古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

卑弥呼と天照大神と稗田阿禮

2005年03月23日 18時54分07秒 | Weblog
 今まで、卑弥呼が天照大神であるということを前提に論を進めてきました。それで構わないとは思います。しかし、証拠がないと安心できない方もおられるでしょう。そこで証拠をお目にかけます。ただ証拠というには、当方の思い込みが強いだけかもしれません。
 まず井沢元彦氏の論説を引用します。それから証拠を提出します。
 井沢元彦氏『逆説の日本史』古代黎明編によると、‘卑弥呼という名前の「卑」とか「弥」とかいう字には意味はない。・・ただ中華思想の嫌らしさは、中国(文明国)以外の人名には「卑」のような「卑しい」字を当てるということだ。もちろん、卑弥呼が「卑しい女王」であったのではない’p220
‘大和朝廷では、その支配者である天皇の祖先神の天照大神は、その名の示す通り明らかに太陽神である’p224
‘もし卑弥呼が「日巫女」だったとすると、それは太陽神に仕える巫女だったことになる。また「日御子」だったとすると、神そのものの化身だったことになる。両方の意味に解釈できるということは、どういうことか。両方の意味を兼ね備えていたと解釈するのが一番妥当ではないだろうか。おそらくヒミコもアマテラスと同じく巫女であり、同時に神の化身だったに違いない。’p225
そして井沢氏は「天の岩戸隠れ」と西暦248年9月5日に起きた「皆既日食」を関連付けて天照大神のモデルは卑弥呼であり、邪馬台国は大和朝廷の源流であるとします。そこで井沢氏は日食が起きたのは卑弥呼の責任と考えられて、殺されたのではないかと推測しています。また松本清張氏の説は、戦争に負けたから卑弥呼は殺された、だそうです。
 しかし私は最初の卑弥呼は戦争そのもので殺されたと考えています。そしてその後皆既日食がおき、卑弥呼がいなくなったので太陽が消えたと考えられたのではないでしょうか。そこで卑弥呼の復活が待望されます。早く卑弥呼が戻ってこないと大変なことになる。その渇望の心が、悲惨な戦争を目の当たりにして、そのときちょうど神がかり状態になった、十三歳の少女トヨをして、卑弥呼の生まれ変わりとさせたのです。その方が自然だと思うのですが、それは置いときます。
 さて、天照大神が卑弥呼であることの証拠ですが、古事記の序文に載っています。これも暗号となっています。問題は卑弥呼の‘卑’と天照大神が象徴する太陽‘日’が結びつくかどうかです。
 
 その暗号は「稗田阿礼」の名前そのものです。「古事記」は天武天皇の勅命によって「稗田阿礼」がよみ習ったものを太安万侶が書物にして元明天皇に献上したことになっています。話はずれますが、この設定からして奇妙なのです。古事記の文章だと、天武天皇は稗田阿礼に勅語して帝皇日継、先代旧辞をよみ習わせた、となっています。もともと文章としてあるものを稗田阿礼は暗記をして、何十年か経た後、元明天皇の時代に、太安万侶は稗田阿礼の暗誦したものの中から選んで、それを書物にして献上したことになります。これだったら稗田阿礼の存在は必要ありません。太安万侶は直接文献に当たればいいのです。それともその旧辞などは稗田阿礼が暗記した後に散逸してしまったのでしょうか。それとも、太安万侶は文章が残されていたとしても、その文章を読む力がなかったのでしょうか。ともかく不自然です。
 しかし私の言わんとすることはもっと単純なことです。「稗田阿礼」という名前そのものです。この名前を良く見てください。
 ただし「稗田阿礼」の「礼」の字は古事記の表記のように旧字の「禮」でなければなりません。「稗田阿禮」です。この字の左の方、すなわち偏のほうを全て取っ払ってください。「田」という字も左の部分を消します。難しいのはここだけです。するとこうなります。
『卑日可豊』
 「稗田阿禮」の名前の中には卑弥呼の「卑」は「日」であることが隠されていたただけでなく、最後の卑弥呼トヨ・豊の名前まで浮かび上がりました。
 源氏物語には「偏つぎ」という遊びがでてきます。「葵」「橋姫」に記述されています。
 漢字の知識を競い合う遊戯だそうで、女性や幼い子供たちによって遊ばれたそうです。インターネットで検索したところによると、「具体的には漢字の旁を示してその旁に適した文字を完成させたり、逆に偏を示してそれに適当な旁を付けさせたり、旁を隠して偏だけで何の字なのか当てさせたりする遊び。」だそうです。
「稗田阿礼」の場合もこの「偏つぎ」と同じです。
さてこの「卑日可豊」。完全な中国語にはなっていないようです。(何もいわずに、中国の人に読んでもらったところ何を意味しているのかわからないといわれました。)
 しかし我々には意味は分かります。卑弥呼の「卑」の字は「日」という意味であり、卑弥呼は「日御子」、「日巫女」であり、卑弥呼はトヨでよしとか、当然トヨでなければならない、となります。
「稗田阿礼」全体としての意味は、やせた田んぼで生まれた、すなわち、身分の高い家柄の出身ではないということを表わしているのでしょうか。「あれ」は生まれるとか出現するとか言う意味の言葉です。
 卑弥呼の出身が身分の高いものではなかったと、いいたいのかどうかはわかりません。仮にそうだとすると、中国の唯一の女帝・則天武后の影響でしょう。則天武后は身分の高い家柄の出身ではなかったそうです。今では評判は良くないようですが、古事記の編纂時にはまだ評判はわるくなかったはずです。彼女は西暦705年に亡くなりました。古事記は712年に完成しています。
またキリストも、父親は大工ですから身分が高いとはいえません。(世間的な通念ではそうなっているようです。しかし現代では、何をもって身分を高いとするのかは、わからなくなっています。それ自体の概念がなくなっています)
 事実は別にして、多分当時は、最頂点に立つものは身分の高い出身といいにくい雰囲気があったのではないかと思われます。しかし卑弥呼が身分の高い出身かどうかは、もともとはどちらでもいいことです。
私は、卑弥呼トヨは奴国王・登美毘古の娘の可能性を捨て切れません。
稗田阿礼にはもう一つ読みようがあります。稗・田阿礼と区切れば、‘卑はだあれ’すなわち‘卑弥呼って、だあれ’となります。
 これらは暗号なのですが、あまり簡単すぎて納得しにくいかもしれません。単なる偶然と考える人もいるでしょう。
しかし易経のこの部分を読むとそうではないことがわかります。 続く
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