古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

出雲大社には卑弥呼が祀られている

2005年03月13日 19時14分07秒 | Weblog
なぜ卑弥呼の墓と霊所が大和と出雲とに離れているのでしょうか?
それは、最初の墓とは他にもう一つ別の墓が新たに造られたということです。では、なぜそんな必要があるのでしょうか?
その答えは、卑弥呼の霊を大和から出雲に追放するためだったとしか、考えられないのです。
 「魏志倭人伝」の内容に驚愕した、時の権力者は卑弥呼の霊を追放することを決意します。そしてこれは一石二鳥の方法でした。卑弥呼の霊を祀ることができるのは卑弥呼の子孫だけですから、厄介な卑弥呼の子孫も一緒に追放できるのです。卑弥呼トヨの子孫が殺されなかったのは、霊を祀るのがその子孫でなければならないということと、卑弥呼トヨの御子が男王との間にもうけられたものだったからです。そうやすやすとは殺害できませんでした。
 
 簡単にいいます。卑弥呼トヨ―男王―もう一人の后、という三角関係で、それぞれの御子がいたのです。(卑弥呼トヨを殺すことを部下に命じたのはもう一人の后です。)
 ですが、このとき卑弥呼の子孫が追放を受け入れられなかったら、必ずや卑弥呼の子孫は殺され、卑弥呼の血筋は絶えていたことでしょう。
 
 卑弥呼を殺した側は、卑弥呼の霊を追放しその霊を祀らせるという名目で、やっかいな卑弥呼の子孫を遥か遠方に追放したはずです。
そして卑弥呼の子孫は政治に口出しを許されなくなります。卑弥呼を殺した側は卑弥呼の子孫に政治的な死を与え、二度と政治に口出しできない地へ、二度と霊力を以て大和に君臨することのない地へ、二度と大和で崇められることのない辺鄙な地へと追放したのです。
 出雲は大和からみると方位学の観点からすると、忌むべき方角になるそうです。もしそうならば、卑弥呼トヨが殺された時には、すでにその学問・哲学が流入していたことになります。
そして、箸墓に葬られた卑弥呼が、出雲大社にも祀られているならば、卑弥呼の子孫は出雲に追放されたとしか考えられないのです。祖霊を祀るのはその子孫でなければならないからです。そのうえ、卑弥呼トヨの遺骨、遺品も既に箸墓の内部から外部に出されている、と考えられます。卑弥呼の存在を大和から一切消さなければ、安心できないと考えたと思います。
 箸墓を破壊することは、たぶん、できなかったのでしょう。しかしオロチの墓があるのは、気味が悪かったでしょう。前方後円墳に変えるしかなかったのです。政治の中心も和泉とか他にうつったはずです。
 
「記・紀」に描かれた貴種流離譚の基になります。卑弥呼に御子がいたからこそ、卑弥呼の霊は出雲に追放され、出雲大社に卑弥呼が祀られているのです。
 
(このような推察は間違っていることも当然あるでしょう。しかし卑弥呼の子孫が出雲に流されたのは確かだと思われます)
 
卑弥呼の子孫は王でもなければ、臣下でもない独特の存在になります。《これは源氏物語で光源氏が人相見に言われた言葉です。ただし光源氏は須磨に流された瞬間に、他の人格に変わります。古事記でもこの手法は使われています》
 
 出雲大社本殿の左右逆になっている巨大な注連縄は八俣の大蛇こと大和のオロチ、卑弥呼トヨを表したものです。
 
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2014・2/20 追記
だいぶ以前からここに書いていることと現在考えていることは違っています。
結構読まれることが多いところのようなので、心配で注釈します。
卑弥呼が祀られているということは違っていませんが、現在は、卑弥呼の子孫が出雲に追放されたとは考えていません。卑弥呼・臺与(とよ)の子孫はスサノヲとともに朝鮮に向かっていたものの、再び日本に戻ってこざるを得ない状況になり、その時に出雲にしばらく居つき、そこから動乱期に、豪族たちの要請などで飛鳥に戻っていった、というシナリオを考えています。卑弥呼・臺与(とよ)の死後、浦島太郎のように、300年余り過ぎた後で。

 
 
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