古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

高千穂峰は高市穂峰だった場合

2022年09月09日 16時57分53秒 | Weblog
以前にも主張しました。
高千穂峰は「高市皇子」と関係があるのではないか。
以前△武寧王陵-高千穂峰-藤原宮跡は直角三角形になることを見ています。
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/edac920173b8f016140cb161532528bf
再度△高千穂峰-武寧王陵-藤原宮跡      2020年11月04日

「475年 - 百済文周王、漢城(現在のソウル特別市)から熊津(現・公州)に遷都。
538年 - 百済聖王、熊津から泗沘(現・扶餘郡)へ遷都。******ウィキペディア」

ところで、もし、高千穂峰の名称に高市皇子(天皇)が絡んでいるとしたなら、または、初めは高市穂峰という名称だったとしたらどうでしょうか?

持統天皇の業績として《藤原京の完成・飛鳥浄御原令の施行》があげられています。
しかし、百済・武寧王陵(ムリョンワンヌン)-高千穂峰-藤原宮跡が直角で結ばれているとなると、偶然でないならば、この三つは意味のあるものとして結ばれたはずです。
そして、高千穂峰が高市穂峰だったとすると、藤原京の完成は「高市天皇」の業績ではないでしょうか。
前回2020年11月04日には、藤原京の完成は694年より前ではないかと考えましたが、やはり、694年で良さそうです。天武天皇崩御後でしょうから。

私は持統天皇の存在を信じません。
長屋天皇を消すには父の高市天皇も消さなければなりませんでした。
そのために持統天皇が創られた、と考えています。
「白村江の敗戦」の後、天武天皇は百済との関係を消そうとしました。
「乙巳の変」も「壬申の乱」もありゃしません。
しかし、天武天皇の正統なる後継者の大津皇子は高市皇子のクーデターにあい、高市天皇が誕生します。
そのとき、また、それ以降、高市天皇は百済および藤原不比等の協力を仰ぎます。
不比等に「藤原」を授け、百済との関係を見えないようにしますが、
「ふじわら・ふじはら」は「不死・カラKHARA」、Kを抜くと、「不死・はら」「フジハラ」で百済は滅亡しない、復活する、ということを意味する名称です。



△高千穂峰-武寧王陵-藤原宮跡
高千穂峰→武寧王陵(ムリョンワンヌン)
 ①326°24′44.80″ ②144°16′23.07″ ③616,951.940(m)
高千穂峰→藤原宮跡
 ①56°11′58.71″ ②238°52′40.07″ ③540,243.504(m)
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→藤原宮跡
 ①102°51′38.26″ ②287°54′49.57″ ③817,987.317(m)

高千穂峰での角度
 360°-326°24′44.80″+56°11′58.71″=89°47′13.91″≒89.7872度
武寧王陵(ムリョンワンヌン)での角度
 144°16′23.07″-102°51′38.26″=41°24′44.81″≒41.4124度
藤原宮跡での角度
 287°54′49.57″-238°52′40.07″=49°02′09.50″≒49.0360度

武寧王陵(ムリョンワンヌン)の位置が少し違っていました。
前のは、宋山里古墳群の位置でした
36°27′47.00″N 127°06′51.71″E

高千穂峰
北緯31度53分09.97秒 東経130度55分08.36秒
31°53′09.97″N 130°55′08.36″E
https://maps.gsi.go.jp/#15/31.886213/130.918992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

藤原宮跡
北緯34度30分08.62秒 東経135度48分26.70秒
34°30’08.62”N 135°48’26.70”E
https://maps.gsi.go.jp/#15/34.502151/135.807196/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1





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