古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

出雲大社から法隆寺と観世音寺の距離

2015年01月17日 13時46分21秒 | Weblog
出雲大社を軸として東西対称になっていることは何度もやっていますし、事例はいくつもみています。
例えば、神武東征の出発地点である立磐神社と上陸地点である熊野速玉大社は出雲大社からの距離が同一になっている、など神武東征は東西対称になっていることをみました。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/aa914435e69d4f483b3740dd4f38109b
神武東征の東西対称性はどこからきたのか  2014年08月25日

神武東征以外でも検討しました。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/045ce33fcc06dc440c9220be9995306d
『隋書倭国伝』の阿蘇は飛鳥である距離的根拠  2009年08月04日

「阿蘓神社」と書かれた銘板の存在。「蘇」が「蘓」と左右逆になっている。

ちょうど、出雲大社の位置は北九州と近畿を東西対称にするような位置にあります。そういう位置に出雲大社は造られた、といっていいのでしょう。
(ですから、対応するといっても、ピッタリいくならともかく、ピッタリなわけはありませんから、幾つもの可能性が出てきます。かえって厄介な点もあるかと思います。)

さて、斑鳩の法隆寺は九州の観世音寺が移築されたものだという、説がありました。私には、よく理解できない説ですので見過ごしていましたが、もしかすると、と思い、出雲大社からの距離を測ってみました。
(私の考えでは法隆寺と混同されるのは飛鳥寺(法興寺)です。時の流れの混同があるはずです。)













法隆寺・金堂
北緯34度36分51.55秒 東経135度44分04.05秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343651.55&l=1354404.05

法隆寺・五重塔
北緯34度36分51.37秒 東経135度44分02.80秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343651.37&l=1354402.80

出雲大社
北緯35度24分07.20秒 東経132度41分07.63秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=352407.20&l=1324107.63

観世音寺
北緯33度30分54.10秒 東経130度31分16.67秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=333054.10&l=1303116.67

出雲大社→法隆寺・金堂
 Ⅰ106°33′10.25″  Ⅱ288°18′08.50″ Ⅲ291,691.599(m)
出雲大社→法隆寺・五重塔
 Ⅰ106°33′21.05″  Ⅱ288°18′18.58″ Ⅲ291,663.107(m)
出雲大社→観世音寺
 Ⅰ224°08′52.36″  Ⅱ42°55′23.20″ Ⅲ288,702.524(m)

約3㎞違っていますが、ほぼ同じといっていいでしょうか。微妙といえば微妙ですが、観世音寺が移築されたという説が出るのも理由がないわけでもないかもしれません。
しかし、私には、やはり、移築されるというのは理解できません。
そんな面倒なことをする必要があるでしょうか。
そのまま運べるわけはありませんから、九州で分解してから斑鳩に運んで、斑鳩で組み立てるのでしょう。組み立てなおされるように分解しなければなりません。しかし、新築するより、はるかに困難ではないでしょうか。くぎを使用しないで建てられているとするとどうするんでしょうか。

東西対称となるという私の説は、奴国と邪馬臺国を「魏志倭人伝」が同一のものと勘違いした、と考えたことからきたものです。そのもともとの原因は、二人の卑弥呼を同一人物と間違えてしまったからです。
そして、東西別々のものを同一としてしまったことによります。
しかし、移築したのでは同一そのものになってしまい、私の説からすると、おかしなことになる気がします。
同一のものであってはなりません。それでは意味がなくなります。
(九州王朝の芽は、247年の卑弥呼・卑弥弓呼とスサノオの戦争で摘まれていると考えています。その後、九州で叛乱もありえますが、あくまでも叛乱どまりでしょう。)

検索しますと、観世音寺だけで検索すると法隆寺は引っ掛かってきません。
「観世音寺 法隆寺」で検索すると移築されたという説が出てきます。
(観世音寺ができる前に立っていた建物が法隆寺・法興寺の前身だ、ということのようです。斑鳩に移築された後で観世音寺がその場所に建てられたそうです。)
観世音寺の前身だという寺の図が法隆寺の伽藍配置に似ているようです。
しかし、似ているのは川原寺のようだ、という説もあるようです。
で、まだ、理解できそうもありませんので、中途半端なままで、出雲大社からの距離がもっと近似になる寺を探してみました。


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11 コメント

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地下式横穴墓 (いしやま)
2015-01-20 10:31:22
卑弥呼が出ると、イワレヒコ 宮崎が重なるのですが、出雲、宮崎、法隆寺ではどうなるのでしょうか。 地下式横穴墓ニュース 朝鮮からの流れでしょうか 単なる連想ですが。
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Unknown (永岡)
2015-01-24 23:27:14
いただいたコメントの意味が全部はつかみきれませんが、私自身、宮崎というか日向というか、南九州の位置づけをどうみるべきか、何度もチャレンジしますが、イマイチ理解できていません。(卑弥呼?)
西都原古墳の存在は知っていましたが、あまり気にかけていませんでした。
そこで、ご指摘の≪出雲、宮崎、法隆寺≫は面白いです。宮崎を西都原古墳として検討してみます。
ただ、そうすると法隆寺とは離れそうです。
立磐神社・都農神社-出雲大社-法隆寺・金堂が直角三角形のようですから。

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三角縁鏡 (いしやま)
2015-01-26 14:29:20
卑弥呼、豊与 が狗ヌ国 呉国系 に滅ぼされ、その後 呉国が滅ぼされてしまったので、巻向あたりで三角縁鏡で北朝への接近を見せたが、呉の文化はその後も保たれたというのはどうでしょうか  これはここでは不適当でしょうか
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Unknown (永岡)
2015-02-03 12:00:48
ご指摘の趣旨は南九州が北九州の奴国を滅ぼしたのではないかと考えます。
私の説は東からきたスサノヲが博多湾(白方の津)上陸後即座に敗れた後、考えられない、やけくその奇襲で宇佐(宇陀)から上陸し、山中を通り奴国の背後を突き勝利した、です。ところが、南九州が北九州を攻めるとすると、陸上からしか考えつかないと思われます。しかし、神武東征の進路は立磐神社のある美々津から宇佐に行き、そこから博多湾に行き、そこから取って返し瀬戸内海を行くというものです。海路が重要です。ですから、狗奴国、その他南九州の国・部族などが北九州の奴国を滅ぼした、という説には同意できません。
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再度です (いしやま)
2015-03-10 08:19:22
狗ヌ国勢力は、呉の銅鏡の発見から見て、南九州も含めて、瀬戸内 神戸の銅鏡、山梨の銅鏡と、この辺り一帯として、北九州に対抗した。その後、呉国が280年に滅びてたため、巻向あたりで纏まったということで、祭祀統一のため呉と魏合作の三角縁銅鏡を作り始めたのかなという妄想ですが。
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Unknown (永岡)
2015-03-13 11:16:10
考え方がだいぶ違うようです。3世紀後半には北九州と瀬戸内・近畿はつながったはずです。箸墓を卑弥呼・臺与(とよ)の墓と考えるからです。南九州や関東はもっと後でしょう。いくつかの具体的な事実があるのでしょうが、離れているであろうと想われるそれらの点をどうやって結ぶと『祭祀統一のため呉と魏の合作の三角縁』という線に至るのか、今のところ理解できません。
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追記 (永岡)
2015-03-15 12:03:22
呉が晋に滅ぼされたのが280年3月、何度も繰り返しますが、卑弥呼・臺与(とよ)が殺されたのが280年か281年の8月15日の仲秋の名月の宴の時だったと考えています。臺与はスサノヲの正妻・磐之媛に嫉妬で殺されて纏向が騒然となっています。スサノヲは茫然となり、卑弥呼の呪力も使えず政治が機能しなくなります。呉からの流民が纏向近辺にいたとすると、知識などで政治に関与を求められたかもしれません。266年ごろ、魏の後の晋に朝貢をした後、倭国の記録は無くなっています。晋に敵対した呉人が存在していたからなのでしょうか。以上、空想ですが、「呉」について、知りたくなってきました。
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三角縁鏡は不思議です (いしやま)
2015-03-19 08:31:34
魏の年号で、呉の文様様式というのは不思議です。
よろしくお願いします。
噺は変わりますが、法隆寺の移築元は法興寺と云う説があります、ご存知でしょうが、  これが正解のような気がしています。逸年号と云われるものもいずれも日本書紀の計算のもとに作られて、法興寺年号を消すために総力を挙げたものである様子ですか。釈迦三尊の法興銘は金石文で間違いないと思います。法興を消すためには法号の使用は天武天皇8年(679年)の「諸寺の名を定む」の命以降まで持ち出していますから。
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Unknown (永岡)
2015-03-24 18:32:16
《魏の年号で、呉の文様様式》なのですか。初めて知りました。それで、魏と呉の合作の三角縁ですか。無茶振りですが、普通に考えれば、日本で混ぜてしまった、のでしょう。しかし、法隆寺と法興寺を混同させたように、魏と呉を混同させる必要があったのでしょうか。(「魏志倭人伝」の奴国と邪馬臺国の混同、隋書を利用した飛鳥と阿蘇の混同、また九州と畿内の混同はいくつもありました)
《釈迦三尊の法興銘は金石文で間違いない》とは内容に間違いがなく正確であるというのでしょうか。それとも、単に金石文だ、ということなのでしょうか。
金石文だからどうだっていうのでしょうか。「法興」についてはまた考えたいです。
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晋と呉 (いしやま)
2015-03-26 05:18:19
魏から晋に替わり、呉が滅ぼされたので、呉系の狗ヌ国勢力が伊予-邪馬台国残存勢力と手打ちして・・・三角縁鏡を作ったという話ではどうでしょうか。
法興銘は金石だからです。日本書紀よりはましではないかという程度ですが。
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