古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

豊・雷火豊・トヨと大和

2005年03月23日 20時44分05秒 | Weblog
 「豊」は音では「ほう」と読み、訓では「とよ」と読みます。そこで易経の『雷火豊』のところを見てください。この『雷火豊』の卦から最後の卑彌呼の名前トヨを表わすものとして豊の字を持ってきました。『豊』という字を「とよ」と読むことにしたのです。
 「雷火豊」にはこう書かれています。「岩波文庫・易経下・p154」
 
 彖(たん)に曰く、『豊は、大なり。』(彖(たん)伝・・豊とは大という意味である。)
日中に宜(よろ)しというのは、常に天下に照臨することを心がけよということである。とはいえ、日は中天まで昇ればやがて傾き、月もみちればやがて欠ける。このように天地の満ち欠けは、その時に従って消息するものであるから、ましてや人や鬼神もその勢いが時とともに盛衰するのはむろんのことである。
 しかし、豊大の勢いを保持することを心がければよろしい、そうです。
 
 象に曰く、『その屋を豊(おお)いにす』とは、天際に翔る(かける)なり。その戸を闚(うかが)うに、闃(げき)としてそれ人なしとは、『みずから蔵(かく)るるなり』。
(象伝)その屋を豊いにすというのは、『天の際にとどくほど屋根を高くする』こと、つまりじぶん一人で思い上がることである。その戸をうかがうに闃(ゲキ)としてそれ人なしというのは、『自分からとじこもって隠れること』である。
この『』部分はこうなります。

・豊は大なり。これは大国主命、大穴牟遅の大を表わしています。大国主命、大穴牟遅は卑弥呼トヨのことである、といっています。

・屋根を高くすること。これは出雲大社を表わしています。「雲太、和二、京三」と表わされるように出雲大社は東大寺よりも、御所よりも高い建造物だったのです。事実はともかく、そうでなければなりませんでした。(こうもいえます。東大寺は出雲大社よりも屋根を高くしてはならなかった。また、出雲大社に卑弥呼が祀られていることも確かになります。)

・自分から閉じこもって隠れる。これは天照大神が天の岩屋戸に閉じこもったことをさします。
 最初の卑弥呼の死を、卑弥呼自ら天の石屋戸に閉じこもったとしたのです。

 さてここまでくれば、天照大神は二人の卑弥呼が基になっていることは否定しようがありません。また死ぬときのイザナミも、大穴牟遅も卑弥呼が基になっています。
 
 この「豊」を大胆に意訳します。
 豊は盛大であるけれども、油断をすれば傾く。油断するなと、なります。
 
 なぜなら、二人の卑弥呼の死は「油断」のせいで奇襲を受けたと考えられていたからです。

 もちろん易経のほうは卑弥呼を知りませんから、日本のほうで易経に合わせたのです。
 『大和』
 いずも・出雲は旧約聖書から採られたものですが、「やまと」に『大和』という字を当てたのは易経からです。
 周易上経の最初の乾(けん)(乾為天(けんいてん))の彖(たん)伝に出てきます。ここから採られた言葉です。
「・・・各正性命、保合大和,乃利貞。・・・」
「おのおの性命を正しくし、大和を保合するは、すなわち利貞なり。」と読まれ「保合大和」は「大自然の調和を保有し和合する」と訳されています。
岩波文庫 易経上p81
この訳し方は一般的にはわかりやすくて正しいのでしょうが、わたしのいう意味はわかりにくくなります。
私の以前読んだ本では
「保合大和」は『陰陽を統一し保合する状態』と出ていました。この訳だと、なぜ出雲大社・平城京・伊勢神宮が一直線上に並ぶのか、はっきりと見えてきます。平城京が易経に出てくる「大和」に見立てられたのは一目瞭然です。
 (ただそうすると、ともかく一応、出雲大社は陰で、伊勢神宮は陽となるのでしょう。しかし、実はそれほど単純ではないと思われます。陰・陽で表現するとそこが厄介になります。)
 
 地図から推察すると、出雲大社が中心に見えるのですが、それは出雲大社が西方および朝鮮半島を視野に入れていたためで、たぶん東方は伊勢神宮が受け持ったのでしょう。
 これが出雲大社に祀られている大国主命が西を向いている理由の一つとして加えられるかもしれません。(一つには、仮想の方向としての西)
 そして、最終的に出雲大社と伊勢神宮の気を平城京に集中および発散するという構想だったものと思われます。
 呪力のインターネットと考えたゆえんです。

 平城京に遷都されたのが西暦710年(和銅3年)3月
古事記が太安万侶によって撰上されたのが712年(和銅5年)1月
日本書紀が舎人親王によって撰上されたのが720年(養老4年)5月
出雲大社も、伊勢神宮も現在地にいつ越してきたのか、はっきりとしないようですが、この710年から720年の間に両社は現在地に完成しているはずです。
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