古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

卑弥呼の子孫と朝鮮の結びつき Ⅱ

2007年12月21日 22時06分42秒 | Weblog
2007・1/31、2/3には
平壌(ピョンヤン)-高千穂峰-江戸城天守閣の三点を結ぶ三角形は直角二等辺三角形であることを見ました。
高千穂峰→平壌(ピョンヤン)
 ①330.979度 ②147.975度 ③921.1187km
高千穂峰→江戸城天守閣
 ①60.2160度 ②245.138度 ③918.4195km

360-330.979+60.2160=89.237度
距離は921.1187kmと918.4195kmになり2.6992km差でほぼ同じ

そして、伊勢神宮・外宮は高千穂峰と江戸城天守閣の測地線上にありました。
また、鹿島神宮、香取神宮はこの測地線上にあるとはいえませんでした。

高千穂峰→伊勢神宮・外宮
 ①60.1840度 ②243.353度 ③610.629km
高千穂峰→江戸城・天守閣
 ①60.2160度 ②245.138度 ③918.4195km
伊勢神宮・外宮→江戸城・天守閣
 ①63.4483度 ②245.202度 ③307.7907km
307.7907+610.629=918.4197km
20cmの違いがありました。

 江戸城天守閣があまりにも意味のあるところに存在したうえに、この直線の延長線上に鹿島神宮、香取神宮がないこともあり、両神宮を考察から省いてしまいました。
 ですがもともとは、高千穂峰、伊勢神宮の直線は鹿島、香取神宮に向かうものだったようです。古代には江戸城はなかったのですから。

高千穂峰→伊勢神宮・内宮
 ①60.5756度 ②243.755度 ③610.8297km
 Ⅰ60°41′13.07″ Ⅱ243°52′00.67″ Ⅲ611,841.546(m)

高千穂峰→鹿島神宮
 ①60.4754度 ②245.908度 ③1003.265km
 Ⅰ60°34′55.27″ Ⅱ246°00′54.99″ Ⅲ1,005,050.174(m)

伊勢神宮・内宮→鹿島神宮
 ①63.5001度 ②245.752度 ③392.4376km
 Ⅰ63°35′58.38″ Ⅱ245°51′07.65″ Ⅲ393,211.238(m)

610.8297+392.4376=1003.2673km 2.3m違い
611,841.546+393,211.238=1005052.784    2.61m違い

2mほどの違いですから、誤差の範囲内でしょう。(たぶん)

ですから、くどいですが、
高千穂峰・伊勢神宮・江戸城天守閣・鹿島神宮は一直線上にはありません。
ですが、高千穂峰・伊勢神宮・鹿島神宮は一直線上であり、平壌(ピョンヤン)との間で直角三角形を構成します。
 (360-330.979+60.4754=89.4964度)
 ではなぜ、江戸城の位置が直角二等辺三角形を創る位置にもかかわらず古代では江戸城の位置に神宮を置かなかったのでしょうか。
 前回書いていましたが、図を見るとわかるように、武寧王陵(ムリョンワンヌン)、扶余(プヨ)の位置から真東の方向に、隠岐島、諏訪大社があり、その延長上に鹿島神宮・香取神宮を置くためです。(ただし、一直線上、測地線上にはなっていません)
 
 鹿島神宮などが藤原氏と関わりがあることは聞いています。
 そこでで検索してみました。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/huziwarasi.html
≪【常陸と藤原氏】
常陸には、最高神として鹿島の神「武甕槌神(タケミカヅチ)」が祀られています。
この神は藤原氏の祭神であり、奈良の春日大社に筆頭の神として祀られています。
では、常陸と藤原氏にはどのような関係があったのでしょう。
『大鏡』及び『多武峰縁起』には、藤原鎌足が「常陸国でうまれたまえり」と記していますが、この『大鏡』は信憑性を疑う記載が多く、鵜呑みにはできないといわれています。それは、「藤原氏家伝」に「鎌足は大和国高市郡大原で生まれた」と記載されているからです。
しかし『大鏡』の中で、藤原鎌足が常陸国出身とされるにはそれなりの理由があったに違いありません。≫

 
 建御雷神(たけみかづちのかみ)については考察したことがありましたが、雷ですから、阿武山古墳の主を殺した直接の原因です。
 ともあれ、鹿島神宮や香取神宮は藤原氏と極めて関係が深いようです。
 そして、平壌(ピョンヤン)・高千穂峰・鹿島神宮、香取神宮を結ぶ三角形が直角三角形になる図から、藤原氏と朝鮮のつながりが深いことがわかります。

また平壌(ピョンヤン)→鹿島、香取神宮の直線Aの角度と、公州(コンジュ)・武寧王陵(ムリョンワンヌン)と伊勢神宮を結んだ直線Bの角度と似通っています。
以前考察したのですが、このBの直線は伊勢神宮・内宮-平城京-出雲大社の直線の延長線上のものです。

平壌(ピョンヤン)→鹿島神宮
 ①99.9206度 ②289.012度 ③1353.406km
平壌(ピョンヤン)→香取神宮
 ①100.431度 ②289.451度 ③1347.704km
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→伊勢神宮・内宮
 ①101.569度 ②287.148度 ③896.148km

百済の首都であった扶余(プヨ)と比べてみましょう
 扶余(プヨ)→伊勢神宮・内宮
  ①100.020度 ②285.701度 ③910.2549km
 ほぼ100度の線のようです。

 また、直線Aの長さは直線Bの長さのほぼ1.5倍です。(これは関係ないかしら)

また、直線A(Bではありません。修正しました。12/25)の線上に気多神社が、ちょっとのズレはありますが、のります。
隠岐島と出雲大社と宇佐神宮は一直線上になります。(隠岐島・玉若酢命神社よりも西側の地点で)

では、これらからどんなことが推測できるでしょうか。
まとまっていませんので次回

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 卑弥呼の子孫と朝鮮の結びつき | トップ | 12/25。続き。 »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事