古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

なぜ二人の「ハツクニシラススメラミコト」がいるのか

2005年03月22日 22時48分40秒 | Weblog
 
 昨日の問題は大和朝廷成立の根本的な問題が含まれそうです。ただ、いまいちはっきりしないことがあります。
 スサノヲは最初の卑弥呼と弟・登美毘古にとって敵です。そしてスサノヲは戴斯烏越で、神武天皇と同一です。最初の卑弥呼と神武天皇は敵同士です。
そして最後の卑弥呼トヨとスサノヲは味方、同一陣営になります。
スサノヲは卑弥呼にとって敵でもあるし、味方でもあります。
言い換えるとスサノヲと天照大神はやはり敵でもあるし、味方でもあります。
 高天原で天照大神とスサノヲは誓約(うけい)をし、その後スサノヲが大暴れをするのは敵同士のときのことです。天の石屋戸から出てきた後の天照大神は卑弥呼トヨになり、スサノヲは高木の神に変わっています。そして、高天原から追放されるスサノヲは、卑弥呼トヨの御子に変わっています。しかし、出雲に降り立ったとたんに、元のスサノヲに戻ってヤマタノオロチを退治します。
移動する一瞬で、時空を飛び越え、人格も一変します。

わかっていただけるかどうかわかりませんが、この場面で私の言いたいのは、
ある時期以降の大和朝廷にとって、神武天皇で表わされるスサノヲは敵だということです。
だから、二人の「ハツクニシラススメラミコト」が存在するのではないかと考えます。
 
≪神武天皇は古事記では
「神倭伊波礼毘古天皇」(かむやまといはれびこのすめらみこと)
日本書紀には
「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)
崇神天皇は古事記では
「初国知らしし御真木天皇」(はつくにしらししみまきのすめらみこと)
日本書紀・崇神紀十二年条
「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)
「記・紀」では崇神天皇が第一代の天皇と伝えている。
ところが日本書紀では神武天皇も第一代の天皇とされている
       講談社学術文庫・古事記(中)p99≫
なぜ二人の『ハツクニシラススメラミコト』がいるのか、謎とされてきていました。それは、敵と味方に分解したからです。
また古事記では味方の部分、スサノヲの後半からを初代の天皇にしたと思われます。
神武天皇は敵で、崇神天皇は味方ですが、どちらもスサノヲなのです。
スサノヲを敵と味方に分解して、天皇をそれぞれに配当させたのです。

そして、「記・紀」の中では、敵とされる‘登美毘古’こと‘那賀須泥毘古’は最後の卑弥呼トヨの父親である可能性もあるのです。

『神武東征』の中には「壬申の乱」も描かれています。そして日本書紀の「壬申の乱」で描かれているよりも、真実であると思わせるものがあります。
『神武東征』の神武天皇・邇芸速日命(ニギハヤヒ)・ナガスネビコの関係は、物語の中で天武天皇・物部連麻呂・大友皇子の関係に変化しています。
壬申の乱では大友皇子は自害された、ということになっていますが、実は違うということが、書紀の『神武東征』の最後でわかります。
天皇家は後に天武系列から天智・大友系列に変わります。その大友皇子がナガスネビコに擬せられているということは、ナガスネビコが敵ではなかったと同時に、卑弥呼トヨの父であったという可能性が大いにあるのです。

卑弥呼トヨとスサノヲの間の御子が天皇家の始祖です。そして卑弥呼トヨがナガスネビコの娘だったとしたら、天皇家は247年の戦争で戦ったもの同士の子孫ということになります。
 卑弥呼トヨは御子を産むために瀬戸内海を東に渡ったのです。

また、「武」がつく天皇は敵とみなされたと考えたのですがどうでしょうか。
神武天皇以外では、天武天皇系列の(天武)・文武・聖武天皇があげられます。
いいだろうと思ったら、桓武天皇がいました。ありゃりゃ。
都を変えたからかしら?それとも母系の関係かしら、いまのところ考えていないのでわかりません。


 
 
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