。)

さて、そうすると「持衰」は女性でなければおかしいのではないでしょうか。
しかし、「魏志倭人伝」の記述者・陳寿は「持衰」を男性と理解しています。

私流に考えますと、ここでも陳寿は真逆の間違いをしたのです。
男と女を取り違えているのです。
2005-03-15のブログ
≪卑弥呼が生前出したのではないかと思われるお告げ≫
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/131837f9155fd51e8cb9378c5aebba50
≪卑弥呼トヨが生前‘男女を逆にしろ’というお告げを出したのではないかと考えています。≫と書きました。
男女が逆になっている例が多いので、そのように考えました。
しかし、そんなことはありえないでしょう。(申しわけありません)
倭国で「持衰」と呼ばれたという「スケープゴート」は、本当は、卑弥呼のはずです。

[ただ本当に「持衰」(じさい)と呼ばれていたか、どうかわからないのが難点です。「卑弥呼と持衰」では音韻に違いがありすぎるように見えます。
卑弥呼の呼び方に別のものがあり、それが持衰と近いならばいいのですが・・
仮に、ありえそうにないのですが、司祭などという言葉があったとしたらいいのですが、無理でしょうね]などと考えていましたら、

閼伽出甕 論考集「“持衰”について」(7)
http://accord.at.infoseek.co.jp/BIGLOBE/ZISAI/nip18768.htm

≪仏教に「持斎(じさい)」という言葉がある。その本義は蜜日(今の日曜日に相当する)の正午以後は何も食べないことである。後世に至って肉類を食べない意味に転じた。
 陳寿はたぶん倭人の習俗を聞いて、この「持斎」から連想して「持衰(じさい)」
という言葉を考え出したのであろう。その意味は、遠洋航海のさい海神の怒りをまねかないようにと、つねに特定の人をして、一定期間内は頭髪をくしけずらず、しらみをとらず、身体や衣服は垢(あか)にまみれ、肉類を食べず、女人禁制し、喪に服している人のようにさせた人物というのである。≫

陳寿は卑弥呼を初めから「女王」と決め付けているために、スケープゴートを卑弥呼とは考えられなかったのです。
たぶん、「魏志倭人伝」の記述は逆で、卑弥呼の「弟」が国王で、姉の卑弥呼は「弟」の政治の補助をしたのではないでしょうか。

さて、永井氏の考え方から、もう一つ重要な結論が導かれます。
①多くの人が天皇のスケープゴートにされてきた。
②天皇の起源はスケープゴートである。

天皇制の成立の基底にはこの「二面性」があるのではないでしょうか。
それは起源だけではなく、ずっと持ち続けているものと考えられます。
天皇は「卑弥呼と卑弥呼の弟(卑弥弓呼)又はスサノヲ」の二人を内包していると考えます。
天皇は雌雄同体です。(と、神道の方が書いているのを読んだことがあります)
天皇は「卑弥呼トヨとスサノヲ」の子孫でありながら、一個体としての、固有の独立した国王にはならなかった気がします。ずっと「卑弥呼トヨとスサノヲ」の子孫であり、別々の性格を合わせ、引きずっているように見えます。
天皇は二つの正反対の性格を併せ持っていると考えられます。
(それとも興福寺の阿修羅像のように三面を持っているのでしょうか。それとも三面を持っているのは藤原不比等でしょうか)

二面性の原因は、①陳寿が卑弥呼を国王と勘違いし、卑弥呼の持衰としての性格を卑弥呼から分離させたことと、②卑弥呼の復活(天孫降臨)が「魏志倭人伝」によるものとされたからではないでしょうか。

まとまっていないと思われますので、またいずれ考えます。





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